九十三話 灰色
シロッツを出て数日間、ミディエスは一つの所に留まり続けていた。
彼女は、まだ生きており、死んでしまったわけではない。
かといって、安住の地に辿り着いたわけでもなかった。
シロッツより南に位置する村、その村の西側で、ひたすら土嚢を積み上げる仕事をしていた。
その村の名前はビタ村といい、シレコス川の近くにある村である。
シレコス川はギガリン山脈から、シロッツ目掛けて北へ伸び、シロッツに到達する数キロ前で西へ湾曲するため、バイリア大陸の西にその河口を持つ。
シコレス川は、大雨が降ると氾濫する時もあるため、ビタ村の西側に堤防を造り、溢れでた濁流からビタ村を守っていた。
しかし、数日前の大雨により、氾濫した川の水が堤防を超えることがあった。
幸い、氾濫した川の水位が堤防より少し高いだけであったため、被害が出ることはなかったが、万が一のために、こうして堤防の拡張工事を行っているのであった。
堤防は、積み上げた土嚢の上に、土を被せて固めたもので、拡張工事は堤防の上に土嚢を積み上げた後、同じように土で固めるつもりだ。
土嚢を運ぶ作業は、誰でもできる仕事であるため、放浪者であるミディエスにも受けられる仕事である。
その仕事の報酬は、一人200Qと安いものであるが、仕事さえまともに受けさせてもらえないミディエスにとっては、大金も同然であった。
「よい…しょ…」
堤防の上にいるミディエスは、肩に担いでいた土嚢を前に下ろした。
ロクな食べ物しか口にしていない彼女は、以前よりもやせ細っていたが、生まれ持った足腰の強さは衰えていなかった。
「おーい! 灰色ぉ! 今日はそれで終わりにして、降りて来い! 」
「はい…」
堤防の下にいるビタ村の村長が、ミディエスを呼んだ。
ここでは、ミディエスは灰色と呼ばれていた。
それは、ミディエスの髪の色が灰色であるのと、彼女が自分の名を名乗らなかったからだ。
今の自分をミディエスと呼ぶのは、ケドキロスから貰ったその名を汚してしまうと思ったのである。
「あっちで、炊き出しをやってるから行って来い」
下りてきたミディエスに、村長が言った。
ミディエスは、村長に頭を下げると、彼が指を差す方向に向かう。
そこには、多くの男達の行列ができていた。
どの男も身なりが貧しく、ミディエスと同じ浮浪者のようであった。
「次…はい次…」
行列の先には、汁物の入った器を男達に渡す恰幅のいい女性がいた。
その恰幅のいい女性の表情は険しく、嫌々やっているという印象を受ける。
「……」
ようやくミディエスの番が来た。
ミディエスは、恰幅のいい女性に向けて左手を差し出そうとしたとき――
「ああー腹減ったぜ! おいババア、早く飯を寄越せよ」
「あっ…」
ミディエスの後ろにいた男が、彼女の前に割り込んだ。
「…はいよ」
男の発言に恰幅のいい女性は、眉間に皺を寄せるが、その男に器を渡す。
「へへっ! この仕事はいいぜ! 金も貰えるし、なってったてタダで飯にありつけるんだからよぉ」
男は上機嫌で、この場を去っていく。
「どけっ! 邪魔だ! 」
「あうっ…!? 」
ミディエスは、更に後ろにいた男に突き飛ばされ、列からはみ出してしまった。
行列の感覚は狭く、もう元の場所に戻れないと悟ったミディエスは、行列の後ろに目を向ける。
行列は長く、再び最後尾に並ばなければならないと思ったミディエスは、途方にくれた。
再度並び直したミディエスだが、その日、彼女が汁物を口にすることはなかった。
ミディエスが堤防拡張工事に参加して数日。
堤防は以前よりも高くなり、工事は土を被せる作業に移った。
そこで土を運ぶミディエスは、乗り気でない様子であった。
自分に対する待遇に不満を持っているのではなく、土嚢積み上げ作業に納得していないからだ。
ミディエスは、もう少し堤防を高くするべきだと思っているのだ。
それを村長に進言したのだが――
「……浮浪者のくせに、わしに異見するのか? 」
と一蹴されてしまった。
ミディエスが納得しないまま、工事は最終段階に入り、やがて完成へと辿り着いた。
多くの男達は、報酬を受け取ると、ビタ村から去っていったが、ミディエスだけは堤防の近くにいた。
(川の様子…おかしくないですか? 堤防を高くしたのに、まったく安心できません…)
ミディエスは、胸騒ぎがしたため、ここに残ったのであった。
そして、その胸騒ぎは的中する。
堤防が完成してから、三日も経たないうちに、大雨が振った。
「……これは、まずいかもしれません」
ミディエスは、堤防の下から川を眺めていた。
川の水位は、堤防の半分の高さになりつつあった。
ミディエスは、堤防から下り、早足でビタ村に向かった。
「村長! 村長! 」
村に入り、村長の家に辿り着いたミディエスは、ドアを叩きながら必死に叫ぶ。
「なんだ、こんな大雨の日に……って灰色か。はっ! 雨宿りにでも来たのか? 」
村長は、ずぶ濡れのミディエスを嘲笑する。
「違います! 今すぐ、村のみんなを連れて逃げてください! 川の水が……」
「はぁ? 堤防を拡張しただろうが。騒ぎを起こして、自分に構って欲しいいのか? 」
「違います! そんなんじゃ――」
「じゃあな]
村長は、ドアをバタリと閉めてしまう。
「村長! 村長! 」
ミディエスは、必死にドアを叩き続けるが、村長が反応することはなかった。
「くっ……このままでは…」
ミディエスは、顔を青くしてシレコス川の方を見る。
「堤防を高くして安心しきっている……絶対に大丈夫だと思い込んで、避難しないんだ」
ミディエスは、そう言った後、自分の左手に目を向ける。
「わたし一人に、川の氾濫を防ぐことができるだろうか……」
ミディエスが、堤防に来た時には、その堤防の上から泥水が滴り、堤防の下に大きな水たまりを作っていた。
それは、川の水位が堤防の高さまで到達したことを意味している。
「もうこんな高さに…! こ、これ以上高くなっては――」
とミディエスが口を開いた時、堤防の上部、一つの箇所が決壊し、大量の泥水が吹き出した。
「くっ…」
ミディエスは、左手を突き出し、泥水の制御を試みた。
自分の作り出した水流と違って、自然が作り出したそれを制御するのは至難の技である。
ミディエスは、泥水の一部を止めることができた。
そして、制御しきれなかった泥水がミディエスに襲いかかる。
「うわっ…」
大量の泥水を被ったミディエス。
足を踏ん張り、なんとか倒れることはなかった。
大雨により、ミディエスについた泥はすぐに下へ落ちていく。
ミディエスは、制御に成功した泥水で、水の壁を造る。
これにより、一時しのぎの堤防の拡張を行い、川の氾濫を防ぐことができた。
「お、大雨が止むまで…耐えなきゃ…」
ミディエスは、全神経を水の壁の維持に捧げる。
体中に走る痛みも無視して。
次の日の朝。
ビタ村は、川の水に沈むことはなかった。
コン! コン! コン!
村長の家のドアを叩く者がいた。
「なんじゃ、こんな朝早く…」
村長は、昨日にミディエスが来たこともすっかり忘れ、ドアの方に向かう。
「はいはい、誰ですか? 」
村長はドアを開いた。
そして、目の前のものに言葉を失い、しばらく呆然とした後――
「ば、化物だあああああああ! 」
と村長は叫んだ。
その叫び声は、村中に響き渡るほど大きく、怯えるかのように震えていた。
ミディエスは宛もなく彷徨う。
ビタ村を救った彼女は、あの後、村の人々から罵声を浴びせられ、村を追い出されていた。
その時、彼女は村の人々が言った言葉を理解出来なかったが、自分を非難していることは分かった。
ミディエスは歩き続ける。
お金も手に入ったことで、食べ物を買いにシロッツへ向かっていた。
シロッツへ続く街道に出た時、ふと北西の方の森に目が入った。
目に入ったのでミディエスはそこに向かう。
その途中にあった廃村に目もくれず、ミディエスは森の中へ入っていった。
イアンとミークはトカク村跡、その奥にある木の棒で作られた墓標の前に佇んでいた。
イアンの隣にミークが並び、二人共目を瞑っている。
「……ここに、テッドという子供が眠っている。そのテッドが、オレが冒険者になったきっかけを作ったようなものだ」
目を開けたイアンが、ポツリと呟いた。
「テッド…っていう子と会っていなかったら、イアンさまは、何になっていたと思います? 」
ミークも目を開けて、イアンに問いかけた。
「さあ? この村に神父が来なかったら、今までどおり木こりをやっていただろう。それか、宛もなく彷徨い続けていただろうな」
「ひえっ! この子がイアンさまと会っていなければ、俺がイアンさまと出会うことはなかった……この子に感謝しないと」
ミークは、テッドの墓標を拝みだした。
「……おまえと会ったのは、メロクディースのせいだと思うけどな」
イアンは、呆れた表情でミークを見る。
「何を言いますか! イアンさまが冒険者にならなければ、そのメロちゃんと会うこともなかったじゃないですか! 」
ミークが、イアンに詰め寄る。
ミークは、メロクディースのことをメロちゃんと呼んでいた。
「わかった、わかった。顔が近いぞ……あと、あいつと会っていなかったら、あの時こうなっていなければと考えるとキリがないな」
「ふむぅ…そうですなぁ…」
その後、二人は口を閉ざし、喋ることはなかった。
「……イアンさまの家に行きたいな」
しばらくすると、ミークの口が開かれた。
「ふぅ…オレの家には何もないがな。そろそろ行くか」
「やった! 」
イアンの後をミークが小躍りしながらついていった。
「むっ? 」
「…? どうしかしたんですかい? 」
トカク村跡を出た後、歩いていたイアンが急に足を止めた。
視線は、下の方に向いている。
「……何か大きいものを引き摺った跡がある。それが……」
イアンは顔を上げ、地面に伸びるその跡を目で追っていく。
「どうやらオレの家、グリン森林の方に続いているな」
「えっ! 誰かいるんですかね? 」
ミークは、地面の跡とグリン森林を交互に見る。
「さあな。どのみち、オレの家に行くんだ。言ってみれば分かるだろう」
イアンは、とりあえず自分の家を目指した。
イアンとミークは、グリン森林の手間に来た。
そこには小さな小屋がある。
その小屋は、かつてのイアンの家であり、彼が出て行ってから何一つ外観は変わっていなかった。
「ふむ…どうやら、森林の中に入っていったな」
引き摺った跡は、森林の中に続いていた。
「真っ直ぐ森林に入ったようだな。ここの中…泉しか無いが、何か用があるのか? 」
「とりあえず、行ってみましょうぜ! 気になって、イアンさまの家でくつろげないぜ! 」
ミークが、森林の中に入っていく。
「さて、何が出てくるか…」
イアンもミークに続いて、森林の中に入っていった。
引き摺った後は、真っ直ぐ泉の方に向かっており、やがてイアンとミークは泉に辿り着いた。
「さぁーて! 気になる正体……は…」
「……予想していなかったとは、言わんが…」
二人は、泉の前に佇むものを前にして、驚愕の表情を浮かべていた。
「まさか、大型の魔物…とはな…」
イアンの頬に、汗が垂れる。
泉の前にいたのは、大型の魔物であった。
魔物の周囲に浮かぶ水流、それが普通の魔物とは違うことを表し、イアン達に、かつてないほどの緊張感を与えるのだった。
2016年6月8日―誤字修正
デッド…っていう子と会っていなかったら → テッド…っていう子と会っていなかったら




