三百一話 卑劣な策
静寂に包まれる森林の中、セアレウスとゲンセイは立ち尽くしている。
二人は、まるで石像になってしまったかのように微動だにしない。
そんな二人の視線は、同じところに向けられている。
その方向は下、地面に倒れ伏す獣人の男に向けられていた。
これは、もう動くことのない死体である。
視線が集中するような特徴的な外見はしていない。
ならば、何故二人はこの死体を見続けているのか。
それは、獣人の男――ベアムスレトの兵が死ぬ間際に行った行動が原因である。
この死体となったベアムスレトの兵は、死に際に遠吠えをしたのだ。
死に際とは思えないほど、大きな声であり、ニグラーシャ森林地帯に広く響き渡っていったのだろう。
「……! ゲンセイ! 」
長く固まっていたセアレウスが、ハッと我に返ったかのように声を発した。
「……! 」
その声に反応し、ゲンセイはピクリと僅かに体を動かせる。
「ま、まずいです! 今の遠吠えは、仲間を呼ぶか異変を知らせるものです。早くここから離れましょう」
ゲンセイに顔を向け、セアレウスが普段より速い口調で言った。
セアレウスは、ベアムスレトの兵の遠吠えをそう捉えていた。
そして、直にここへ多くのベアムスレトの兵が集まってくると予想していた。
数の多い相手に勝ち目が薄いのは明白である。
故に、セアレウスは焦っていのだ。
「……」
ゲンセイは、セアレウスに言葉を返すことなく黙り続けている。
動いたのは、セアレウスの声が発せられた時だけで、ゲンセイはじっと動いていない。
「何をしているのですか! 早く! 」
動かないゲンセイに痺れを切らし、セアレウスはゲンセイに肩に手をかける。
無理矢理にでも彼女を連れ出そうというのだ。
しかし――
「ちっ、うるさい! もう少し黙っていろ! 」
「なっ……!? 」
ゲンセイに手を振り払われ、それは叶わなかった。
手を振り払われたセアレウスは、ゲンセイの顔に目を向けた。
すると、彼女が硬い表情をしていることと、額に大量の汗を浮かべていることに気づいた。
(まさか、今どうするべきかを考えている? )
それらのことから、セアレウスはゲンセイがこれからの行動を思案しているのだと思った。
実際にその通りである。
ゲンセイは実現の可不可は関係なく、思いついたことを一つ一つ検討し、その中から最も良い考えはないかを探し続けていた。
これから行うべき最善の行動が何であるか考えているのだ。
「……これでいいか…」
程なくして、ゲンセイが呟いた。
どうやら、彼女の中で最善の行動が決められたようであった。
「ゲンセイさん、何か良い方法が……」
「ああ、思いついたぞ。この場に留まり、ベアムスレトの兵を迎え撃つのだ」
「なんですって? 」
ゲンセイの返答に、セアレウスは怪訝な表情を浮かべた。
その考えを思いつき、実行いようとするゲンセイを理解できないからだ。
「ふん、ちゃんと考えあってのことだ。貴様が逃げると言ったが、鬱蒼とした中を進む速度は、奴らの方が速いだろう。何故なら、貴様より奴らの方が森林に適しているからだ」
自分達がやってきた方向に指を差しながら、ゲンセイが言った。
その方向には、彼女の言う通り草木が生い茂っており、奥の暗闇さえ草木に遮られている。
人が進むには険しい場所で、進むのに時間がかかってしまう。
しかし、五感の優れる獣人ならば、たとえ夜であっても、森林の中を素早く移動できる。
地形の観点から、獣人であるベアムスレトの兵が有利なのだ。
「うぅ……」
セアレウスは、口を閉ざして押し黙った。
ゲンセイの説明を聞き、逃げた自分達がベアムスレトの兵に追いつかれる場面が想像できたのだ。
そして、ベアムスレトの兵と戦闘を行う中、苦戦する自分達の姿を想像した時、セアレウスの顔は青くなった。
「ほう、自分のしようとしていたことが愚かであったことを理解したようだな」
そのセアレウスの顔を見て、そう言うとゲンセイは僅かに笑みを浮かべた。
「木々が生い茂る場所と比べて、ここは木が生えていないから見通しが良い。この森林の中で、奴らと戦う場所としてはうってつけだ」
「……確かに」
周りを見回しながら、セアレウスは頷いた。
二人がいる場所は森林の中でも開けた場所である。
半径五十メートルほどの広さで、その中に木が生えていない。
地面から木の根が飛び出ている場所もあるが、足を取られるようなところは見られない。
ゲンセイの言うとおり、戦うのにうってつけの場所であると頷けた。
「……理解出来たようでなにより。では、早速準備に取り掛かるぞ」
「準備? 」
「来るのが分かっていて、何もしないのは勿体無い。幸い、エサはそこに転がっているしな」
ゲンセイはそう言うと、地面に転がる獣人の死体に目を向け、ニヤリと頬を吊り上げた。
「……」
セアレウスは、獣人の死体を見たあと、ゲンセイに視線を移す。
ゲンセイを見るセアレウスは、嫌な予感を察したかのように、表情を歪ませていた。
ベアムスレトの兵が死に際に遠吠えを発してから、約十分後。
セアレウスとゲンセイがいた開けた場所に、複数の獣人達がやってきた。
どの獣人も胸当てや篭手といった軽装の防具を身に付け、腰に剣を収めた鞘を下げている。
言うまでもなく、皆はベアムスレトの兵である。
「ここだな……」
その中の頭に帯を巻いたベアムスレトの兵が呟いた。
彼らは、ゲンセイが倒したベアムスレトの兵の遠吠えを聞き、ここへやってきたのだ。
そして、彼らは一つの部隊のようで、頭に帯を巻く彼が部隊の長である部隊長で間違いないだろう。
「この場所は、確かラザートラムの間者と落ち合う場所のはず。なら、あの遠吠えの主は……」
遠吠えを発した者を探すため、部隊長は周囲の匂いを探り出す。
「む? 獣人の他に人間が一人……奥に匂いが続いている。ということは、逃げたようだが……なんだ? 他にも……」
「隊長! 我が同胞が……! 」
匂いを探る中、部隊長は隊員に呼ばれた。
その隊員がいたのは、開けた場所の中央付近で、他の隊員もそこにいる。
彼らは、何かを取り囲むような形で立っていた。
「……! そうか。敵にやられたのか……」
部隊長がそこへ向かうと、隊員達が取り囲んでいたものの正体が分かった。
それは、ベアムスレトの兵の死体であった。
死体となった同胞を哀れに思いつつ、部隊長は死体を観察する。
(上半身と下半身が真っ二つ……か)
すると、部隊長は、死体が真っ二つに切断されていることに注目し――
(傷口から一撃で真っ二つに……人体を切断するほどの強力な武器でやられたのか……)
と、判断した。
「んん? なんだ、これは? 」
一人の隊員が奇妙なものを見つけ、怪訝な表情を浮かべる。
「どうした、何か見つけたのか? 」
「はい。こいつの襟の裏に変な紙切れが貼ってあるんですよ」
「変な紙切れ……これか」
部隊長は死体が身に付ける服の襟の裏に、隊員の言う変な紙切れを見た。
その紙切れには、文字が書かれているようだが、それは、ここにいる誰もが読むことのできない文字であった。
「紙切れに文字……一体なんの意味が? 」
「あ! ここにもある! 」
「こっちにもあるぞ。この紙切れ色んなところに貼ってあるぞ! 」
部隊長が首を傾げる中、隊員が続々と死体に貼り付けられた紙入れを発見していく。
どうやら、数多くの紙切れが死体に貼ってあるようで、それは発見しづらい場所に貼ってあるようであった。
「不気味だな……まるで、頭のおかしな連中が儀式に使う道具のような……待てよ」
ふと、部隊長は何かが引っかかったような気がした。
「意味があって貼ってあるのだとしたら……まさか! 」
そして、部隊長の思考は一つの可能性に辿り着いた。
「なんなんでしょうかね? この紙切れ」
その時、一人の隊員が死体に張り付いた紙切れに手を伸ばした。
「……! 馬鹿! 迂闊に触るな! 」
「え? 」
部隊長の制止の声も虚しく、隊員は紙切れに触れてしまった。
すると、隊員が触れた紙切れが光りだした。
それにつられてか別の紙切れも光りだし、一斉に風の刃を生み出した。
風の刃は半月のような形で、幅が手を広げたほどの大きさである。
「ま、魔法!? 」
無数の風の刃を見た部隊長は驚愕の声を上げつつ、後方へ飛び退る。
その瞬間、無数の風の刃が周囲に飛び散った。
死体からあらゆる方向に風の刃が撃ちだされたのだ。
そこにいた隊員達は避ける間も悲鳴もなく、砕かれたガラスのように、バラバラと崩れ落ちていく。
無数の風の刃に体を細切れにされたのだ。
「くっ……」
部隊長は無事、地面に着地した。
風の刃は射程が短かったようで、後方へ飛んだ部隊長は、その射程外に逃れることができたのだ。
「な、なんということだ! こんなことが……」
部隊長は悲痛な声を上げながら、地面に両膝をついて崩れ落ちた。
目の前で起きた惨状、一瞬にして部下が全滅したことにショックを受けたのだ。
しかし、彼の心をへし折ったのは、それだけではない。
「し、死体に罠を仕掛けるなど……死体を利用するとは……」
死んだ者を利用するという行為に嫌悪を通り越して、恐怖しているのだ。
ヒュウ…!
その時、開けた場所の外の茂みから、一陣の風が吹き抜ける。
その風は、宙を舞う塵や木の葉を切り裂きながら、部隊長へと向かっていく。
部隊長は躱すことなく、その風が吹いていきた方に顔を向け――
「この外道がああああ!! 」
と叫んだ後、風に首を跳ね飛ばされて絶命した。
「……よし。もう近くに敵はいない。うまくいったようだ」
部隊長の首を跳ね飛ばした風――風刃が飛んできた茂みからゲンセイが現れ、部隊長の死体へ向かっていく。
「……」
遅れて、その茂みからセアレウスも出てきたが、暗い表情をしていた。
「……ふん、何か言いたげだな」
セアレウスの暗い雰囲気を察し、ゲンセイは足を止めて振り返る。
「……」
セアレウスは、ゲンセイに何も返すことなく、ベアムスレトの兵達の死体の前に立った。
その後、彼女は目を閉じて顔を俯かせた。
「……慰霊のつもりか? 」
「……」
セアレウスは答えない。
ただ、目と閉じてじっとしているだけであった。
「はっ! 今更、人を殺めることに心が痛むのか」
「……正直、その通りです。できれば、殺したくはありません」
セアレウスは、ゲンセイに顔を向けることなく答えた。
「あと、あなたのした事にも心を痛めています」
「は? くっ……はははははは!! 」
ゲンセイは腹を抱えて笑いだした。
「笑わせてくれる。なら、止めれば良かっただろう。それもせずに黙って見ていたやつが言うことか」
ゲンセイは、そう言った後、セアレウスに詰め寄り――
「結局、貴様は何も出来なかった。しなかったと言ってもいいだろう。そんな奴に、やり方がひどいなどと言う資格はない」
と、強い口調で言い放った。
「……」
セアレウスは詰め寄ってきたゲンセイと目を合わせるだけで、何も答えなかった。
彼女の言うことに反論できないからだ。
「ふん! 何事も綺麗に行くとは思うなよ。甘い考えは、さっさと捨てることだな」
ゲンセイは、そう言うとセアレウスから離れた。
「……ゲンセイさんの言うことは分かります。でも、約束してください」
「なに? 」
セアレウスの言葉を耳にし、ゲンセイは怪訝な表情を浮かべながら振り返る。
「これからは……わたしと一緒にいる時は、もうこんな卑劣な策を使うのはやめてください」
「はっ、何を言うかと思えば……貴様の言う卑劣な策を使わざるを得ない状況が来たら、どうする? 使わないと死ぬぞ? 」
「それでも使おうとしないでください」
「話にならんな。おとなしく死ねと――」
「違います! わたしが卑劣な策を使わない方法を探します。なので、絶対に使わないでください」
「なんだと? 」
ゲンセイは、顔を険しくさせた。
(卑劣な策など好き好んで使っているわけではない。そうせざるを得ないから、使っているのだ。それを……私でも考えられなかった方法を探すだと? )
「いい加減にしなさい! そんなこと出来るはずはないの! 」
セアレウスの言葉は、激昂するほどゲンセイにとって腹立たしいものであったのだ。
「そんなことはありません。出来ます」
「出来ない! 」
「出来ます」
「出来ない! 」
「出来ます」
「出来ないったら出来ないの! このっ! 」
今のゲンセイは、まともなことが考えられないほど頭にきていた。
そのせいか、彼女は右手を振り上げ――
「わからずや!! 」
思いっきりセアレウスの頬を右手で叩いた。
とうとうセアレウスに手を上げてしまったのだ。
「……!? 」
しかし、叩かれたセアレウスは微動だにせず、ゲンセイに視線を向け続けていた。
「そうです。わたしはわからずやなのです。だから、諦めて約束してください」
「くっ……おまえの言う方法が見つからなかったら? 」
「何とかします」
「……何とか出来る根拠は? 」
「ありません。でも、絶対に何とかしてみます」
「……」
「……」
ゲンセイの睨みつけるような鋭い眼差し、セアレウスは怯むことなく見つめ返す。
しばらくの間、二人はにらみ合い――
「はぁ……やめた。もうやってらんないわ」
先に視線を外したのは、ゲンセイであった。
「正直ね、おまえの言うことには、納得出来ない。でも、絶対に出来ると言い張るのなら、やってみせなさい。出来るものならね! 」
「……! ありがとうございます! 頑張ります! 」
セアレウスは笑みを浮かべると、ゲンセイに頭を下げた。
「ところで、先程から口調が変わっていますが……」
「……!? あ、あまりにも貴様がおかしなことを言うものだから、素の口調が出てしまっただけだ」
ゲンセイは慌てた様子で、セアレウスに答えた。
もう口調は元に戻っていた。
「……そうですか。では、帰りましょう。長居をしていれば、魔物が来てしまします」
セアレウスは、そう言うと元来た道へ体を向け、歩きだした。
「……何を言っている。まだ帰らないぞ」
「え? 」
数歩歩いたところで、セアレウスは足を止めて振り返った。
「どういうことですか? 追手はもういない……ですよね? なら、森林の中を進んでも問題ないはず」
「いや、まだやることがある」
「……なんかありましたっけ? 」
顔に手を当て、記憶の中を探るセアレウスだが、やり残したことに思い当たることはなかった。
「この際だ。もうやってしまうぞ」
「……だから、何をです? 」
「ベアムスレトの長の首を取りに行くのだ。さっさと戦争を終わらせるためにな」
一向に分からないセアレウスに、ゲンセイはそう答えた。
「…………え? 」
長い沈黙の後、セアレウスは、疑問の声を漏らした。
否、それは驚愕の声である。
本当は、叫び声を出すほど驚愕しているのだが、今のセアレウスは口を開くだけで精一杯であった。
それほど、ゲンセイの発言に衝撃を受けたのだ。




