三百十七話 少女の悲痛な叫び
殿堂を後にし、森林の中へ入っていくセアレウス。
一切の迷いなく、奥へ進んでいく彼女だが、目指す殿堂の場所を詳しくは聞いていない。
つまり、どこにあるのか、どう行けば良いのかを知らなかった。
それでも、セアレウスはネリーミアに会うという一心で、森林の中を走って進んでいた。
しかし、その無鉄砲な姿勢は危険である。
何故なら、たった一人で見知らぬ森林の中を進むのだ。
幸いにも、聖獣が管理する島だけあって、魔物は存在しないのだが――
「うっ!? が、崖!? 」
大自然が生み出した驚異により、命を奪われかねない。
その驚異の一部である崖から、セアレウスは落下しかけていた。
間一髪で走る足を止め、落下する手前で止まれたのは、運が良かったと言える。
「あ……危なかった。落ちていたら、死んでいましたよ」
セアレウスが崖の上から下を覗くと、地面が遥か遠くに見えた。
そこから推測するに、崖の高さは三十メートルは超えているだろう。
「迂闊でした。これからは気を付けないと……おや? この下は川辺になっていますね」
セアレウスは、真下に広がる地形から、崖下は川辺であると判断した。
今、彼女がいる崖の真下は、石で敷き詰められており、少し顔を上げれば、帯状に広がる水路が見える。
その水路は川と言えるほど大きく、流れは速い部類であった。
さらに顔を上げれば、川を挟んだ向こう側にも、石が敷き詰められた川辺があることが確認できる。
また、さらに顔を上げれば、反対側にも崖があることが分かった。
「どうやら、ここは谷のようですね」
今、セアレウスがいる場所は、谷の崖の上であった。
「こんな過酷な場所があるなんて。まさかとは思いますが……あ……あれでしょうか」
キョロキョロと周囲を見回すと、セアレウスは旧殿堂らしき建造物を見つけた。
それがあるのは、谷底を川に沿って進んだ先。
滝を背にして建つ古びた建造物をセアレウスは見つけていた。
「きっと、あれのことですね。行きましょう」
セアレウスは、古びた建造物を目指すことにした。
どうにか谷底に降り、川辺を進むこと数分。
セアレウスは、古びた建造物の前に辿り着いた。
「……大きい。あと、古く見えますが、割と綺麗ですね」
その建造物は、見上げるほど大きく、横幅も広い。
全体的に劣化しているものの、その具合は軽度。
そのため、屋根や柱に施された装飾を認識でき、寺や教会といった施設が古くなった姿と見て取れた。
レリィスの言っていた旧殿堂で間違いないだろう。
しかし、新しい殿堂とは異なり、建造物は一つである。
付近に別の建造物があった痕跡が見られないことから、旧殿堂は一つの建造物で成り立っていたようだった。
そして、この旧殿堂からは威厳のようなものが感じられる。
それは、旧殿堂の裏にある滝のせいだろう。
滝の規模は大きく、セアレウスのいる場所から滝の落ち口を見ることできず、旧殿堂は流心の幅に収まっている。
まさに圧巻の光景であった。
「谷底にあって、さらに裏に滝がある……古くてボロボロですけど、こっちの方がわたしは好きですね」
そう言うと、セアレウスは正面から旧殿堂の中へ足を踏み入れる。
入口らしきところに扉はなく、すんなりと屋内に入ると、セアレウスはある物を見つけた。
「これは、布? いえ、シートでしょうか? 」
それは、入ってすぐの床に敷かれた薄い布であった。
その布の付近には、綺麗に折りたたまれた衣服や、古びた鍋等の道具、様々な物が置かれていた。
この小ぢんまりとした空間から、生活を感じることができ――
「ネリーミアさんは、新しい殿堂ではなく、ここで暮らしているのですか……」
と、判断することができた。
この時、セアレウスの表情は暗く沈んでいた。
谷底の古びた殿堂で一人暮らしをするネリーミアを寂しく思ったのだ。
「え? 誰? 」
そんな思いをする中、セアレウスの後方から、声が発せられた。
声から察するに、少女のものだと思われる。
少女であるならば、ここへ来る者は限られるだろう。
「ね、ネリーミアさん! 」
セアレウスは、ネリーミアが来たのだと思い、体ごと後ろに向いた。
すると、目の前に一人の少女が立っていた。
その少女は、半袖の服に半ズボンといった身軽な服装をしていた。
髪は紫色で、長く伸びた髪を首筋辺りで二つに結んでいた。
目は緑色で、大きく見開かれている。
「僕のことを知っている……え……兄さん? 」
どうやら、セアレウスとイアンを見間違え、驚いているようであった。
少女は、セアレウスが探していたネリーミアに間違いなかった。
「わたしは兄さんではありません。セアレウスです」
「セアレウス……って、兄さんの妹の? 」
「はい、そうです! 」
セアレウスはネリーミアに手を差し出しつつ――
「初めまして。わたしは、あなたの力になるため、ここに来ました」
と言い、握手を求めた。
「……はは」
ネリーミアは、差し出されたセアレウスの手を見て笑顔になる。
「ありがとう。すごく心強いよ」
ほどなく、セアレウスの手を両手で包み込み。
ネリーミアに習い、セアレウスも右手も出し、結局二人は両手で握手を交わしたのだった。
握手を交わした後、二人は床に敷かれた布の上に座っていた。
そこで、セアレウスがネリーミアに話をしていた。
話の内容は、ネリーミアの希望により、イアンと出会う前のことから、ここに来るまでのことである。
セアレウスが熱心に語る中、ネリーミアは真剣に耳を傾け続けていた。
「……そっか、色々と大変だったね。でも、セアレウスはすごいや」
セアレウスが話終えると、ネリーミアはそう言った。
そんな彼女の顔は暗い。
今、彼女が思うのは、自分の修行の状況ついてだろう。
「ネリーミアさん……頑張りましょう。これからは、わたしも一緒です」
そのことを察し、セアレウスは励ます。
「うん……ありがとう」
すると、ネリーミアは微笑んだ。
しかし、どこか無理をしているように見えた。
「……でも、ずっと僕は頑張っていたよ……」
ネリーミアは、顔を伏せる。
「頑張っているのに、僕は何も……変わっていない。全然ダメで……あの二人も……君もすごいことをしているのに、僕はずっとここで……」
喋り続ける彼女の口から、嗚咽の声が漏れ出す。
「何も成長してない! こんなんじゃ、あの人に会わせる顔が……うあああああ!! 」
やがて、ネリーミアは大声で泣きだした。
ネリーミアは、レリィスの言うとおり、聖法術が一向に上達していなかった。
否、上達していないのは語弊である。
実際には、日々少しずつ上達しているものの、レリィスが定めた水準にまで達していないのだ。
それを、ネリーミアは気にしており、情けないと思っていた。
また、そんな自分が恥ずかしく、イアンに対して顔向けできないという気持ちもあった。
そして今、セアレウス達と自分を比較し、その気持ちは増大。
何度拭っても止まらないほど、涙が溢れてしまったのだ。
「ネリーミアさん……」
幼児のように泣き叫ぶネリーミアの姿に、セアレウスは心を痛めた。
セアレウスはネリーミアの気持ちが痛いほど理解できた。
彼女もかつては、出来の悪い方の人間であった。
故に、ネリーミアをどうにかして救いたい気持ちはあるが――
「くっ……」
どうすることもできなかった。
泣き続けるネリーミアに、かける言葉が見つからないのだ。
しかし、それは無理もないことで、出来なくても仕方のないことだと言える。
何故なら、今の状態のネリーミアには、誰が何を言っても、その声は届かないのだから。
それでも、セアレウスは悔しかった。
何もできず、じっとネリーミアが泣き止むのを待つだけの自分を不甲斐ないと思っていた。
「……落ち着きましたか? 」
ネリーミアが静かになり、セアレウスはようやく口を開くことができた。
「……うん。もう……大丈夫」
膝を抱えて蹲る中、ネリーミアは答えた。
この時、外から入ってくる陽の光は赤く染まっている。
ネリーミアがようやく心を落ち着かせた頃には、もう夕方になっていたのだ。
「急に泣いちゃって、ごめんね。せっかく、来てくれたのに……」
「わたしのことは気にしないでください。それより、あなたのことです。聖法術が上達しないと聞きましたが……」
「うん、そうなんだ」
ネリーミアは、そう言うと腰に下げていた棒状の道具を取り出す。
「それは? 」
「錫杖だよ。聖力を増幅させるもの。魔法で言う杖のようなものさ」
「……聖力? 」
「僕は、これがなきゃ聖法術は使えない」
ネリーミアは目を瞑ると、錫杖を持つ手に力を込める。
すると、彼女が持つ錫杖の真上に光の玉ができた。
光の玉は徐々に大きくなっていくが、人の頭の大きさほどになったところで霧散した。
「はぁ……はぁ……これが、僕の限界。今の十倍くらいの大きさにできないと、レリィスさんに認められないんだ」
光の玉が消えた瞬間、ネリーミアは目を開く。
短い間であったが、かなりの力を使ったのだろう。
息は荒く、ぐらりと体がよろめいていた。
セアレウスは、ネリーミアが倒れないよう体を支えると――
「じゅ、十倍……いえ、待ってください。あなたの修行というのは、今の光の玉を大きくすることですか? 」
僅かに目を見張りつつ、そう問いかけた。
「……そういう言い方でも、間違いないかも」
「光の玉を大きくすることで、何を鍛えているのですか? 」
「……聖力の強さとか量……かな? 」
ネリーミアは、自分の答えに自信が無いようであった。
「そう……ですか……」
セアレウスは、そう呟いた。
その時の彼女は、驚愕したような表情を浮かべている。
そして、先ほどからネリーミアへ質問を繰り返していたが、一言も喋らなくなった。
「どうかしたの? 大丈夫? 」
そんなセアレウスの様子を見て、ネリーミアは異変が起こったのではないかと心配する。
しかし、セアレウスに異変など起こっていない。
この時、彼女は――
(なんということですか……)
名状しがたい心境に陥っていた。
ネリーミアから引き出した情報や彼女を取り巻く環境から推測したことが原因である。
その推測によって、導き出した事とは――
(効率が悪すぎる……)
というものであった。
今、ネリーミアが行っている修行を効率の悪いものだと、セアレウスは判断したのだ。
この世界には、特定の魔法を扱えない者、または魔法自体が扱えない者が多数存在している。
それは種族や血筋など、生まれ時に決定することだ。
ダークエルフは、聖法術を含む光魔法の行使が不得意。
また、光属性の耐性が低いという特徴を持っている。
ネリーミアが聖法術が苦手なのは事実であり、上手く扱えないのは仕方のないことなのだ。
しかし、それでも上達する可能性はあるのだが、従来のやり方では簡単には行かないと言える。
つまり、ネリーミアが行っていた修行は、光魔法を不自由なく行使できる者のやり方。
どんなに頑張ろうと、どれだけ時間をかけようと、一向に上達しないのは当然なのだ。
(こんなことを続けても意味は無い……ことはないですが、道のりが長すぎます)
セアレウスの頭に、そのような言葉が思い浮かんだ。
一瞬、その言葉を口にしようとしたができなかった。
いつかは上達すると信じて、修行を続けているネリーミアに言えるわけがなかった。
そのため、今の状況を打開することを考えることにした。
それから、程なく――
(あ……あの考えを利用すれば、ネリーミアさんは……)
セアレウスは、あることを思いついた。
それは、ネリーミアだからこそできることであった。
故に、セアレウスは、ネリーミアに確認したいことがあった。
「ネリーミアさん、聞きたいことがあります」
「あ……う、うん。何かな? 」
突然動き出したセアレウスに、僅かに戸惑うネリーミア。
そんな彼女に、セアレウスは――
「闇魔法って、使うことができますか? 」
と訊ねた。
ダークエルフの特徴には、闇魔法の行使が得意で、闇属性の耐性が高いという特徴がある。
セアレウスは、それを利用することを考えていた。
――その日の夜。
「レリィス様、セアレウス様がお戻りになられました」
セアレウスは、レリィスのいる殿堂へ戻っていた。
「ふむ、やけに遅かったな。とりあえず、ここに来るよう伝え――」
「その必要はありませんよ」
「セ、セアレウス様!? 」
自分の部屋でのんびりとしていたレリィスだが、開かれた扉からセアレウスが現れ、慌てて姿勢を正した。
「出迎えがなく、申し訳ありせん。して、あやつの現状を確認なされて、どう思いになられますか? 」
そして、低姿勢となりつつ、セアレウスの元へ向かう。
「ダメですね。今のままでは、ほとんど……いえ、何も変わらないと言えます」
「そうでしょう、そうでしょう! 流石は、セアレウス様。見る目が違いますな! 」
セアレウスが自分が望んでいたものに近い返答をし、上機嫌になるレリィス。
(セアレウス様は、あやつを不要であると判断なされた。きっと、イアン様を説得し、ダークエルフと縁を切る決断へ導かれるだろうな! )
彼は、勝手な妄想を頭の中で膨らませていた。
「ということで、これからはわたしがネリーミアさんを指導します。問題ないですね? 」
「はい、もちろんで……今、なんと? 」
故に、セアレウスの言葉を流してしまった。
レリィスにとって予期せぬことをセアレウスが言ったにも関わらず。
「二度は言いません……あと、指導するにあたって、ネリーミアさんと一緒に旧殿堂で暮らすことにします。では、そういうことで」
「なっ!? ちょ、お待ちくだされ! 」
レリィスは素早い動きで、踵を返したセアレウスの前に回り込む。
「あやつを指導するとは、どういうことですか!? 」
「そのまんまですよ。何か問題があるのですか? 」
「問題は……ある……ことはなく! 全然大丈夫なのですが……」
全身から汗を吹き出しながらも、笑顔で受け答えをするレリィス。
(あるに決まっているだろ! 私の指導に問題があったことになるではないか! それでは、私の面目が立たなくなる! )
内心は、嵐が吹き荒れるが如く穏やかではなかった。
「問題ないのであれば、止める必要はありませんね? 」
「ぐっ……は、はい……」
必死に引きとめようと思いつつも、セアレウスに逆らうことはできなかった。
レリィスは、おとなしく横へずれ、セアレウスに道を開ける。
「安心してください。人に指導することには経験があります。期待していてください」
セアレウスは、悠々とした足取りで、部屋を後にした。
「レ、レリィス様、大丈夫でしょうか? 」
セアレウスの姿が見えなくなった後、部下の一人がレリィスへ近づく。
「大丈夫ではない……くそっ! 侮っていたわ。セアレウス様が来てから、どうも思い通りに事が運ばなくなった」
レリィスは、部屋の中をぐるぐると徘徊し始める。
「ここで、何か手を打ちたいところだ。何か……何かないか」
そんな彼は、自分の面目を保つため、策を考え出した。
「うーむ……うーむ」
唸り声を漏らしながら、何周か回った後――
「そうだ! とりあえずは、セアレウス様に賛同する動きをしよう」
何か良い考えを思い浮かんだようであった。
「おい、精霊教会やカーリマン寺院の協力者に連絡を取れ! 急げ、至急だ! 」
「はっ! しかし、何をなさるので? 」
「課題を用意してやるのだ。指導の結果を信じ、課題を用意しておりましたとなれば、セアレウス様もお喜びになり、私の評価は上がるだろう」
「その可能性は……充分ありますね」
「さらに、セアレウス様に貢献したことによって、私の面目は潰されない。一石二鳥だ」
「なるほど! 流石、レリィス様です! 早速、協力者達に掛け合うよう他の者にも伝えに行きます」
そう言った後、部下は部屋を飛び出した。
「ふぅ……なんとかなりそうだな。しかし……セアレウス様は、あやつをどう指導するつもりだ? 」
ホッと息をつくレリィスだが――
「ダークエルフである以上、どうしようが飛躍的に聖法術が上達するわけがない。私の面目を潰すようなことにはならなければ良いのだがなぁ……」
セアレウスの指導の内容が気がかりであった。




