三百十四話 たった一つの大した思い
目を閉じたキキョウは、そのまま意識を失った。
そんな彼女は今、仰向けのまま暗闇の中を漂っていた。
前後左右あらゆる方向を見回しても、何も見えない。
耳を澄ましても何も聞こえない。
体を動かそうとしても、どこも動かない。
ただ、考えることだけが出来る空間に彼女はいた。
キキョウ本人には分からないことだが、彼女の体ごと、その空間に移動したわけではない。
彼女の意識だけが、その空間にあるのだ。
言うなれば、キキョウは今、夢の中にいる状態である。
この少し前、彼女は強い衝撃をその身に受けたのだが、意識を失うほどのダメージではない。
それでも、意識を失ったのは、彼女の精神に問題があるからだ。
キキョウは、イグザラットが自分より強い人物であると見ていた。
それは、彼の剣の腕が自分が駆使する剣術、魔法、妖術の全てを上回ることである。
そんな強敵にも関わらず、キキョウはイグザラットに勝負を挑んだ。
何故ならの後に続く言葉は、まだない。
(……あれ? 何で……だったけ? )
今のキキョウに、戦いを挑んだ理由は答えられないからだ。
ラザートラムを倒すことが目的である以上、イグザラットを倒すか降伏させる必要がある。
しかし、直接対決する必要はない。
むしろ、実力に差が出ているならば、直接対決は避けるべきであった。
言ってしまえば、わざわざ燃え盛る城の中に入り、イグザラットの元へは行かず、そのまま焼け死ぬのを待っていれば良かったのだ。
他にも、キキョウならば、やり方はいくらでもあったはずである。
(何でこんなことを……何でここにいるのかしら? )
未だにキキョウは、直接対決に至った理由を思い出せない。
今の彼女には、それが分かったところで、どうということはない。
しかし、キキョウは思い出したかった。
(何か……大事なことだったような)
思い出さなければならないことだけは、彼女の中に残っていたからだ。
それでも、思い出すことのできないキキョウは、今までの自分を振り返ることにした。
今からほんの数ヶ月前、キキョウはとある里の中で暮らしていた。
そこで彼女は里の人々から忌み子と呼ばれ、一人孤独な日々を過ごしていた。
忌み子と呼ばれる理由は、里の人々とは違う外見であるからだ。
実にちっぽな理由であるが、彼女が暮らす里は他者を遠ざける結界の中にある。
閉鎖された場所であり、そこに住む人々にとって、里が世界なのだ。
自分達とは違う姿の者がいれば、その者はそれだけで異端者であり、得体の知れない異形であるのだ。
そんな扱いをされ、幼い頃の彼女は心を傷つけられた。
何をしようと、外見が違うだけで悪者にされる。
いつしかキキョウは、他者と仲を深めることは不可能だと諦め、自ら里の外れにある塔に住むことにした。
(そういえば、その時も私は諦めたのね……)
思えば、キキョウが諦めたのは、その時が初めてであった。
それ以来彼女は、里の人々との接触を断った。
唯一普通に接してくれるイトメとも顔を合わせることが少なくなり、孤独な日々が続いた。
ずっと一人でいることは、キキョウにとって苦痛ではなかった。
むしろ、嫌な思いをすることはないので、気持ちは楽だった。
キキョウは、ただ本を読むだけの毎日の中、こんな日々がずっと続くのも悪くはないと思っていた。
しかし、そんな孤独な日々にも終わりが訪れた。
塔で暮らす自分の目の前に、里の外からやってきた者が現れたのだ。
その者は初めて見る外の人で、キキョウは驚いたが、それを顔に出すことはなく襲いかかった。
心地よい自分だけの空間を破壊されたような気がして、すぐにでも排除しなければと思ったのだ。
戦いの末、キキョウは負けた。
そして、その人物と遊んだ。
キキョウは、嬉しかった。
他人と遊ぶこと或いは、他者との交流は、彼女が遠ざけつつも、心の底で憧れていたものであったからだ。
自分が忌み子でると知っていても、先ほどまで殺されそうにそうなった相手であっても遊んでくれた人物をキキョウは尊いと思った。
彼と別れたら、もう一生孤独に暮らすこと目に見えていた。
もうキキョウは、そんな日々を過ごしたくはなかった。
故に、その日からキキョウは、その人物――イアンと共に里を出ることにした。
イアンと旅をする中、キキョウは彼にとって、特別な存在になることを目指した。
あえて彼の元から離れ、修行に出たのもそのためである。
キキョウが思う特別な存在とは、彼の傍にいつづける者。
あれやこれやと理由なく、イアンと助け合いができる関係だ。
はっきりと言葉に表すこともできなければ、まだ口に出すこともできないが、キキョウはそんな存在を目指していた。
そんなある日、彼女はイアンに妹ができたという知らせを聞いた。
その瞬間、キキョウの頭は真っ白になった。
この知らせに関しては、何故妹ができたのか等の疑問を持つことだろう。
しかし、キキョウに関しては――
『取られた……』
という言葉が真っ先に口から出た。
妹という言葉は、彼女の目指す特別な関係に一番近い存在に思えた。
故に、自分が目指していた場所を取られたような気がして、ショックを受けていた。
何故、自分達ではないのか。
すっと慕ってきた自分は認めず、他の者を認めるのかと。
あれやこれやと、目の前にいないイアンに疑問を投げかけ続けていたキキョウだが――
『ホー、確か……セアレウスという名前だったかな? 』
『セアレウス……』
セアレウスの名を聞いてから、彼女のことを憎むようになった。
自分の場所を奪った憎むべき存在であると。
(ふっ……)
記憶を辿る最中、キキョウは含み笑いを漏らした。
今の彼女は、セアレウスのことを憎んではいない。
過去の自分の愚かしい様に呆れ、思わず笑ってしまったのだ。
記憶を辿ることを再開し、場面はセアレウスと出会った時になる。
ゲンセイの姿になり、セアレウスを落とし穴にはめた時である。
初めてセアレウスを見た時、キキョウは――
『兄様に似ている……』
という印象を持った。
それは素直に思ったことであった。
そんなことを思う自分に対して、キキョウは腹立たしくも思った。
セアレウスをイアンの妹であると認めてしまったような気がしたからだ。
キキョウは、セアレウスのことがますます嫌いになった。
課題の達成を目標としつつも、ゲンセイの姿を使い、間接的に嫌がらせを続けた。
そのせいかセアレウスは、キキョウを嫌うことはなかった。
むしろ――
『け、結局のところ、そなたはキキョウのことを……』
『好きですね』
自分のことを好きだと言っていた。
キキョウはゲンセイの姿で、密かにそれを聞いていた。
その時、彼女は吐き気を催すような気分であった。
好意的に思われているにも関わらず、嬉しく思わなかったのだ。
キキョウは、さらにセアレウスを不快に思うようになった。
しかし、あることをきっかけに、キキョウの心は変化した。
それは、ニグラーシャ森林での獣人兄弟との戦いの中の出来事である。
セアレウスが身を呈して、キキョウを庇ったのだ。
その時、キキョウはショックを受けた。
自分が嫌う人物に救われた屈辱的なものではない。
咄嗟に他人を庇うことができるセアレウスと自分の人間性の差にショックを受けたのだ。
その時から、キキョウはセアレウスへの嫌がらせをやめ、彼女を嫌う気持ちも無くなった。
キキョウは、ようやくセアレウスのことを認めたのだ。
(あ……)
暗闇の中を漂うキキョウは思わず声を漏らした。
いつしか、彼女にとってセアレウスは、自分よりも格上の存在になっていた。
戦闘能力、人間性などのあらゆる面で、彼女には勝てないと思ったのだ。
キキョウはセアレウスという存在に、勝ちたいと思うようになった。
そんなキキョウは――
(そうだ。私はあの子に自慢したかったんだ……)
ようやく、イグザラットに直接対決を挑んだ理由を思い出した。
それは自慢という他愛のない言葉で表現されるもの。
しかし、彼女にとっては無茶をするに値するほどの理由であった。
キキョウは自慢という形で、セアレウスに自分の存在を認めて欲しいと思ったのだ。
閉じていたキキョウの目がゆっくりと開き出す。
全開まで目が開かれると、未だに視界の中に、幻の自分の姿が映っていた。
「馬鹿ね、あなた」
幻の自分は再び同じ言葉を口にした。
「ふふ……そうね」
キキョウも再び肯定する。
しかし、以前とは違い、余裕のある笑みを零していた。
「今の私はどうしようもない馬鹿……そう、馬鹿なのよ」
「……? どうして笑っているの? 」
「ふふふ、有り得ないほど馬鹿なことを思いついたからよ」
「……そう。じゃあ、せいぜい頑張ることね…」
幻のキキョウはそう言うと、跡形もなく消え去った。
その瞬間、キキョウは扇と刀を強く握り締めて、勢いよく上体を起こす。
「……!? 」
上体を起こしたキキョウに、イグザラットは驚いた。
彼から見ても、彼女の心は折れており、立ち上がることないと判断していしていたのだ。
つまり、不意を突かれた形となっていた。
「ふっ……」
してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべると、キキョウはイグザラットに雪砲を放つ。
「ぐうっ! 」
唐突に行われた攻撃に、イグザラットは反応できなかった。
雪の塊が彼の胸に激突し、バラバラに弾け飛ぶ。
直撃だったにも関わらず、片足を一歩下げるだけに終わった。
しかし、キキョウの攻撃はまだ終わっていない。
彼女は立ち上がる最中、雪砲を撃ち続けていた。
流石に二撃以降の雪砲は、イグザラットに当たることはなかった。
彼が大剣を盾のように構え、自分の身を守っているからだ。
撃ちだされた数々の雪砲は、大剣に触れ消滅してゆく。
しかし、跡形もなく消滅せず、砕け散る雪砲がいくつか存在した。
(最後の悪あがきか。くだらん)
大剣を構えながら、イグザラットはキキョウの元へゆっくりと近づいてゆく。
彼は、左右で舞い散る雪砲の破片など気にしていなかった。
近づいてくるイグザラットに対し、キキョウは雪砲を撃ちだしながら横に移動。
ある程度の位置に到達すると、今度は後ろへ下がりだした。
やがて、キキョウが雪砲を撃つことをやめた。
その時、彼女は部屋の角の壁際まで追い詰められていた。
そんな危機的状況で、彼女がとった行動は、左手に持つ扇を懐へしまうこと。
つまり、魔法という攻撃手段を手放したのだ。
空いた左手は右手と同じく、刀の柄を掴む。
刀の切っ先をイグザラットに向け、柄を掴む両腕を後ろへ引く。
その体勢は、突きを行う前のものであった。
(はっ! 本気かよ)
イグザラットは心の中で、キキョウを笑い飛ばした。
剣の腕の差を思い知らされてもなお、剣での勝負を挑んできた彼女が滑稽であったからだ。
しかし、心の中で笑うイグザラットだが、顔は前と変わらず無表情。
大剣の切っ先をキキョウへ向け、肩に担ぐように持ち上げ、腰を深く落とす。
その体勢から放たれるのは、真っ直ぐ縦に振り落とされる大剣の一撃。
イグザラットが持ちうる最大の攻撃だ。
彼はキキョウの勝負に受けて立つことにしたのだ。
両者、いつでも技を出せる構えを取りながら見つめ合う。
どちらも動く気配は一向に表すことはない。
動くべき時をただ待つだけであった。
ただし、待ち望むその時は共通ではない。
まず、イグザラットは待つその時は、キキョウが動く瞬間だ。
同時に動いたとしても彼はキキョウに勝てる自信がある。
圧倒的な力の差を再び見せつけるという、完全な勝利を目指しているのだ。
一方、キキョウはというと、イグザラットがある事をする瞬間を待っていた。
そのある事とは、もしかしたらやらない可能性があるものだ。
しかし、イグザラットがそれを行う準備をキキョウはしている。
キキョウは必ず、待ち望む瞬間が訪れると信じ、じっと待ち続ける。
二人が動かなくなってから数秒後、彼女達にとって長い時間が過ぎ、ようやくその時が訪れる。
「はあっ! 」
瞬間、キキョウは足を踏み込み、イグザラットの目の前を目指す。
その時、イグザラットは――
「……!? 」
ブルッという音が出そうなほど、大きな身震いをしていた。
それは、ほんの一瞬の短い間に彼がした事であった。
直後、イグザラットは大剣を振り下ろしにかかるが、遅かった。
「ぐっ! 」
大剣の切っ先が天井へ向いた時、キキョウが突き出した刀はイグザラットの胸に刺さっていた。
刀が刺さっているのだが深くは入っておらず、イグザラットの動きは止まらない。
大剣はキキョウを叩き潰さんと、彼女へ振り下ろされていく。
しかし、止まらないのはキキョウも同じことであった。
「はああああ!! 」
彼女らしからなぬ雄叫びと共に、左右の手に力を込める。
そして、イグザラットの胸に刺さった刀を左、右、上、下と異なる方向へ振り払い、彼の横を通り抜ける。
「ぐううっ!? ああああああ!! 」
イグザラットは胸を切り裂かる中、大剣を振り下ろし、誰もいない石畳に叩きつけた。
これで二人は技を出し切り、互いに背を向けた状態となる。
それまでに、かかった時間は僅か三秒。
「……ちっ……やっぱ……企んでやがったか、チクショウ……め…」
短い時間の中で、二人の戦いの決着は着いた。
胸に出来た十字の傷口から血を吹き出しながら、イグザラットが崩れ落ちる。
崩れ落ちてもなお、彼は大剣を握ったまま、石畳の上で両膝を折っていた。
そんな彼に背を向けたまま、キキョウは刀を鞘へ収め――
「忘れたの? 私はこの国の軍師だったのよ」
と、口にした。
この決着が着く前、キキョウが雪砲を乱発していたのは、ヤケになったわけではなかった。
さらに、大剣へぶつける前に、わざと雪砲を自分の意思で弾けさせていた。
何故、そんなことをしたかというと、イグザラットの体温を下げるためだ。
その時既に、キキョウは最後の決着は剣での勝負だと決めていた。
しかし、イグザラット相手に勝てるはずはない。
故に、雪を散らることで、彼の体温を下げ、動きを鈍らせることにした。
キキョウの雪砲の乱発は、自分が剣での戦いで勝てる状況を作るための準備であったのだ。
そして、彼女がイグザラットの身震いを待っていたのは、準備がちゃんと出来ているかの確認であった。
「へっ……無茶なことを……するぜ。俺が普通に動いていたら……どうするつもりだった? 」
口から血を吐き出しながらも、イグザラットは背後のキキョウへ問いかける。
「……ふっ」
キキョウは愚問だと言わんばかりに笑った後――
「知らないわ。その時になってから、考えるつもりだったもの」
と答えた。
「……くっ…へへっ! やっぱ、馬鹿だな、お前……」
キキョウの答えを聞き、イグザラットはそう返した。
口ではそう言うものの、彼は微笑んでおり、その様は清々しい。
イグザラットは、一片の疑いもなく自分の敗北を認めたのだ。




