八十七話 ノタソン村の悲劇
航海を終え、バイリア大陸に辿り着いたイアンは、カジアルのキャドウが営む宿屋にいた。
その一室、いつもイアンが使っている部屋のベッドで、彼は寝転んでいた。
昼間であるにも関わらず、依頼に行くこともしないで、ゴロゴロしているのには理由があった。
ランクアップ試験をすっぽかし、冒険者ランクが上がらなかったのだ。
試験の日には、イアンはミッヒル島におり、彼はすっかりそれを忘れていたのである。
今日、ギルドに依頼を受けに行き、受付の人にこっぴどく怒られ、その時にようやく思い出していた。
しかも、試験を受けないという旨をギルドに申請していなかったため、一定期間の間、依頼を受けるのを禁止する罰則を課せられていた。
それらが積み重なり、こうしてイアンは沈み込んでいるのである。
「……何もやる気が起きん」
イアンは、寝そべりながら呟いた。
いっそ今日は、このまま寝ていようかと考える始末である。
「イアンさまー、今日はどこにも行かれないのですかー? 」
ドンドンとミークがイアンの部屋のドアを叩く。
彼もこの宿に泊まっていた。
ミークも冒険者になり、ランクはEである。
「ミークか……」
イアンがドアに目を向ける。
ミークは、イアンが依頼を受けることを禁止されたと聞くと、自分も受けないと言い出し、ついて来ていた。
彼のドアを叩く音を聞き、ようやくイアンは、体を起こした。
「いつまでこうしていても、どうにもならん。しかし、何をするか……」
イアンは考えた。
何もすることがない今、自分は何をすべきかと。
真っ先に思いついたのは、モノリユスに頼まれた人探しである。
ここに帰ってきて、早々に取り組んだのだが、人に訊ねれば皆、イアンに指を差すばかりであった。
この町にとって、水色の髪と言えばイアンなのである。
「いや、他にもいるだろう」
思い出しながら、おもわずイアンは声を出してしまう。
「え? 何がです? 」
その声が聞こえたのか、ミークが反応した。
イアンはそれを無視して、再び考える。
今の状態を見れば、ミークがいることを省いて、自分一人という一番最初、ロロットと出会う前の状態であった。
「ふむ…一回初心に帰ってみるか」
イアンは、そう呟くと部屋の扉を開けて、廊下に出る。
「あっ! イアンさま。お出かけですかい? 」
イアンの部屋の前に立っていたミークが話しかけてきた。
「ああ。オレの家に行くぞ」
イアンは、自分の家があるグリン森林近辺に向かうことにした。
さて、イアンとミークがイアンの家を目指して歩いているうちに、ある少女について語らなければならない。
その理由としては、これからイアンの目の前で起こる出来事に、大きく関わる存在であるからだ。
まず誕生から、イアンと出会うその少し前までの、少女の人生を語るとしよう。
時は、十二年程前まで遡る。
――ノードラミス大陸――
世界で八番目に大きいとされる大陸。
三日月状の大陸に囲まれるかのように島がある。
そこにレムシトロークという王都があり、この大陸を統治していた。
王都には精霊教会堂があり、そこには水の巫女候補とされるほどの、人物が所属していた。
その女性はネレシーズと言い、水魔法に長け、精霊の声も微かに聞こえたとされていた。
教会はネレシーズに期待していたが、彼女はそれに答えることなく、自分の除籍を願った。
レムシトロークに訪れた戦士と恋に落ちたのだ。
このことに教会は遺憾を示したが、その戦士の名を耳にすると、あっさりと彼女の除籍を許すことになる。
戦士の名は、アッシスガトラ。
かつて、ダンクエレノスと呼ばれる魔物を退治した英雄の名であった。
ダンクエレノスは、ノードラミス大陸にあるノタソン村付近の海に生息していた魔物だ。
硬いウロコに覆われ、巨大な体躯から繰り出される攻撃に加え、水を操る能力を有する魔物で、水魔という異名を持っていた。
その水を操る能力は強力なもので、水流を槍状にして攻撃したり、分厚い水流の壁で防御したり、極めつけは津波を起こすことができた。
犠牲者は村人と討伐に向かった戦士も合わせて、数千人はいたとされる。
その水魔に一人挑んだアッシスガトラは、どんな剣でも弾いてきた硬いウロコを己の剣で切り裂き、幾多の戦士達を屠ってきた水魔と互角の戦いをした。
死闘の末、虫の息であったダンクエレノスの最後の悪あがきであろう噛み付きにより、腕を負傷したが、アッシスガトラは魔物を退治することができた。
教会が彼女の除籍を認めたのは、英雄と称されたアッシスガトラの名声もあるが、それだけではない。
英雄と巫女候補との間に生まれる子、その者がいずれ巫女として成長するのに期待したからだ。
こうして、二人は夫婦となり、やがて子供が生まれた。
その吉報に、村人達はもちろん、協会の人間達も大いに喜んだ。
協会は早速、生まれた子を一目見ようと、彼女達が住むノタソン村に急いだ。
「これ、アッシスガトラの家はどこか? 」
レムシトローク精霊教会堂の長であるレオモスが、歩く村人に声を掛けた。
「……」
村人は何も口にせず、村の奥にある一軒家に指を差し、この場から去ってしまった。
「なんだか様子が変ですね」
レオモスの部下の一人が村を見回す。
ぽつぽつと村を歩く者達がおり、皆顔を俯かせていた。
レオモスとその部下達は、子供が生まれたとういより、誰かが死んでしまった時のような印象を受けた。
「…難産で母子のどちらかが死んだのか? ……ええい、考えても埒があかん」
レオモスは部下達を引き連れ、アッシスガトラの家に向かった。
「入るぞ! うっ!? 」
家の扉を勢いよく開けたレオモスは、出迎えた人物を目にして声を詰まらせた。
「レオモス殿…ゴホッ! 」
レオモスを出迎えた人物はやせ細った男であった。
「お、お主はアッシスガトラか? 」
レオモスは恐る恐る口にした。
「え、ええ…このような情けない姿で信じられないと思いますが、私がアッシスガトラです…ゴホゴッホッ! 」
レオモスも含め部下達も開いた口が塞がらなかった。
かつてのアッシスガトラは頑強な体を持つ戦士であった。
しかし、目の前の彼は以前の面影さえも無いと言い切れるほど弱々しく見えた。
(もしや、村人達の様子が変であったのは、こやつが病気にでもかかったからなのでは)
レオモスは、そう思い込み――
「そうか。お主は無理をせず、ゆっくりと床にでもつくがよい。して、ネレシーズとその子に会いに来たのだが…」
と、アッシスガトラに訊ねた。
「……」
しかし、アッシスガトラは口を固く閉ざし、ただ黙りこくっていた。
「どうした? 何故、何も答えない? 」
「いえ……妻は子を産んだばかりで体調が優れません。我が娘も同様です」
「ほう! 娘とな!? 」
レオモスの顔が急激に明るくなる。
巫女というのは、女性にその素質がある。
理由は判明していないが、精霊は女性の前にしか姿を現したり、声を掛けることはなく、代々の巫女たちも総じて女性が務めてきた。
生まれた子供が、女であるだけで巫女になり得る素質はグンと上がるのだ。
レオモスの顔を見るアッシスガトラは、より一層体調が悪くなったかのように、顔をしかめていた。
「一目見るだけで構わん。次期水精霊の巫女の顔を見せてくれ」
レオモスは、アッシスガトラに構わず、家の中に足を踏み入れた。
「……! レオモス殿! 今日はお引き取りください! 後日…また後日会いに行きますので」
「待てんわ、むぅ! そこか。どけぇ! 」
「う…ぐぅ…ゴホッ! 」
レオモスは、アッシスガトラを押しのけて、部屋の隅にある布で囲われた一角へ向かった。
アッシスガトラはレオモスを止めることができず、突き飛ばされた拍子に、壁に激突して蹲った。
「ネレシーズ! 次期水の巫女に会いに来……う、ああああああ!! 」
布を取り払われ、ベッドの上で我が子を抱き抱えるネレシーズの姿が顕になり、レオモスの絶叫が木霊した。
「…ううっ」
「くっ…! 」
その絶叫を耳にしたネレシーズは、子を守るように、抱きしめる腕に力を入れ、アッシスガトラは万策尽きたかのように項垂れた。
「どうされましたか!? …おおっ!? こ、これは…」
レオモスの絶叫に、部下達は彼の元に駆けつけ、皆驚愕した。
ネレシーズが、抱き抱えているのは赤子であったが、その姿が異形であった。
顔の半分が青い肌で、耳は魚のヒレ状になっている。
右腕は櫂のように平べったく、臀部のあたりから、先端が芽吹き始めたばかりの双葉のような形状の尻尾が生え、まるで海中に生息する魔物の尻尾のようであった。
ネレシーズとアッシスガトラはどちらも人間であり、このような子供が生まれることは異常であった。
「ま、魔物ではないか! 」
レオモスは、そのあまりにも異形な姿の赤子を魔物と称した。
それを聞いたアッシスガトラは立ち上がり、レオモスとネレシーズの間に割って入る。
「そんな! 私の娘は呪いにかかっているだけです! きちんと呪いを解けば、元通りに――」
「黙れ! わしがどんな思いで、ネレシーズを教会から除籍したと思っておるのだ! お前達の子に期待していたのだぞ! それをお前は、魔物なんぞ産み落としおって! 」
「くっ! あなたは、いつもそればかり! この子の運命はこの子が決める。あなたに手出しはさせません」
ネレシーズに掴みかかろうとするレオモスをアッシスガトラが必死に止める。
「ええい、どけぇ! おい、何をしている! 早くこの魔物を殺せ! 」
レオモスは、唖然としている部下にわめき散らす。
「し、しかし…」
「姿は魔物だが、アッシスガトラ殿とネレシーズさんの子供だぞ……」
「い、いくら魔物の姿でも、あ、赤ん坊だぞ…こ、殺せるわけがない! 」
レオモスの部下達は、彼の命令に従うことができず、浮き足立っていた。
「命令を聞かんか! ええい、貸せぇ! 」
レオモスは、部下の腰に下げてある剣を引き抜き――
「この魔物め! 死ね! 」
とネレシーズが抱きしめる赤子に向けて、剣を突く。
「ぐぅ……ごフッ! 」
剣は赤子を貫くことはなかった。
アッシスガトラが身を挺したおかげである。
アッシスガトラの腹、そして口から血が滴り落ちる。
「いやあああああああ!! 」
「おのれ! アッシスガトラ! 邪魔を――ぐううう! 」
ネレシーズが悲鳴を上げ、レオモスはアッシスガトラにのしかかれ、共に倒れ込んだ。
「ネ、ネレシーズ! イまのうちに、にゲろ! デキルだけ、とオクに! 」
アッシスガトラが、レオモスを押さえつけながら叫ぶ。
その時の彼の声は、別の誰かの声が混じったような声をしていた。
「……くっ…ううっ…! 」
一瞬の迷いが生じたが、ネレシーズは赤子を抱え、ベッドから降りると腰を抜かして動けない部下達を押しのけながら、家を後にした。
「くそ! どかんか、貴様! 」
アッシスガトラに押しつぶされ、レオモスはジタバタと暴れる。
「レ、レオモス殿、最後にオネがいが…」
アッシスガトラが、息絶え絶えにレオモスへ声を掛ける。
「この期に及んで、なんだというのだ!? 」
「コノ村のミんなに、にゲるよう……」
「意味が分からんわ! このっ…どけぇ! 」
「レオモス様! 」
レオモスはようやくアッシスガトラを払い除け、部下に助けられながら立ち上がった。
「はぁ…はぁ…くそ! アッシスガトラァ…」
レオモスは、倒れ伏すアッシスガトラを睨みつける。
アッシスガトラはピクリとも動かなくなっていた。
英雄アッシスガトラ死亡――
水魔殺しの英雄として、人々から尊敬の眼差しを向けられていた彼にとって、この最後はあまりにも悲惨であった。
「レオモス様、ネレシーズ様が村人に逃げるよう叫びながら、走り去っていったのですが、何事ですか? 」
家の扉を開け、黒装束に身を包んだ男がレオモスに近づいた。
「トルペペスか…ちょうどいい、ネレシーズを追い、抱えた赤子を殺せ! この際、ネレシーズを殺しても構わん! 」
「御意に」
トルペペスは、一言そう言うと、素早い動きで外に出た。
彼は、レオモスの部下であるが、精霊教会に属さないものであった。
つまり、レオモスの私兵である。
彼の仕事は汚れ仕事が基本であり、出産後で弱った状態の母子を殺すことは、容易いことであった。
トルペペスは、逃げ惑う村人にぶつかることなく駆け抜け、一人の足跡を目で追いながら走っていた。
その足跡はネレシーズのものであり、彼女とすれ違ったときに、その足跡を記憶していたのだ。
「見つけたぞ」
数分立たず、トルペペスはネレシーズを視界に捉えた。
彼女の足は、弱っているのも関わらず、村のはずれにある砂浜まで来ていた。
「ふっ…流石は巫女候補と呼ばれたお方だ」
トルペペスは、ネレシーズに感心しながらも、その足を速める。
その時――
ドオオオン!
ノタソン村の方から、何かを吹き飛ばしたのような音がした。
その村には、彼の主であるレオモスがいる。
「ちっ! 」
トルペペスは、どこからか短剣を取り出すと、それをネレシーズに向けて投げ飛ばす。
その後、クルリと反転し、砂浜に倒れ伏すネレシーズを尻目に、ノタソン村へ向かう。
「母が死ねば、子は何もできない。死んだも同然だ」
トルペペスはそう呟き、ノタソン村に急いだ。
数分で、ノタソン村に辿り付いた彼が、目にした光景は、とんでもないものだった。
「あれは、噂に聞こえた水魔、ダンクエレノスか? 」
村の真ん中に、魚の姿を持つ巨大な魔物が佇んでいた。
その魔物の周りに、水流が流れるように宙に浮いていた。
「水を操る…やはり、ダンクエレノス。しかし、何故こんなところに…? 」
トルペペスは、疑問を口にしながら、辺りを見回す。
村の建物は例外なく破壊され、レオモスのいた、かつてのアッシスガトラは一際ひどい壊れようだった。
その家の残骸の下敷きになり、動かないレオモスにトルペペスは気づいた。
「レオモス様! レオモス様! 」
早足で、そこに辿り着いたトルペペスは、レオモスを救い出すと彼の名を何度も読んだ。
しかし、彼は返事をしない。
そこで、彼の脈に手を当てる。
「……息はあるようだな。良かった」
トルペペスは、レオモスがまだ生きていることに安堵した。
「ト、トルペペス殿…我らもお救いくだされ…」
まだ、家の残骸の中にいるレオモスの部下達が助けを求める。
トルペペスはレオモスを抱え、ダンクエレノスに視線を向けた後――
「貴様等は、意識があるようだな。ならば、自力で脱出するがいい」
トルペペスは、悲鳴を上げるレオモスの部下を無視し、ノタソン村を後にした。
ノタソン村の村人は全員逃げ延び、隣の村に保護された。
しかし、ノタソン村は壊滅、そしてダンクエレノスの復活という最悪の事態を引き起こした事件は、多くの死者を出した。
後日、その場にいた精霊教会堂のレオモスの協力のもと、レムシトローク王都騎士団の調査によって、発表された死者の名前の中に、アッシスガトラ夫妻の名前があり、人々は大いに悲しんだ。
ノードラミス大陸北部。
その東側の海に面する岩場。
ザッパーン!
「ぶわああああ! 」
一人の初老の男が、荒れ狂う海に釣竿の糸を垂らしていた。
波を被り、彼はビショビショになる。
「年に数度の休日…趣味の釣りに来たら、この海の荒れよう……わしゃ、なんてツイてないんだ」
初老の男は、ガチガチ震えながら釣竿を持っていた。
「あーもう、やめやめ! 終了! わしの休日もしゅーりょー! 」
初老の男性は、素早く釣り糸を竿に巻きつけると、この場を去ろうと立ち上がった。
その時――
「むっ! 魔法の気配がするのぅ。誰か近くにいるのか? どれ、居場所を暴いてくれよう」
魔法の気配を感じた初老の男は、その気配の出処を探る。
魔法の気配はすぐ近くの海に面した岩の隙間から発せられていた。
「ぐうう、そんなところで何を…おおっ!? 大変じゃ! 」
初老の男が覗き込んだ初老の男が目にしたのは、赤子であった。
球状の水に包まれた赤子が岩の隙間に引っ掛ているのだ。
初老の男は慌てて、赤子の救出にかかった。
「はぁ…なんとかなったわい。しかし、見事な水球よのぅ。赤子を守るために行使したのだろうが、海に捨てるとは感心できんな」
初老の男は、水球ごと赤子を拾い上げる。
やがて、水球が弾け、中にいた赤子の姿をはっきりと見ることができた。
「な、なんと! おっとと…ふぅ…」
赤子の姿に驚いた初老の男が、落としそうになった赤子を抱きとめて一息つく。
赤子の体の一部が、海の魔物のそれだったのだ。
「なんて子供だ。に、人間なのか? 」
初老の男が顔を引きつらせる。
「おぎゃあ、おぎゃあ! 」
その時、大人しかった赤子が急に大声で泣きだした。
「うお、泣いた! おーよちよち。もう大丈夫だからのぅ……はぁ…」
泣きだした赤子に対して、初老の男は、ついあやしてしまったと、額に手を当てた。
しばらく、赤子を見つめた後、初老の男は、赤子を抱えながら歩き出した。
(いくら姿が異形のものでも、この子は赤子だ。見捨てる訳にはいかん)
初老の男は、赤子をあやしながら考える。
(しかし、姿がなぁ……隠す必要があるのぅ)
赤子を抱えた初老の男が、荒れ狂う海に背を向け、岩場を後にする。
初老の男の名は、ケドキロス。
子供達に学問、剣術、魔法等を教える学び舎を持つ学者で、こうして身寄りの無い子供を拾っては、自分の学び舎に入れて育てていた。




