三百七話 獣人の国 ベアムスレト
夜が明け、太陽は既に昼の日差しを照らしている。
生憎と、この日のトライファス島に、その太陽の日差しが当たることはない。
トライファス島から見上げる空は曇っているからだ。
背の高い木々が生い茂るニグラーシャ森林地帯の中は、夜ほどではないにしろ、暗い空間であった。
そんな森の中をセアレウスとゲンセイは進んでいた。
「……セアレウス」
先頭を歩いていたゲンセイは、そう言って振り返る。
実は彼女はキキョウであるのだが、今は妖術によって、黒い髪の人間の少女であるゲンセイの姿になっている。
ゲンセイとは、ラザートラムで活動するキキョウのもう一つの仮の姿だ。
もう一方の軍師の方と同じ人間の姿であるが、その役割は異なっている。
軍師の方の姿の役割は、ラザートラムに戦略を提案すること。
ゲンセイの役割は、隠密行動による諜報や破壊工作等である。
軍師の姿で戦略を提案し、それがラザートラムの兵達だけでは実現できないときに、ゲンセイの姿で影から成功へと導く。
この二つの姿を駆使することで、キキョウは短期間で国トップレベルの軍師に上り詰めたのだ。
「大丈夫です! 」
ゲンセイが声を掛けて間を開けることなく、セアレウスはそう答えた。
その時、セアレウスは、グッと親指を立てた手をゲンセイに見せつけるかのように伸ばしている。
「まだ何も言ってないだろう……まぁ、平気ならいいけど…」
そんな彼女を一目見た後、ゲンセイは顔を正面に戻した。
負傷して意識を失っていたセアレウスだが、今の彼女にはもう、その時の面影は感じられない。
短剣による傷は塞がっており、魔力の消費による疲労もなくなっている。
明け方から昼にかけての数時間で、彼女の体は回復したのだ。
早期に止血が間に合ったことと、ゲンセイが魔力を分け与えたことが、彼女の回復を手助けした要因ではあるがそれだけではない。
それらの処置を施したゲンセイは――
(それにしても、すごい回復力……私の施した処置がいらなかったと思わざるを得ないくらいに……)
むしろ、自分の手助けすら要らないと思っていた。
セアレウスに備わっている回復力が並みのものでないことをゲンセイは感じていた。
(恐らく、この娘が魔物……或いは、もう一つの気配である何かが関係しているのかしらね……)
そして、その回復力は、セアレウスが人ならざる者であるからだと、彼女は結論づけた。
(姿は人間にして、その実は得体の知れない何か……もし、この娘が兄様と合う前から、そんな存在だとしたら……)
そう思いつつ、振り返ってセアレウスを視界の横に入れ――
(セアレウスも私と同じ化物……なのかしら…)
ゲンセイ――キキョウは細めた目で、彼女を見つめるのであった。
二人が森林地帯の進行を再開してから、二時間ほど。
その頃になって、ようやく二人の視界から木々が見えなくなる。
「はぁ、やっと森林を抜けましたね」
二人は、ようやくニグラーシャ森林地帯を抜けたのだ。
そんな二人の視界は、曇り空の灰色と、その下に広がる茶色の大地だ。
「ふむ。やはり、ここまで来ると荒野になるのだな。あと、戻れセアレウス」
森林の中の茂みから、ゲンセイはセアレウスを手招きする。
「え? 」
その姿をセアレウスは、森林を出た荒野の上で不思議そうに見ていた。
「まだ、森林の中にいてくれ。周囲の確認がまだ済んでいない」
「あ! すみません……つい」
セアレウスは、慌てて森林の中へ戻っていく。
「障害物がないのでは、見つかる可能性が高い。森林地帯以上に慎重に動くべきだ。もう少し待ってくれ」
「……はい」
ゲンセイの隣に着くと、セアレウスは腰を下ろした。
それまでの間、ゲンセイは目を閉じて、周囲の気配感知に集中している。
しばらくして、それが終わり、ゲンセイは目を開けると――
「……何かあるのか? 」
セアレウスに顔を向けて、そう訊ねた。
ゲンセイが目を閉じている間、セアレウスはずっと彼女に視線を向けていたのだ。
「いえ、何かあるということでは……気のせいかもしれないので……」
「些細なことでも気づいたら言うべきだ。私にも気づかないことがある。昨晩のようにな」
「……では、言いますけど……なんか今日のゲンセイさん、優しいですね」
「……」
セアレウスの発言を聞くと、ゲンセイはセアレウスから顔を逸らして正面に向くと――
「別に優しくした覚えはない。これまで通り、同じ任務を遂行する者として扱っているだけだ」
立ち上がって、森林から荒野へと足を進めた。
彼女に続いて、セアレウスも荒野に出る。
「はあ……今まで通りじゃあないと思いますけどね」
「文句あるのか? 聞こえているからな」
「えっ!? な、何でもないです! 今までと変わりありませんでした」
呟きを聞かれ、必死に同意の意思を身振り手振りで、ゲンセイに伝えるセアレウス。
今の彼女の目には、自分を睨んでくるゲンセイの顔が映っている。
敵意はないものの、セアレウスは別の怖さを感じていた。
その後、二人は周囲を警戒しつつ、荒野を進んでいき、ある地点で足を止めた。
そこからは、ある風景が視界の奥に映すことができる。
それは、多くの建築物のような物体が集まった場所で――
「集落か……? ああ、集落だな。それが二つか」
それを見たゲンセイは、集落であると判断した。
ゲンセイの目には、二箇所の集落らしき場所が見えており、それらは彼女から見て左右に並んでいた。
「そのようですが……あれは、テントですね。ベアムスレトの人達は、テントを住居にしているのでしょうか? 」
多くの建築物のような物体は、テントであるとセアレウスは判断した。
遠目からではあるが、それらの物体がテントのような形をしているのだ。
「テントだと? あれがテントに見えるのか? 」
「はい。ゲンセイさんは、違うものに見えるのですか? 」
「いや……そうか。テントに見えるのなら、テントなのだろう。おまえの言うとおり、テントを住居としているのなら、ベアムスレトは国というより、大部落と言った方がしっくりくるな」
「国かどうかは、住居で決まるものではないと思いますが……それより、右の方。東の方が大きくないですか? 」
セアレウスが指を差す東の集落は、西の集落よりも規模が大きい。
「確かに。比べるまでもないな」
それは、ゲンセイの目でも確かなことであった。
「大きい方に、ベアムスレトの国王様がいるのでしょうか? 」
「聞かれても、私には分からん。ベアムスレト国内の情報は全く無いからな」
「なら、もう少し集落へ近づきましょう、留水操で調べてきます」
「頼む。くれぐれも見つからないようにな」
セアレウスの留水操が届く距離を目指し、二人は東の集落の方へと進んでいった。
そして、留水操により、集落の中を調べること一時間――
「……ふぅ、こんなところでしょうか」
セアレウスが操作していた水の塊から、自分の意識を戻した。
「どうだった? 」
「結果から言うと、国王様はいないようです。あと、あそこにいる人達は、女性とか子供、お年寄りの人ばかりでした」
「なるほど、恐らくあの集落は、ベアムスレトの一番奥の集落のようだな。そして、そこに非戦闘民を集めていると」
セアレウスから得た情報から、ゲンセイはそう推測した。
実際、彼女の推測通りである。
ベアムスレトは、戦闘に参加させるべきではない者達を一番東の集落へ集めていた。
言わずもがな、戦地から遠ざけることで、戦闘に巻き込まれる可能性を排除し、守っているのだ。
「そうならば、西にはもっと多くの集落があるだろう。成人の男性ばかりのな」
「その中に、国王様がいる集落があるということですか」
「そういうことになるが、その集落はあそこになるだろう」
ゲンセイは、そういうと指を差す。
その方向には、東の集落の隣である西の集落があった。
「東の集落……守民落と呼ぼうか。そこに一番隣接しているから、恐らく西の集落はベアムスレトの最後の砦。十中八九、国の長はいる……が」
ゲンセイは指を差すのをやめ、腕を下ろすと、守民落へ視線を映し――
「長に会いに行く前に、あそこに行っておくか。大事な民が人質に取られれば、事が上手く運ぶはずだ。ククク……」
と、笑みを浮かべながら言った。
そのゲンセイの笑みは、優しく温かいものではなく残虐なもの。
悪党と言うに相応しい表情をしていた。
「ダメです、ゲンセイ! そういうのは、いけないと言ったはずですよ! 」
ゲンセイの発言を耳にした途端に、セアレウスが彼女に詰め寄った。
声に怒気が込められており、しっかりと目はゲンセイを見据えている。
セアレウスは、本気でゲンセイを叱っていた。
その迫力はなかなかのものだが、ゲンセイには効き目はない。
「うっ……ちょ、ちょっとした冗談よ……だ! 冗談……」
しかし、それはもう昔のこと。
今のゲンセイもとい、キキョウには充分に効いたのか、セアレウスの剣幕に押されていた。
(そんなに怒鳴らくても、いいじゃない……)
そして、怒鳴られたことがショックで、内心落ち込んでいた。
「冗談? 全然よくはありませんが、まぁいいでしょう。それで、どうするのですか? 」
「……これから、長に交渉を持ちかけに行く……が、ほぼ戦闘になるのは目に見えている。そうなった場合、応援を呼ばれては敵わない。そこで、一つ頼みたいことがある」
「聞きましょう」
「ああ。まず、おまえの力で――」
ゲンセイは、セアレウスへ頼みごとの内容を説明を始める。
(ほっ……何故かしら? セアレウスに逆らえなくなってしまったわ。あと、急に呼び捨てになって、びっくりした……)
説明をする最中、ゲンセイは自分の心の変化を感じつつ、それが不思議に思っていた。
ゲンセイが守民落と呼ぶ場所から、最も近い西の集落。
数多くのテントが並び立つその中心に、一際大きなテントがある。
形は他のテントと同じで、半円のドーム状で、その大きなテントの広さは、直径五十メートルはあるだろう。
その入口である幕を開き、中へ入っていく者がいる。
「失礼する」
ゲンセイだ。
彼女は敵国の長がいるであろう場所へ、大胆にも真正面から入ったのだ。
テントの中に入ったゲンセイは、奥へ視線を向け――
(大当たり……ってこともないか)
と、心の中で呟く。
彼女の視線の先には、地面に敷かれた鮮やかな布に、あぐらをかいて座る者がいる。
テントの中に点在する小さな松明に照らされたその人物は、一言で表すのなら巨大。
座っているにも関わらず、頭の高さは二メートルを超えており、立ち上がれば三メートルに達するだろう。
そんな巨体の男性は、もちろん獣人である。
羽織った着物の隙間から覗く厚い筋肉と――
(耳……小さいわね)
巨体の割には、小さい一対の耳が特徴的であった。
「……」
巨体の獣人は、ゲンセイを見つめたままで、口を開かない。
「貴殿がベアムスレトの国王で間違いないか? 」
「……まず、自分から名乗るのが先。これは、我々ベアムスレトだけの常識であったか? 」
巨体の獣人が口を開いたが、ゲンセイの問いかけに答えることはなかった。
「失礼した。私の名はゲンセイ。ベアムスレトの国王と話し合いをするため、ラザートラムから遣わされた者でございます」
ゲンセイは、恭しく片膝を地面について挨拶をする。
「はっ! どう見ても、そうは見えんがな」
巨体の獣人は、ゲンセイの発言と姿が一致しないことを笑った後――
「いかにも。わしがベアムスレトの国王ヤオだ」
と、名乗った。
ゲンセイの推測通り、この巨体の獣人がベアムスレトの国王のようであった。
「やはり、貴殿が国王でありましたか。このような格好で伺い、申し訳ございません。それで、私の話に耳を傾けてもらえると、恐悦至極に存じます……が…」
ゲンセイは片膝をつき、頭を下げている。
その体勢まま、チラリと目線を上に向けて、ヤオの様子を伺う。
話し合いをしたいという言葉を口にしつつも、何時戦闘が始まってもいいよう、意識を背中の刀に向けていた。
「ふん! 何が話し合いだ。本気でその気なら、お前のような得体の知れん者を寄越したラザートラムの気がしれん」
ヤオはそう言った後、天井へ向けて指を差す。
「あと、テントの周りは、何かに覆われているな? 恐らく、外へわしの声や音が漏れんようにしたあるのだろう」
「……」
ゲンセイは体勢を変えることなく、不敵な笑みを浮かべ――
(バレた……ちょっと、舐めてかかりすぎたわね)
額を冷たい汗で濡らしていた。
今、セアレウスの留水操によって、このテントは水の壁に覆われていた。
その目的は、ヤオの言った通り、音の遮断である。
ヤオが外へ助けを呼べないようにしているのだが、それを数分経たずに見破られ、ゲンセイは内心焦っていた。
戦闘を行う前提で、この場に来たことも、ヤオには見破れているのだ。
この状況で、もう話し合いに来たという言葉など戯言である。
「残念だ。できれば……いや、話し合いで解決できると、叶いもしない夢を見ていただけか」
ならば、ゲンセイが行うべきことは刀を抜き、ホルダーから魔札を取り出すこと。
叩き潰されるよりも先に、ヤオを始末することである。
「……!? 」
しかし、そうであるにも関わらず、ゲンセイは動きを止め、先手必勝はならなかった。
何故なら、ヤオがピクリとも動いていないからだ。
「……攻撃が効かないとでも言いたいのか? 」
「……まぁ、そんな細っこい剣では、わしの指一本でさえ傷付けることはできない。だが、違うな」
「では、なんだというのだ? 」
「ふん、なんだもこうだもない。お前の話を聞こうというのだ。この早とちりめ」
「なに!? 」
ゲンセイは、驚愕した。
ここで、ヤオの口から、話を聞くなどという言葉が出るなど夢にも思わなかったからだ。
そして、この喜ぶべき状況で、ゲンセイは素直に喜ぶことができなかった。
「何故だ……自分でも思うが、あからさまに怪しい存在である私の話を聞くだと? 問答無用で、殺しにかかるのが普通というものでは……」
「確かに、そうだ。だが、お前達は別だ」
「別……? 」
ゲンセイが理解できずに顔をしかめる中、ヤオは――
「外にいる奴も含めて、お前達二人は得体の知れん奴だからだ。被害がどれだけに及ぶか分からん。」
と、言った後――
「特に外にいる奴だ。わしの知ってるかなりヤバイ存在の気配がする……何なんだよ、お前ら……」
と続けて、まだ何もしていないにも関わらず、疲れてしまったかのように、力なく項垂れた。




