二百六十六話 猿人の少女 コウユウ
ロートロアの町にある酒場。
そこは、荒くれ者の溜まり場であり、夜であっても、その者等の声で騒がしい場所である。
しかし、今の酒場には、その騒がしさはない。
店内には、店主と二人の少女がいるだけで――
「それから、奴はシソウ国を出て……今は、どこかへいるのやら…」
二人の少女のうちの一人である三つ編みの少女だけが、声を発していた。
三つ編みの少女は、不敵な笑みを浮かべると、テーブルへ戻り、椅子に座り込んだ。
「ロロットって奴の手伝いをするって言ってたね。諦めな……もうそんな名前の奴はいないんだ」
三つ編みの少女は、セアレウスに向かって、そう言い――
「チョウ・ゲントクっていう名前で探してもダメだよ。あいつ、その名も名乗らないって言ってたから」
と、続けた。
「何故でしょうか? 」
床に跪いた体勢で、セアレウスは三つ編みの少女に顔を向ける。
「……選んだのは、ロロットっていう名前だろ? その時点で、チョウ・ゲントクって名前は名乗らないって決めてたらしい」
「……あなたは、ロロットさんに会ったことがあるのですか? 」
まるで、本人に会ったかのように話す三つ編みの少女を不思議に思い、セアレウスが訊ねる。
「ちょっと前にね。その時にさっきの話を聞いて……あんたみたいな奴に会ったら話せって言ってた」
「そうですか……」
セアレウスは、そう呟くと顔を俯かせた。
程なく、セアレウスは声を出すことなく泣き始めた。
ロロットの身の上話を聞き、悲しい気持ちになったのだ。
そして、セアレウスが一番悲しいと思っていることは、彼女が名前を失ったこと。
自分の名を名乗れず、彼女のことをロロットと呼べなくなってしまったことが、何よりも悲しいことであった。
「……」
そんなセアレウスを三つ編みの少女は、じっと見つめていた。
セアレウスは、僅かに体は震えているものの、傍から見れば、ただ顔を俯かせて跪いているようにしか見えない。
しかし、三つ編みの少女は、セアレウスが泣いていることに気づいていた。
セアレウスの顔の下、床にポタポタと涙の雫が落ちる様が見えるのだ。
そして、ロロットであった少女のことを思って泣く彼女から目を逸らす。
今の三つ編みの少女はセアレウスに対して、何もしてやれることがない。
そう思い、三つ編みの少女はただ申し訳なさそうに、顔を俯かせるだけであった。
「……ところで……本当に名前はないのですか? 」
静かに泣いていたセアレウスだが、唐突に問いかけた。
その問いかけが向かう先は、三つ編みの少女である。
急に言葉を口にしたセアレウスに戸惑いつつ、三つ編みの少女は口を開く。
「無い……って、言ってるでしょ。今更、そんなこと……」
「……そうですか…」
三つ編みの少女が怪訝な顔をしているのをよそに、セアレウスはゆっくりと立ち上がった。
そして、何も言うことなく、宿屋のある二階へと向かっていった。
去っていくセアレウスを見つめた後、三つ編みの少女は、椅子にもたれかかった。
「……本当に名前が無いんだ。これから、どうすればいいんだよ…」
今の三つ編みの少女の姿は、誰が見ても途方に暮れた様子であった。
三つ編みの少女も二階へ上がり、部屋で休んだ。
彼女が目を覚まし、一階へ下りると、酒場にはキハンの姿があった。
キハンは、店内にあるテーブルに座っており、三つ編みの少女に気づくと――
「あ! おはようございます! ダンナ」
と、三つ編みの少女に声を掛けた。
「ああ……うん、おはよう…」
三つ編みの少女は、店内を見回しながら生返事をする。
「なんか雑に挨拶を返されたような……って、何してんの? 」
「いや、あいつ……セアレウスの奴が見えないから…」
「ああ、あの人を探してたのか」
「うん。それで、あいつ見なかった? 」
「さあ? オイラは見なかったよ」
「お前達、あの水色の髪の嬢ちゃんなら、朝早くに出ていったぞ」
キハンが三つ編みの少女の問いに答えた後、カウンターに立つ店主が、そう言った。
「出ていった? どこに? 」
詳しい話を聞き出そうと、三つ編みの少女はカウンターに向かった。
「ゾロヘイドへ向かったらしい」
「一人で行ったのか! あいつ! 」
店主の答えを聞いた途端、三つ編みの少女は声を荒げると、店の外へ向かいだした。
「……!? 」
しかし、その途中で、三つ編みの少女は倒れ込んだ。
「ちょ……!? ダンナ、大丈夫か!? 」
キハンが、床にうつ伏せで倒れる三つ編みの少女に駆け寄る。
彼女が倒れたのは、体に激痛が走り、うまく体を動かせなくなったからだ。
昨日のセアレウスとの戦いのダメージが癒えていないのである。
「く……くそっ……」
腕に力を入れて体を起こそうとするが、痛みにより力が抜け、一向に立ち上がることはできなかった。
「ダンナ、今は無理をしちゃいけないよ。普通にしてるだけでも辛いんだろう? 」
「うるさいっ! あたしは……あいつに、置いていかれるわけには…」
「ええっ……!? えっと……ダンナ、どうしてあのセアレウスって奴に、そこまで…」
「おまえなんかには分からないよ。あたしとあいつは、ただの――」
「そりゃ、分からないよ。ダンナとあの人は、昨日会ったばかりの他人だろう? 」
「……!! 」
キハンの言葉に、三つ編みの少女は体を硬直させた。
しばらくの間、凍りついたかのように同じ体勢を取っていたが――
「……そう…だった。あたしはもう…」
愕然とその場に蹲った。
「ダ…ダンナ? その……大丈夫か? 」
蹲る三つ編みの少女に、キハンは恐る恐る声を掛ける。
三つ編みの少女が反応することはなかった。
しかし、しばらくすると三つ編みの少女は顔を上げた。
「キハン……あたしの名前を知りたんだよな? 」
「う、うん。でも、ダンナ……名前が無いんじゃ…」
「あるんだよ! あたしは、ロ――ゲホッ!? ゲホッ!? 」
名乗ろうとした三つ編みの少女だが、急に咳が出たことにより、名前を口にできなかった。
「ダンナ……もう今日は休もう。昨日の戦いで疲れちゃってるんだ」
キハンから見て、三つ編みの少女は様子がおかしい。
キハンは、三つ編みの少女を二階にある部屋に連れて行こうと、彼女の腕を掴むが――
「疲れてない! あたしは――ゲホッ! ゲホッ! ゴホッ! 」
「痛っ!? 」
三つ編みの少女は、キハンの腕を振り払った。
その後、三つ編みの少女は床を這い、張り紙が貼られた壁に向かった。
「こいつ! こいつが――ゲホッ! ゴホッ! 」
咳き込みながら、三つ編みの少女は、必死に張り紙の一枚に指を差す。
「そこって……指名手配されてる罪人の手配書じゃ…」
キハンもそこへ向かい、三つ編みの少女が指を差す一枚に目を通す。
「ロロット……ダンナと同じ猿人か。歳も同じくらいっぽいね。この人がどうかしたの? 」
「こいつが――ゴホッ! ゴホッ! 」
三つ編みの少女は、自分に指を差し始めだした。
「……? まさか、このロロットって奴が、ダンナだって言うの? 」
「ゴホッ! ゴホッ! 」
咳き込みながら、三つ編みの少女は必死に頷く。
そんな彼女を見て、キハンは驚いたのか目を丸くすると――
「は、はは……ダンナ、本当におかしくなっちゃたね…」
顔を引きつらせた。
そして――
「このロロットって奴と、ダンナ……全然似てないよ。ダンナがロロットって奴だと思うのは、無理がありすぎる…」
と、口にしてしまった。
その瞬間――
「う、うわあああああ!! 」
三つ編みの少女は絶叫し、店の外へ向かって駆け出した。
この時、彼女は忘れていたのだ。
自分が名乗れないことと、自分が彼女であることを他人が認識しないことを。
走り出した三つ編みの少女だが、すぐに倒れ、キハンに体を押さえつけられる。
「ダンナ! しっかりしてくれ! 一体、何があったんだよ!? 」
キハンは、訳が分からないまま、三つ編みの少女を必死に押さえつける。
「うわああああ!! 待って! 行かないでよおおおお!! 」
キハンに押さえつけられながら、三つ編みの少女はバタバタと暴れる。
「違う! そこにあたしはいないんだ! あたしは、ここにいるんだ! ここにいるんだよおおおお!! 」
三つ編みの少女は、必死に叫び声を上げた。
しかし、どれだけ大きな声を上げても、彼女が求める者――セアレウスには届かない。
彼女にとって、セアレウスは自分を救い出してくれる可能性を持った特別な存在の一人であった。
その彼女に置いて行かれたと思い、三つ編みの少女の感情が爆発したのだ。
泣き叫ぶ三つ編みの少女に、店主は迷惑そうな表情をし、キハンは必死に彼女の体を押さえつける。
三つ編みの少女を理解できる者は、この場に存在しなかった。
――夜。
いつものように、この時間帯になるとロートロアの町は静かになる。
町の酒場は騒がしくなるのだが、昨夜のようにシンと静まり返っていた。
その静寂に包まれた酒場に、セアレウスは帰ってきた。
「ふぅ……ちょっと遅くなっちゃいましたね」
店内に入ると同時に、セアレウスはそう呟いた。
彼女が店内に入ると、やはり人は少なかった。
店内にいる者はセアレウスを除いて、カウンターに立つ店主と、テーブルに突っ伏しているキハンしかいないのだ。
「キハンさん、起きてください」
キハンの元に向かうと、セアレウスは彼女の体を揺すり始めた。
「ん‥…んんっ……あ? あんたは…」
すると、キハンは目を覚まし、セアレウスに顔を向けた。
「か、帰ってきたのか!? ゾロヘイドから……は、半日と……ちょっとの時間で!? 」
セアレウスの顔を見ると、キハンは驚愕の声を上げた。
ロートロアからゾロヘイドは歩いて、およそ一日の時間がかかる。
往復すれば、二日かかる距離である。
休まず走り続ければ、一日で往復することは可能だろう。
しかし、休まず走り続けることなどは、まず考えらない。
キハンにとって、今セアレウスがここにいることは、有り得ないことであった。
「すみません。ちょっと、手こずってしまいまして…」
立ち上がって憤慨するキハンに、セアレウスは頭を下げる。
「て、手こずる? あ……こっちはそんなレベルじゃあなかったよ! あんたがゾロヘイドに行ったって聞いたら、ダンナがおかしくなってさ。押さえつけるのに苦労したよ! 」
「え……そうだったのですか。では、あの子は今…」
「上の部屋で篭ってるよ。晩飯って言っても、出てこない」
「そうですか。なら、わたしが見てきます」
セアレウスはキハンにそう言うと、二階へと続く階段に向かった。
「……なあ、あんた」
セアレウスが階段を一段上がったところで、キハンが呼び止めた。
「ダンナは、昨日会ったばかりのあんたを特別な存在であるかのように言ってた。あんたは、どうなんだ? 」
キハンは、三つ編みの少女の気持ちが分からなかった。
どう考えても分からず、三つ編みの少女の言葉をそのまま理解することでさえもできなかった。
故に、セアレウスに訊ねた。
彼女に聞けば、分かるかも知れないと思ったのだ。
「同じですよ。あの子と一緒です」
問いかけに対して、セアレウスはそう答えた。
それと同時に、階段を上がっていった。
「……同じ…か…」
一階に残されたキハンは、そう呟いた。
セアレウスに聞いた結果、キハンは分からなかった。
ただ、二人が互いに特別な存在であると思っていることだけは、何となく理解した。
二階に上がったセアレウスは、その階にある一室の前に立っていた。
二階の廊下は細長く、人が二人横に並んだほどの幅である。
その細長い廊下の両側に、いくつかの部屋のドアが並んでおり、セアレウスが立っているのは一番奥のドアだ。
「セアレウスです」
セアレウスは、目の前のドアをノックする。
しばらく、中にいる三つ編みの少女の反応を待ったが、何も返っては来なかった。
「……! 」
駄目で元々のつもりで、セアレウスがドアノブを回し、少し引くとドアは開いた。
ドアに鍵はかかっていなかったのだ。
「入りますよ…」
セアレウスは、静かにドアを開け、部屋の中に入った。
この宿屋の部屋には、ベッドや小さめのテーブル等の必要最低限な物しか置いていない。
部屋の隅の角に、ベッドがあり、そこにかけてある布団は丸く盛り上がっていた。
「……ロロットには会えた? 」
その盛り上がった布団から、声が発せられた。
三つ編みの少女は、そこにいるようであった。
セアレウスは三つ編みの少女の声を聞くと、ベッドの前に立った。
「会えませんでした。というより、わたしはロロットに会いに、ゾロヘイドに向かったわけではありません」
「……じゃあ、何をしに行ったのさ」
「ちょっと、調べたいことがありまして。道中は特に問題なかったのですが、調べるのに時間がかかってしまいました。すみません」
セアレウスは、申し訳なさそうに、僅かに頭を下げた。
「……なんで、謝るの? あと、なんで帰ってきたの? 」
三つ編みの少女は分からなかった。
「赤の他人であるあたしに何か用? あたしは、あんたに用は無い。邪魔だから、早く出て行って」
そして、彼女はセアレウスを突き放した。
三つ編みの少女は、僅かにセアレウスに期待していた。
しかし、それは有り得ない。
期待しても無駄であると思い、自らセアレウスを遠ざけるような物言いをしたのだ。
「いえ、出ていきませんよ」
しかし、セアレウスは三つ編みの少女の言葉に従わなかった。
「しばらく……わたしは、あなたと共にいます。一緒に、ゾロヘイドへ行きましょう」
「……え? 」
セアレウスの口から、驚くべき言葉が発せられ、三つ編みの少女は体を起こした。
頭に掛かっていた布団を払い、彼女はセアレウスに顔を向けた。
すると、セアレウスと目が合った。
セアレウスは三つ編みの少女を真っ直ぐ見つめているのだ。
「わたしが探していたのは、あなたです」
「……う、うそ…あっ! 」
ベッドから下りようとした三つ編みの少女だが、足を躓かせて前のめりに転倒してしまう。
セアレウスは手を広げて、倒れだした三つ編みの少女の体を受け止めた。
彼女は三つ編みの少女を抱きしめる形で、その場に座り込んだ。
「わたしは、あなたがロロットだとは思えません。ですが、あなたであることは分かりました」
セアレウスは三つ編みの少女の体を押し、彼女と顔を合わせ――
「やっと会えましたね。わたしは、セアレウス。あなたの課題の手伝いをしに来ました」
と、笑みを浮かべながら言った。
三つ編みの少女は、しばらくの間、放心した様子であったが――
「うっ……ううっ…ああああああああ!! 」
セアレウスに抱きついて、大声で泣き始めた。
言葉の通り、セアレウスはこの三つ編みの少女がロロットだとは思っていない。
しかし、彼女との戦いを通じて、イアンと関係の深い人物であると判断し、身の上話を聞いたことで、彼女がロロットであった人物だと理解したのだ。
このことは、三つ編みの少女に充分伝わっている。
三つ編みの少女は、ようやく自分がロロットであったと認識され、感極まって泣き出したのだ。
それから、三つ編みの少女が泣き止むまで、セアレウスは彼女を抱きしめ続けていた。
「それで、結局何をしに行ってたの? 」
泣き止んだ三つ編みの少女は、セアレウスに、そう訊ねた。
今、彼女はベッドに腰掛けており、目は僅かに赤くなっている。
「ああ、そうでしたね。一生懸命考えたのですが……コウユウというのはどうでしょうか? 」
「……? どうって言われても…」
セアレウスの言わんとすることが分からず、三つ編みの少女は、首を傾げた。
「あなたの新しい名前ですよ」
「へぇ、あたしの新しい……って……え? 名前!? 」
三つ編みの少女は、驚愕の声を上げた。
ここで、自分の名前を貰う事など、夢にも思っていなかったのだ。
「シソウ国の出身でしたよね。だから、シソウ国の人の名前がいいかなーと思いまして…」
三つ編みの少女の名前を考えるため、シソウ国の人物の名前等の知識が必要であった。
そのため、ゾロヘイドほどの大きさの町なら、シソウ国の本が売ってある本屋があると思い、そこへ行っていたのだ。
「それで、コウユウのコウは、シソウ国で最強と名高い昔の武人から取って、ユウは、勇気という意味の文字から取りました。どうでしょうか? 」
セアレウスは、目を輝かせながら、三つ編みの少女に問いかけた。
コウユウという名前は、セアレウスが十以上のシソウ国の本を読み漁り、五十以上の候補から選び出したものである。
相当の自信があるのだ。
「……ださ…」
その自信とは裏腹に、三つ編みの少女には響かないようで――
「がーん! 」
セアレウスは大いにショックを受けた。
彼女は、あまりのショックに、床に膝と手をついて跪いてしまう。
「でも、その名前……ちゃんと、あたしが受け取ってやるよ」
三つ編みの少女は笑みを浮かべると、ベッドから床に下り立った。
「え……でも、ださいって……」
「それは、今だけ。これから、あたしが格好良い名前にするんだよ! 」
三つ編みの少女――コウユウはそう言うと、セアレウスに手を差し出し――
「あたしの名はコウユウ! ありがとう、セアレウス。あと、これからよろしくね! 」
と、セアレウスに微笑みかけた。
「……はい! よろしくお願いします! コウユウ! 」
立ち上がると、セアレウスも微笑みを浮かべて、差し出されたコウユウの手を握った。
イアンの妹であるセアレウス。
イアンと共に度をし、彼に憧れる少女コウユウ。
この瞬間、ようやく二人は手を取り合ったのだった。




