三百四十話 希望の闇
「ぷっ、はははは! 」
彼は、大きな笑い声を上げていた。
それは、あまりにも無遠慮で、多くの人を不快にさせるほど自分本位な笑いだ。
黒い獣達が一人の少女に目掛けて襲い掛かっている。
これが今、彼が見ている光景だ。
そして、少女が助けてと叫び声を上げていた。
この叫び声こそが彼が待ち望んだものであった。
少女――ネリーミアが恐怖に心を押しつぶされ、自分の負けを認めた瞬間。
その証がさきほどの叫びであると思っているのだ。
「助けてぇー! 誰も助けに来ねぇーははは! 」
追い打ちをするかのように、黒いローブの者は、ネリーミアを嘲笑う。
この時、ネリーミアに向かって、複数の黒い獣がのしかかった。
黒い獣達に覆いかぶされ、ネリーミアの姿はもう見えない。
黒い山となったそこで行われるのは、牙と爪による猛襲。
肉を引き裂かれる痛みに苦しみ、最後には無残な肉塊となって死ぬ。
ネリーミアの姿は見えないが、黒いローブ者には、その光景が見えていた。
しかし、それは幻となる。
黒い獣達が群がった山が突如として弾け飛んだからだ。
泥のようにあちこちに飛び散った黒い獣は、例外なく霧となって消えていく。
「……あ? 」
この出来事に対し、黒いローブの者は何もできなかった。
黒い獣達が弾けることなど、彼にとっては予想外の出来事。
考えられるとしたら、ネリーミアが何かしらの力を使ったことだが、それはあり得ない。
黒いローブの者の中では、この状況で一発逆転の力を発揮することなど、考えられないことであった。
「うっ…」
ネリーミアは、瞼を閉じている中で、自分の状況を確認する。
まず、自分の体に激しい痛みが無いことから、黒い獣達による攻撃は受けていないようだった。
さらに、右腕に痛みや締め付けを感じられないことから、そこに食らいついていた黒い獣がいなくなったことを知った。
しかし、これらの情報が自分の錯覚かもしれず、結局自分の目で見て確認しなければいけなかった。
「ん……んん? 」
その前に、ネリーミアは自分のおかしいところに気付いた。
それは、今の自分の体勢である。
先ほどまで、仰向けに倒れていたのが、何故か立っているのだ。
自分が立った記憶はなく、何故立っているのかが分からなかった。
それと、ただ立っているわけでもないようであった。
自分で立っているのならば、立つために力を入れているはず。
しかし、立っていた彼女は、そんな力を使っていない。
どういうことかと言えば、立っているのではなく立たされているようであった。
何が何だか分からないままだが、ネリーミアはようやく瞼を開けることにした。
「え……」
まず目に入ったのは黒であった。
自分の目の前に、黒い何かがあったのだ。
その黒い何かは、人型の姿をしているようで、片腕を自分の背中に回していた。
彼女が立っていたのは、その黒い何かに支えられていたからであった。
ネリーミアは、自分が呼び出したことを除いて、この黒い何かが何なのか分からなかった。
(なんだろう? この黒い影……どこか安心する…)
しかし、ネリーミアの心は落ち着いていた。
それは、これで勝利が確定したという安心ではない。
その黒い何かから感じるものが安心だからだ。
何故、安心するのか。
ネリーミアは不思議に思っていたが、すぐにその正体は判明する。
黒い何かのもう一方の手である右手に目を向ければ、斧の形状をしていた。
否、手が斧の形をしているのではなく、斧を持っているようであった。
この情報だけ充分であった。
「……斧? え、兄さん? 」
黒い何かの正体は、イアン・ソマフを模した闇の魔力であった。
これが魔法の結果であった。
原理は、黒いローブの者のブルタリティホラーショウと同じで記憶を利用している。
ここで、ブルタリティホラーショウの仕組みを詳しく説明する。
この魔法は、自分が経験した辛く苦しい記憶の光景を闇の魔力で再現するというもの。
魔法を発動した際、再現した魔物の群れが襲う対象は術者が指定した者とする。
そうすることで、再現された者は記憶を元に動き、術者の敵に攻撃を行い続ける。
一見、複数の生き物の動き制御しているように見えるが、その実は一つの記憶を元に動かしているだけの単純な魔法であった。
重要な部分は、記憶を元にして動かしているということ。
ネリーミアは、その部分だけを利用し、新しい魔法を編み出したのだ。
それは、自分が記憶する希望の存在を闇の魔力で再現するというもの。
ネリーミアは、自分の記憶の中にある希望の存在として、イアンを選んだのだ。
しかし、選んだと言っても、それは無意識に行ったもので――
「兄さん……なの? 」
ネリーミアは自信がなかった。
故に、それがイアンであるか訊ねてしまった。
「……」
黒い影のイアン――影イアンは何も答えなかった。
その代わりに、力強く頷いた。
影イアンは、イアンとして作られたのだから、頷くのは当然のことと言えよう。
「やっぱり、兄さんなんだ。すごい、こんなことができるなんて……」
頷いた影イアンに感動するネリーミア。
そんな彼女から回していた手を離すと、影イアンは一歩前に出る。
ここは任せろというのだろう。
影イアンは、黒いローブの者に斧の刃を向けた。
この存在は、記憶を元に動いている。
つまり、ほぼ本物のイアンと同じ行動を取るようになっているのだ。
ネリーミアの記憶を元に動いているのだから、実際には異なるかもしれないが――
「率先して戦う……あれは、紛れもなく兄さんです」
セアレウスのお墨付きが出たのだから、イアンの行動で間違いないようであった。
「こ、この……たかが一体! 俺は、無尽蔵に生み出すことができるんだぞ! 行けぇー! 」
黒いローブの者の号令で、黒い獣達が影イアンに襲いかかってゆく。
黒い炎から生まれたばかりの獣も次々と向かっているため、先ほどよりも攻撃は苛烈であった。
影イアンは、踊るように体を回転させながら斧を振るった。
すると、次々と黒い獣達は霧となって消えてゆくこととなる。
まるで、振るわれた斧に当たりに行くかのように、頭を粉砕され、体を真っ二つにされてゆく。
「……」
「え……体を伏せろって? うん、分かった」
戦いの中で、影イアンはネリーミアに伏せるように指示した。
その後、左手で斧の柄に触れると、そこからジャラジャラと音を立てて鎖が伸びていゆく。
影イアンは、右手で鎖を持ち、頭上で斧を何回か振り回す。
そして、体ごと回転させ、豪快に鎖のついた斧を振り回した。
影イアンの体が回転したのは一度。
だがそれだけで、周囲にいた黒い獣達は鎖の付いた斧に薙ぎ払われた。
影イアンの攻撃により一掃され、今、黒い獣の姿はどこにも見えなかった。
「くっ……まだ、まだだ! 」
黒いローブの者は、必死に腕を振り、黒い獣の生成を促す。
しかし、黒い炎の中から黒い獣が現れることはなかった。
「馬鹿な! そんな……こんなことがあって……たまるかよ…」
目眩を起こしたように、顔に手を当て出す黒いローブの者。
「闇は悪、絶望、苦しみ、恐怖……そんな存在のはずだ。それが……そのはずなのに……」
ローブの上から頭をかきむしる仕草をする。
彼が闇と呼ぶものは、様々な意味を持っているようだが、一番は絶望であった。
相手に対して耐え難い苦しみを与えるもの、自分が持つ絶望を表現するもの、自分がどんなに努力しても届かないもの。
闇に対するあらゆる思いが重なり、彼にとって闇は、絶対的に絶望という存在であった。
「俺なんか誰も助けてくれなかった!なんでお前は違うんだよ! なんなんだよお前は! 」
黒いローブの者は叫んだ。
自分とは違う力を持つネリーミアに対し、そう叫ばずにはいられなかったのだ。
しかし、彼の問いかけにネリーミアは答えなかった。
否、どう答えればよいか言葉を用意出来なかったのだ。
結果、彼の心の叫びは、誰に受け止めてもらうことなく、黒い獣達と同じように、霧となって消えていったのだった。
「答えても……くれないのかよ…」
黒いローブの者は膝から崩れ落ち、その場にへたり込んでしまった。
同時に周囲を取り囲んでいた黒い炎も消える。
黒いローブの者の心は折れていた。
自分とは違う存在のネリーミアに勝つことはできない。
持たざる者の自分と比較し、そう思ってしまったのだ。
「勝った……の? 」
ネリーミアは、思わずそう呟いた。
黒いローブの者は、攻撃を受けたわけでもないのに崩れ落ちたからである。
疑いの目で、しばらく彼を見るが一向に動く気配はない。
ネリーミアは、ひとまず勝ったと判断し、セアレウスの元へ向かった。
「セラ、大丈夫かい? 」
「……ええ。なんとかって感じですが」
セアレウスが返事をしたことに、ネリーミアは安堵した。
彼女は今、うつ伏せで倒れており、顔だけをネリーミアに向けている状態である。
そこから、立ち上がる素振りを見せないことから、やはり立つ力すら残されていないようであった。
「しかし、よくやりましたね。予想した勝ち方ではありませんでしたが……とにかく、すごいです」
「うーん……なんとかって感じだね。いまいちよく分かんないし。あはは」
ほほ笑みを浮かべるネリーミア。
そんな彼女と同じく、セアレウスもほほ笑みを浮かべるが――
「……!? 」
すぐに引きつった表情となった。
その表情を見て、ネリーミアは異変が起きたことに気付く。
異変が起きたのは、自分の後方。
「まだ! まだやるっていうの!? 」
原因は、黒いローブの者しか考えられない。
ネリーミアは、残った力を振り絞り、振り返った。
「なっ……!? 」
すると、彼女は息を詰まらせて驚愕した。
まず、目に入ったのは、禍々しい黒い玉。
闇の魔力の塊である。
大きさは、大人の身長の半分くらいで、脅威を感じるほどではない。
驚くべきところは、その性質と周囲である。
その闇の魔力は禍々しく渦巻いており、周囲の空間が歪んで見えるのだ。
ネリーミアは、闇魔法によるこのような現象を見るのは、初めてであった。
「闇魔法? こんなの見たことがない…」
故に、得体が知れず、恐怖も感じていた。
「あ……ああああ」
闇の魔力のすぐ傍には、黒いローブの者がいた。
彼が闇魔法を行使したのだろう。
しかし、その彼自身も歪んでおり、大きく歪んだ口から呻き声を漏らしていた。
「ククク……これで何もかも消してやる」
「消す……そ、そんな!? 」
さらに、ネリーミアは驚愕した。
歪んでいる黒いローブの者が徐々に闇の魔力に吸い込まれてゆくからだ。
「もう誰にも止められない! これが最強の闇魔法だ! 」
闇の魔力に吸い込まれてゆく、黒いローブの者。
彼の体の半分はすでに消えている。
そんな状態で、彼は勝ち誇ったように叫んでいた。
まるで、嬉々として死ににいくかのように。
そして――
「見ているか、フェイゼリア! これが俺の力だ! あっはははは……」
彼は、そう叫んで消えていった。
勝ち誇る相手は、この場にいない者であった。
「それで、いいのですか……」
セアレウスは、黒いローブの者の最期を虚しく感じた。
一方、黒いローブの者が残した闇の魔力は徐々に大きくなりつつあった。
歪む空間、吸い込む範囲が広くなってゆくのである。
「セアレウス、離れよう。ここにいたら、僕達も吸い込まれてしまう」
「はい。しかし、あれは、どこまで大きくなるのでしょうか? 」
「分からない。もしかしたら、この町全部巻き込むかもしれない。ケブディさんやメルヴァルドさんに早く知らせないと」
「そう……ですか」
ネリーミアは、セアレウスに肩を貸し、共に立とうとする。
そんな中、セアレウスは浮かない表情をしていた。
「……はぁ、分かってるよ。僕にあれを抑えろって言うんだろ? 」
ネリーミアは、セアレウスの心情を察し、ため息をついた。
こんなことばかり分かってしまう自分が嫌だと思ったからだ。
「……すみません。でも、ネリィならやれるはずですよ」
「何を根拠に……お? 」
セアレウスに肩を貸していたネリーミアだが、急に肩が軽くなった。
その原因は、影イアンだった。
影イアンがセアレウスを担ぎだしたからだ。
そんな影イアンはセアレウスを担いだまま少し進んだ後、振り返って親指を立てた手をネリーミアに見せてくる。
「ほら、影兄さんもやれるって言ってますよ」
「僕の知ってる兄さんなら、ここで僕を止めると思うだけどね。思い通りには動かないようだね。っていうか、君はいつ消えるんだ? 」
ネリーミアは、やれやれといった様子で振り返り――
「あの吸い込む動きは渦っぽいね。逆に力をかければいけるかも。やってみるよ」
闇の魔力へと体を向けた。
「信じてますからね! あ、いいです。そこで下ろしてください」
少し離れた場所で、影イアンに命令するセアレウス。
影イアンは頷いて、命令通り彼女を地面に下ろし始める。
「なんで、セラの言うことを聞くんだよ!いやいや、今はこっちに集中しないと」
ネリーミアは、右手を前方へ突き出し、目を閉じる。
「今日は色々と出来ることが増えた。今の僕なら、きっと出来るさ」
そう言って、目を開けると突き出した手のひらから、黒い玉状の闇の魔力を作り出した。
その闇の魔力は、徐々に大きくなり、やがて黒いローブの者が残したものと同じ大きさとなっていく。
同じく渦巻いているが、その回転は逆。
黒いローブの者の闇の魔力が吸い込むのに対し、ネリーミアのものは吐きだすように周囲を押し出すものだ。
「さて、上手くいきますように」
ネリーミアは、自分の生成した闇の魔力を放ち、二つの闇の魔力がぶつかり合う。
二つの力は、反発し激しい力の衝突がいくつもの衝撃波となって放たれる。
「くっ……やっぱ、簡単にはいかない……か。でも! 」
放たれる衝撃波を受け、負けそうになる自分の闇の魔力の出力を保つネリーミア。
彼女は、負けるわけにはいかないという気持ちであった。
後ろにはセアレウスがおり、この町にはケブディやメルヴァルド、多くの冒険者がいる。
彼女達のことを思うと、一歩も引くわけにはいなかかった。
(これは辛い。辛いはずだけど、嫌じゃない)
ネリーミアは、心も体も力を振り絞り――
「う……おお、おおおお! 」
声も張り上げて、自分の闇の魔力に力を注いだ。
頭にあるのは、目の前の黒いローブが残した闇の魔力を打ち消すことである。
しかし、そんな時に彼女はあることに目がいった。
(ん? 赤い光が……夕日の光が線になって……この闇の魔力は、光も吸い込むの? )
それは、黒いローブの者の残した闇の魔力が光を吸い込んでいることであった。
何故か、ネリーミアはそのことが異様に気になっていた。
なにがどうして気になるのかは定かではない。
闇の魔力が光を吸い込む光景に何かが引っかかる気がしているのだ。
(い、いや、今はこっちに集中……しな……きゃ)
やがて、彼女の注意は闇の魔力へと戻されるが、意識は薄らいでいた。
結果、彼女は意識を失ってしまう。
ネリーミアは、意識がなくなるその時まで、闇の魔力を打ち消すことを考えていた。




