三百五十話 暗闇の中の丸い月
とある町の路地裏は、夜ということもあって人通りが少ない。
特にその日は少なく、二人の少女が歩いているだけであった。
一人は七歳、もう一方は三歳くらだろうか。
そのくらいの身長差があった。
そんな二人の少女は手を繋ぎ、横に並んで歩いていた。
「……髪……太陽みたいに赤くて、きれい」
背の小さい方の少女が呟いた。
そんな彼女が見上げる先には、背の高い少女の顔があり――
「えぇ? そう? 急にどうしたの? 」
嬉しそうに笑みを浮かべていた。
背の高い方の少女は、長く赤い髪をしていた。
明かりの無い中、その髪の色は黒に等しい。
背の小さい少女は、普段の彼女の髪の色を知っており、それが綺麗であると言ったのだ。
「でも、そっかぁ……ふふふっ! 」
赤い髪の少女が笑った。
嬉しくて笑っているようではなく、何か可笑しいことがあり、それを笑っているようであった。
「……? 」
故に、背の低い少女は首を傾げた。
「ふふっ、ちょっとね。嬉しいけど、太陽はあたしには似合わないかなって」
「どうしてー? 」
「うーん……どうしてだろ? 眩しすぎるからかな。あんなには、どうしたってなれないよ」
「う……ん? 」
赤い髪の少女は答えたものの、背の低い少女は理解できなかった。
ただ、彼女が悲しい気持ちになっているのは分かった。
声は笑っているのだが、表情が曇っているからだ。
自然とせの低い少女は、握る手の力が強くなる。
「ふ……」
それに気づいたのか、赤い髪の少女は優しく微笑んだ。
やがて、二人は路地を抜け、広い大通りに出る。
路地裏は暗かったが、そこは僅かに明るく照らされていた。
「ほら、見て……綺麗じゃない? 」
そこで立ち止まり、赤い髪の少女は空を見上げて、手を繋いでいない手で指を差した。。
点々と星々が輝く夜空に、ひときわ輝きを放つものがある。
赤い髪の少女の指先は、それを指していた。
「わぁ! きれい! 」
それは、見事な丸の形をした月であった。
その日は、満月の日であった。
「今日は丸くて、いっぱい光ってるねー……あっ! ねぇ、知ってる? 」
唐突に何かを思い出し、赤い髪の少女は得意そうな顔をする。
「……? なにを? 」
「月ってね、自分で光ってないんだってさ。実は、太陽の光を鏡みたいに反射してるんだって! 」
「え……? でも、太陽ないよ? 夜、太陽はどこにあるの? ないのに、なんで光ってるの? 」
「うっ!? それは、えっと……ごめん、分からないや。ははは……」
赤い髪の少女は、背の低い少女の疑問に答えられず、情けの無く笑う。
「むー……」
自分の疑問が解消されないことが気に入らないのか、背の低い少女は頬を膨らまして不機嫌そうにする。
そんな背の低い少女の様子を見て、赤い髪の少女は、さらに情けのない声で笑うのだった。
「あたしは、あの月みたいになりたいなぁ」
赤い髪の少女は、満月を見上げた。
その時、彼女はもう笑ってはいなかった。
「あたしは……あたし達は、あの空の黒い部分なんだろうね。そこらじゅうの星みたいに、輝きを持っていない……」
神妙な顔つきで、赤い髪の少女は呟いた。
背の低い少女は、彼女の顔から目を離すことができなかった。
その表情から、特に思うことは何もない。
ただ、今まで見たことのない表情であり、珍しいと感じているだけであった。
「でも……自分には無いものでも、輝きさえ手に入れれば、きっとなれるはず。あの月みたいに……暗闇の中でも輝ける存在に……」
赤い髪の少女は、そう言うと背の低い少女に顔を向ける。
「ねぇ……って、ありゃ? 」
すると、彼女は苦笑いを浮かべた。
背の低い少女が閉じかけた目をこすっていたからだ。
「ああー……今日は、いっぱい歩いたから、疲れちゃったか。いいよ、おぶってあげる」
「ん……」
背の低い少女を背負うと、赤い髪の少女は歩き始めた。
一歩進むごとに彼女の体は揺れ、背の低い少女の眠気を刺激してゆくのだった。
「あと、さっきの話は難しかったかなぁ。きっと、まだ早かったんだね」
目を完全に閉じた今、背の低い少女には何も見えなかった。
赤い少女の背中の温もりから、赤い髪の少女がそこにいることは分かる。
彼女の声もまだ聞こえていたが――
「ねぇ……また今度、聞かせてよね。ネリーミアが何になりたいかをさ……」
この言葉を最後に声は聞こえなくなり、温もりも感じられなくなった。
「あたしは……」
その時になって、背の低い少女は目を開き、口を開けることができた。
先ほどまで、重くのしかかっていた眠気が急になくなったのだ。
しかし、自分の周囲は暗闇のみが広がっており、町も夜空も月も無ければ、赤い髪の少女の姿も見えなかった。
何も無い空間に、いつの間にか立たされていた。
「僕はね……僕も月のようになりたいよ……」
その空間の中で、背の低い少女――かつてのネリーミアは、一人呟いた。
せっかく言いたかったことを言えたのに、どこか情けない雰囲気があった。
この返事は赤い髪の少女へは、伝わらない。
そのことがネリーミアにとって、辛いことであった。
胸がしめつけられるかのように苦しくなるほどに。
「……月…」
ネリーミアは、閉じていた瞼をゆっくり開けた。
彼女がうわ言のように、月と口にしたのは眩しいと感じたから。
その眩しいとするものは、天井に付けられた光を放つ装置である。
(月……じゃなかった? ああ、そうか。ここは、洞窟の中だっけ)
それと月を勘違いしていたことに気付き、ネリーミアは目を覚ました。
そして、現状を確認する。
まず、自分の体はまともに動かすことができなかった。
足は、打ちどころが悪かったのか感覚すら感じられず、全く動かすことができなかった。
首と腕は多少は動かせるものの、くぼみの深い場所にいるせいか動かせる範囲は限定される。
(はは……メルヴァルドさんは、すごいなぁ。これだけ強く叩きつけられても、まだ僕は生きてるんだもんね……)
自分が今、生きているのは、メルヴァルドが掛けた聖法術のおかげである。
ネリーミアは、心の中で自嘲気味に笑いつつ、そう思った。
自分の体の具合を確かめた後、視線を真っ直ぐ前に向ける。
すると、彼女の視界には、アルフ・ヴィガントの前で走り回るセアレウスとレリアの姿があった。
彼女達は、アルフ・ヴィガントの攻撃を躱しながら、魔法で応戦していた。
やはり彼女達の魔法は、見えない障壁に阻まれて消えてしまっていた。
(良かった。セラは無事で、レリアも戦ってくれている。じゃあ、僕も……行かないと……)
ネリーミアは、くぼみから抜け出そうと、体に力を入れる。
しかし、それは叶わず、腕のみがくぼみから抜け出して自由になっただけ。
(手だけ動かせても……ラム・プルリールもあるけど…)
ネリーミアは、ラム・プルリールを右手に持ったままであった。
そのことから、自分に関心しつつも、彼女は両腕をだらりと下げてしまう。
身動きの取れない自分に何ができるのか。
(いや、こんなんじゃ戦闘不能も同然だ。何もできない……)
その問いに答えるかのうように、彼女はそう思った。
そして、何を思うことなく、戦い続ける二人の姿を見続けるだけになった。
指先さえ動かすことなく、虚ろな目の彼女は、死人のように見えた。
ネリーミアがそうして、五分ほど経った頃だろうか。
(……あらゆる攻撃……魔法も打撃や斬撃も効かないんだっけ。何か見落としているような気がする……)
ふと、ネリーミアに思うことがあった。
気がするというレベルではっきりせず、その正体を探らずにはいられなかった。
(何か特定の属性が効く……なんてことを言ってた? いや、違う。男の声のことじゃない)
体はまともに動かすことはできない。
その代わりと言わんばかりに、ネリーミアは思考を巡らせた。
彼女の頭の中で、あらゆる事柄が嵐のように飛び交う。
「……あ」
やがて、ネリーミアの暗く虚ろであった目に光が戻った。
(僕には、あの見えない壁を打ち破る可能性が……いや、力がある! )
ようやく、ネリーミアは気づくことができたのだ。
(なんで忘れていたんだ。ゼロ属性があるじゃないか! )
ゼロ属性とは、炎や水などの現存するどの属性にも属さない力の性質のことである。
対応する耐性も存在しないとされ、あらゆる力に影響されない特徴を持つ。
ネリーミアは、ゼロ属性ならば、見えない障壁を打ち破れると思った。
ならばと、ラム・プルリールを持つ右腕を前に掲げるが問題があった。
かつて、その属性の魔法の行使に失敗しており、上手くいくか分からない。
その問題もあるが別の問題があり、そちらの方が深刻であった。
(ダ、ダメだ。闇属性の魔法はなんとか出せるけど、光属性の魔法は、今の状態じゃあ……)
今のネリーミアでは、光属性の魔法を発動すら難しいことであった。
ゼロ属性とは、正反対の関係である属性を同じ量かけ合わせた時に発生する。
すなわち、闇属性と光属性を使えなければ、ゼロ属性を作る段階にすら辿り着けないのだ。
どれだけ力を振り絞ろうと、今のネリーミアには、光属性の魔法を行使することはできない。
(くそっ! 僕がダークエルフなばっかりに! )
彼女が光属性の魔法が苦手であるのは、ダークエルフである以上仕方のないことだ。
それでも、ネリーミアは、この時以上に自分がダークエルフであることを恨めしく思うことはなかった。
絶望という暗闇の中で希望という光を見つけたものの、それは手に届かない場所にある。
そのように思え、ネリーミアは、手を伸ばしても届かない自分が悔しかった。
どうすることもできない。
そんな中、ネリーミアの視界にあるものが入り込む。
それは、天井に付けられた光を放つ装置で――
「……月…」
何を思ったのか、ネリーミアはそう呟いた。
彼女自身、何故そう呟いたのか分からなかった。
しかし、この瞬間から彼女は笑みを浮かべる。
ニコニコと笑うような普通の笑みではない。
すごいことを思いついたと言わんばかりの不適な笑みであった。
(そうだ、月だ! 僕が月になればいいんだ! )
そして、突拍子もないことを彼女は心の中で叫んでいた。
ネリーミアの中で、ゼロ属性を生み出す方法は考えているようであった。
しかし、彼女がその考えを実行することはない。
(僕が月になるのは、太陽が必要だ。それをなんとかしなきゃ)
準備が必要であり、ネリーミアにはその手段がなかった。
故に、他の者の手を借りる必要がある。
その者とはレリアのこと。
早速、レリアへ声を掛けようとするが――
「……リア……レリ……ア…」
上手く声を出すことはできなかった。
小さな声は出せるのだが、大きな声となると難しい。
レリアにあることを伝えなければ始まらない。
にも関わらず、彼女の顔に不敵な笑みは消えていなかった。
(セラ。最近はないけど、君は僕が口にしていないことに反応することがある。偶然とか、長い付き合いとかじゃない)
ネリーミアには、セアレウス限定だが声に出さなくても、自分の思いを伝える手段に心当たりがあった。
それは――
(君は僕の心を……いや、心の声を聞くことができるんだろ? )
ということだ。
証拠があったり、実際に確かめたわけではない。
直観的に、そうゆう能力があるのだと、ネリーミアは思った。
セアレウスは、妖精と魔物の性質を持つ水魔精という特殊な種族である。
この時の彼女には思いつかなかったが、そのことを考えればありそうな話であった。
(お願いだ! どうか僕の心の声を聞いてくれ! そして、レリアに伝えてくれ! )
ネリーミアは両目を強く閉じ、あることを念じた。
そして、それが伝わってくれると強く願った。
(あと、お腹空いたなぁとか、どうでもいい心の声は聞かないないで欲しい! 聞いたとしても、いちいち反応しなくていいから! とにかく、気づいて! )
ついでに、無意識に行われる迷惑行為について、心の中で言及しておくのだった。
「えっ! 」
唐突にアルフ・ヴィガントと戦っていたセアレウスから、間の抜けた声が出た。
「何かあったですか? 」
「いえ……お腹がすいたなぁとか何とかって、ネリィの声がした気がするんです」
「はぁ!? 何を言っているですか。こんな時に! 」
レリアの言う通りであった。
この時、ネリーミアの心の声は、セアレウスにちゃんと届いていた。
しかし、一部だけであり、どうでもいい部分だけが伝わった結果となっていた。
飛び交う巨大な拳と赤い閃光の中で、それらを躱し、攻撃しなければならない今、忙しいどころではない。
レリアは呆れを通り越して、怒りを覚える気持ちであった。
「うーん? ネリィはあんなに離れてるし……」
「……? どうかしたですか? 」
セアレウスの雰囲気が急に変化した。
そのことに、レリアは怒りを忘れ、僅かに戸惑いだす。
「……! 」
やがて、怪訝な様子であったセアレウスの表情は、ハッと何かに気付いたような表情に変わる。
(これは通信!? 頭の中に、ネリィの声が聞こえる)
セアレウスは、自分の頭の中で、ネリーミアの声が聞こえることに気付いたのだ。
そして、幾つか伝わってくる声の中で――
「な、なんですって!? 」
セアレウスを驚愕させる内容のものがあった。
彼女は目を見張り、顔は青く染まる。
その様は、尋常なものではなかった。
「な……何があったというですか!? 」
鬼気迫る空気の中、レリアがセアレウスに訊ねる。
すると、少しの時間をおいて――
「……ネリィに向かって、最大威力の光魔法を……お願いします」
セアレウスは、そう答えた。
顔は青いままである。
「なっ!? 急に何を言うですか! そんなことをして、何の意味があるというですか!? 」
レリアが驚愕し、言葉の意味を問いただしてくるのは、当然のことであった。
セアレウスの発言は、どんな状況においても意味不明なことであるからだ。
もし、言う通りに行動し、威力の高い光魔法を放てば、光属性の耐性が低いダークエルフがどうなるか想像に容易い。
「あの人を殺すつもりですか!? 」
レリアの言う通り、死んでしまうだろう。
この状況において、正気の沙汰とは思えない発言であった。
「……いえ、大丈夫……です。レリアさん、お願いします」
「うっ……!? 」
しかし、セアレウスはなおも、レリアに光魔法を放つように言った。
レリアには、理解することができなかった。
「ネリィがそう言っているのです。信じましょう。それに……」
「それに……? な、なんだと言うですか? 」
セアレウスの言葉に、レリアは耳を傾ける。
もしかしたら、納得のいく理由が聞けるかも知れない。
その思いがあるからだ。
「それが唯一、あの化け物を倒す手段になるでしょう」
結果、レリアはセアレウスの――ネリーミアの言うことを理解することはできなかった。
一方でセアレウスは、納得していた。
ネリーミアが出す願いの意味と、彼女がやろうとする行為を理解したからだ。
しかし――
(そうは言いましたが……やるしかないとはいえ、無茶が過ぎると思いますよ)
不安は感じていた。
ネリーミアがやろうとすることは、失敗すれば命を落としかねないことである。
流石のセアレウスも完全に信じることができないでいた。
(ネリィ、ちゃんとあなたの願いは叶えます。どうか上手くいくことを祈ります。絶対に成功させてくださいね)
セアレウスは、そう願わずにはいられなかった。
彼女の不安は、アルフ・ヴィガントに敗北し、死んでしまうことではない。
ネリーミアが為すべきことに失敗し、命を落としてしまうこと。
そのような悲しい結果を迎えることが怖いからであった。




