二百六十五話 ロロットという少女が消えた日
ロロットがシソウ国での修行、及び、チョウコウの家に住み始めてから数日後。
「おじさん、ここでいいかな? 」
積み重なったむしろを抱えるロロットがチョウコウに訊ねる。
「うん、そこでいいよ」
麦を編んでむしろを作っていたチョウコウは手を止めて、ロロットの方へ顔を向けた。
チョウコウの答えを聞くと、ロロットは足元に抱えていたむしろを置く。
ここで暮らし始めてから、ロロットはチョウコウのむしろ売りの手伝いをしていた。
最初は遠慮がちだったロロットも、今ではチョウコウのことをおじさんと呼び、距離はかなり近くなっている・
むしろ売りの手伝いをするロロットだが、彼女に麦を編む経験の無い。
しかし、出来上がったむしろを運ぶ等、力仕事でチョウコウの役に立っていた。
二枚や三枚のむしろではなく、百枚ほどのむしろを抱えるロロットに対して――
「ロロットちゃんは力持ちだなぁ…」
チョウコウは、そう呟いていた。
「そんなことないでしょ。おじさんもこれくらいは出来るんじゃあないの? 」
「僕は、五十枚が限界かな。本当に力持ちだよ。君の父であるリン兄さんも、君ほど力持ちじゃあなかった。すごいね、修行でここまで力がつくんだね」
「へぇー……でも、修行はちょっと違うかな。修行する前から、これくらいは出来てたはずだよ」
「ということは、生まれつき? 元から力があったのか……むむむ…」
チョウコウは、僅かに顔をしかめると、口を閉ざして唸り声を上げていた。
ロロットの父であるチョウリンとチョウコウは、文官の家系である。
獣人である猿人は、力は強いものの、彼らの家系は猿人の中でも力の弱い一族であった。
故に、遡れる先祖の中に、武官の者はおらず、皆文官をしていたという。
加えて、チョウリンの妻も力の弱い方の猿人であった。
チョウコウは、力の弱い猿人の血を引くロロットが怪力であることを不思議に思っているのだ。
「うーん……なんだろう? もっと昔の先祖に豪傑でもいたのかな? 」
理由の分からないチョウコウは、そう呟くしか出来なかった。
トン! トン!
「チョウコウ殿、コウガだ。ロロットを連れて行くぞ」
その時、戸が叩かれコウガの声がチョウコウの家の中に響く。
「おお、コウガさん。ロロット、コウガさんが来たよ。行っておいで」
「分かった。じゃあ、行ってくるね」
ロロットはチョウコウにそう返すと、戸を開けて外へ出ていった。
チョウコウの手伝いをしながらも、ロロットは修行をしている。
主にやっていることは、レッカの町へ行き、そこにいる戦士達と戦うことだ。
己の拳を得物として戦う戦士を相手にすることで、彼らの技を身につける目的がある。
しかし、そう簡単にはうまくいかず、ロロットはいつも戦士達に負けるばかりであった。
それでも、ロロットはめげずに修行を続けていた。
つらい修行に耐えられるのは、この修行の最大の目的にある。
それは、イアンの力になることだ。
彼と再び会った時に、前の自分よりも強くなっていようと思う気持ちが、彼女の不屈の闘志になっているのだ。
あと、それとは別に、今の修行に耐えられるもう一つの理由がある。
この数日の間に、ロロットには好物となるものができていた。
「た、ただいま~……」
ロロットは、チョウコウの家の戸を開け、ふらふらと歩きながら中に入ってくる。
ほぼ戦士達に痛めつけらているロロットは、帰る頃にはいつもボロボロになっていた。
「おかえり。今日もすごいね……いつものアレがあるから、飲んでゆっくりしなさい」
むしろを作っていたチョウコウは、ロロットにそう言った。
彼女が帰ってくる時に、いつもチョウコウはこう言うのだ。
「ジュース~♪ 」
そして、彼の言葉を聞いた後、ロロットは満面の笑みを浮かべて、小躍りをしながら机に向かう。
机の上には、ひょうたんが置かれていた。
ひょうたんは、二つの球が繋がった形状をしており、球が繋がった部分はくびれている。
主に、水等の液体を入れる容器をして加工される。
ロロットはひょうたんを持つと、口を塞いでいた栓を抜き、ゴクゴクと中の液体を飲みだした。
「ぷはぁー! うまぁい! 」
液体を飲み干すと、さらにロロットは、満面の笑みを浮かべた。
液体の正体は、ジュースと呼ばれるものである。
ジュースとは、果実を搾って出来た汁のことを指す。
大半のジュースは甘く、ロロットが飲んだジュースも甘い。
チョウコウが用意したジュースにより、ロロットはジュースが好物になったのだ。
「あはは、相変わらず良い飲みっぷりだ」
嬉しそうにジュースを飲むロロットを見て、チョウコウは笑みを浮かべる。
ここでの生活が始まってから、ロロットもチョウコウもよく笑うようになっていた。
二人にとって、今の時間はとても幸せなものだと言える。
しかし、この時間は限られたものである。
その終わりの時は、すぐそこまで来ていた。
ロロットのシソウ国での修行が、あと僅かで終わる頃。
チョウコウは、レッカの町に来ていた。
彼がむしろを売っている問屋があるのは、この町であるのだが、彼がいる場所は問屋ではない。
今、チョウコウがいるのは、肉屋であった。
「まいどあり! 」
肉屋の店主から、注文した肉を受け取るチョウコウ。
彼が受け取った肉は、他の肉に比べて大きいと言えるサイズであった。
(もうすぐ、ロロットちゃんは出て行ってしまうからね。まだだけど、最後に美味しいものを食べて、いい思い出になるといいなぁ)
包に入った肉を抱えるチョウコウは、そう思いながら歩いていた。
チョウコウは、ロロットにご馳走を振舞うために、むしろを売って稼いだ金で肉を買ったのだ。
「まだお金があるな。ジュースも……今日はちょっと高めのものを買おうかね」
チョウコウはそう呟き、ジュースを売っている店屋に足を向けると――
「おう! おっさん、良いもん持ってんじゃねぇか」
「それ肉だろ? さっき買うとこ見てたぜ」
複数の男に囲まれた。
皆、がっしりとした体格をしており、チョウコウは怯えた様子で周りを見回す。
見えるのは、自分を取り囲む男ばかりで、他の者の姿は見えなかった。
「な、なんだ、君達。わ、わたしは、急いでいるのだから、道を開けてくれ」
「そんなこというなよ。それ重そうだし、俺達がもらってやるよ」
一人の男が、チョウコウが抱えていた包みに手を伸ばす。
「触らないでくれ! これは、ロロットちゃんのため買ったんだ! 」
チョウコウは、取られまいと身を振り、男の手を振り払う。
「ちっ! いいから寄越せって、言ってんだよ! 」
「うっ!! 」
チョウコウは、男に殴られて転倒する。
それでも彼は、肉の入った包みを抱えていた。
男は、包みを抱えて蹲るチョウコウの体を蹴り続ける。
「はぁ……はぁ……くそっ! こいつ、しぶといぜ」
やがて、疲れたのか男は、チョウコウに蹴りを入れるのをやめた。
(や、やった……今のうちに…)
男が疲れている隙に逃げ出そうとしたチョウコウだが――
「おい、なにぼさっと見てんだよ! お前らも、こいつを痛めつけろや」
男は、周りの他の男に、そう命令した。
彼が、男達のリーダー格であるようだった。
他の男達よりも、高価な服を身につけており、髪の襟足が長い特徴を持っている。
「ううっ……ああっ!! 」
襟足の長い男の命令に従った男達に蹴られるチョウコウ。
怪我を負い、体中に激痛が走る中、彼は抱えていた包みを離すことはなかった。
「おい、手加減するなよ。もっと力を入れて蹴ろよ」
チョウコウを蹴り続ける男達に、襟足の長い男はそう言った。
「で……でも、あんま強くやると……」
蹴っていた一人の男が、襟足の長い男の男にそう返すと――
「心配すんな。そこは、どうとでもなるからよ。今は、こいつから肉を奪うことだ考えてろ! 」
襟足の長い男は、そう答えた。
男達は襟足の男の言葉に困惑していたが、やがて蹴る足に力が入っていく。
襟足の男の言葉を信じたのだ。
遠慮なしに蹴られるチョウコウは、必死に耐え続けていたが、やがて動かなくなった。
男達は、それに気づかずチョウコウを蹴り続ける。
数十分後、彼等はようやくチョウコウが動かなくなったことに気づき、その場を去っていた。
そこに残されたのは、蹴られてボロボロになって横たわるチョウコウの身体だけであった。
――夕方。
修行が終わったロロットは、チョウコウの家を目指してレッカの町を歩いていた。
早く帰ろうと早足で歩いていたロロットの前方に人だかりがあった。
その人だかりのせいで道が通れず、ロロットは顔をしかめる。
回り道をしようかと考えていると、人だかりの一部が一瞬だけ開かれ――
「……!! 」
その瞬間、ロロットは人だかりの中へ入っていた。
人をかき分けて進むロロットは焦燥している様子であった。
彼女は、見てしまったのだ。
人だかりの中心、そこに倒れているチョウコウの姿を。
「……」
チョウコウの元に辿り着いたロロットは――
「お、おじさん! こんなところで何をやってるの! 」
腰を下ろして、チョウコウの体を揺すり始めた。
「もうよしなよ。気の毒だが、彼はもう……」
もう動くことのないチョウコウを揺するロロットの肩に、男の手が置かれた。
彼は、この町の医者であり、チョウコウの容態を見ていた。
その結果、チョウコウは死亡しており、これからその死体を運ぶことろであった。
「う、嘘だ……だって……あと、もう少しだよ? まだ、あとちょっとだけ、恩返しができるんだ」
ロロットは、医者の手を払い除け、チョウコウの体を揺すり続ける。
「もうよしなって。辛かったろう……彼は、そうとう誰かに殴られていたようだ。もう、静かにさせてあげよう」
医者の部下に羽交い締めにされ、ロロットは無理やり引き剥がされた。
ロロットが離れると、医者は淡々と死体の処理を始める。
その間、ロロットは呆然としており、やがて慰謝の部下から開放されると、その場にへたり込んだ。
呆然とするロロットからは、異様な空気が放たれ、人は彼女に近づくことはなかった。
集まった人々は、チョウコウのことについて会話をしている。
彼らは、チョウコウの悲惨な死に方や、生前の彼についてのことを話していた。
「誰がやったんだろう? 」
「さぁ……でも、考えられるのは、キショウの連中かな」
「……!! 」
呆然としていたロロットだが、突如立ち上がり近くにいた男性の胸ぐらを掴み上げた。
「う、うわああああ!! 」
軽々と男性を持ち上げられ、男性は訳が分からず悲鳴を上げる。
「そのキショウってやつは、どこにいるの? 」
そんな男性に、ロロットはそう訊ねた。
今のロロットは、氷のように冷めた表情で、声も冷たいものであった。
ロロットは、レッカにある建家の前にいた。
そこにキショウがいるらしく、ロロットは、その建家の戸を勢いよく開けた。
すると、中にははしゃぐ男達がおり――
「なんだ? このガキ」
奥の椅子にあぐらをかいて座っていた男が、ロロットを睨みつけた。
彼の髪の襟足は長く、手には調理された肉が持たれていた。
ロロットが建家の中を見回すと、他の男性も肉を持っており、彼等は肉を食べて騒いでいたようであった。
「……キショウって、あんた? 」
ロロットは、奥にいる襟足の長い男に、声を掛けた。
「ああ? だったらなんだよ。俺になんか用か」
襟足の長い男――キショウは、椅子から立ち上がる。
「そこで、男の人が倒れてたけど、やったの……あんた? 」
「はっ! なんだ、そんなことか」
ロロットの問いかけを笑い飛ばすと――
「お前、あのおっさんのガキか? 可哀想になぁ」
キショウは、顔を歪ませ、馬鹿にするような声音でそう言った。
「俺ら肉が欲しかったんだよね。でも、おっさんがいつまでもくれないからなぁ。すぐくれてりゃ、お前は一人にならずに済んだのに……ひどいね、君のお父さんは」
そのキショウの言葉の後、他の男達がロロットの周りを囲み出す。
男達は、ロロットを睨みつけたり、挑発するように笑っていた。
「お父さんみたいになりたくなかったら、帰りな。俺に歯向かったら、ただじゃ済まんぞ」
「……」
キショウの言葉に、ロロットは何も返さなかった。
ただ、顔を俯かせて、左右の拳を握り締めるだけであった。
「…………だ」
否、ロロットは言葉を返していた。
「はぁ? 何言ってんだ、こいつ」
彼女の言葉は、キショウはおろか周りの男達にも聞こえていなかっただけであった。
「はぁ、めんどくせぇ。一発、殴っときますわ」
痺れを切らしたのか、ロロットを取り囲む男の一人がロロットに殴りかかる。
ロロットは避ける素振りを見せず――
ゴッ!!
男の放った拳を頬に受けた。
その瞬間――
「ひどいのは、お前らだああああああ!! 」
「ぶっ――!? 」
ロロットは、殴ってきた男を殴り返した。
彼女の拳は、男の頬にめり込み、勢いよく体を吹き飛ばす。
壁に激突した男は呻くことなく、動かなくなった。
「お、おい! って、こ、こいつ、動かねぇ……おい、死んでんぞ! 」
吹き飛ばされた男の元に言った他の男がそう声を上げた。
ロロットに殴られた男は、死んでいた。
「て、てめぇ! よくもやったな!! 」
仲間を殺されたことに怒りを覚えたのか、男達は一斉にロロットに殴りかかる。
「うあああああああ!! 」
ロロットは男達に殴られながらも、男達へ拳をぶつけていく。
男達の拳はロロットに大したダメージを与えられていない様子。
しかし、ロロットの拳は男達に致命的なダメージを与えていく。
体に当たれば骨を折られ、顔に当たれば顔面は粉砕され、頭に当たれば頭蓋骨が砕け散るといった具合だ。
「ひっ! も、もうやめてくれ! 俺はもう――」
「黙れえええええ!! 」
「あああああっ!! 」
致命傷を負い、戦意を失った男に対しても、ロロットは容赦せず叩き潰した。
「な……なんだよ、こいつ……なんだよ、お前! 」
先ほどのような威勢はなく、キショウは怯え切った顔でロロットを見ていた。
自分よりも背の高い男達を殴り殺すロロットは、彼にとって化物に見え――
「絶対に許さない! よくも……よくもおおおおおお!! 」
実際に、今のロロットは鬼の形相をしていた。
やがて、男達を全員叩き潰したロロットは、その鬼の形相をキショウに向ける。
「お……俺が悪かった。だから、見逃してくれ」
ロロットと目が合ったキショウは、そう言った。
しかし、それでロロットの怒りは収まらない。
「ふざけるなああああ!! 」
逆に、ロロットの逆鱗に触れた結果となっていた。
ロロットは拳を振り上げて、キショウの元へ向かう。
そして、憎いキキョウへ拳を叩き込む――
「……!? 」
が、その拳は寸でのところで止まった。
突き出された彼女の腕は誰かに掴まれていた。
「もうよせ」
ロロットの拳を止めたのは、コウガであった。
彼女は後ろから、ロロットの腕を掴んでいるのだ。
「離して、先生! こいつは、おじさんを……」
「……そうだろうな。だが、こいつを殺してもチョウコウ殿は生き返らん」
コウガは、先ほどロロットがいた人だかりの場所へ行っていた。
そこでおおよその状況を把握し、キショウ達へ報復しに来たロロットを追い、ここに来ていたのだ。
「ひ……助かった! 」
キショウは、ロロットがコウガに止められているうちに、建家の外へ向かって走り出す。
「待て! 逃げるな! お前は、あたしが! 」
「よせ! もうこれ以上拙者との約束を破るな! 」
「……!? 」
キショウを追おうとしたロロットだが、コウガの言葉を聞き、動きを止めた。
その時、キショウは建家の入口に辿り着いていた。
そして――
「お前、ロロットって名前だな! 殺人と俺を殺そうとした罪で、お前は罪人だ! 覚悟しろよ」
キショウはそう吐き捨てると、建家の出て走り去っていった。
「くっ……名前を知られていたか。奴の一族は、厄介だというのに…」
悔しげに、コウガがそう呟いた。
「……仕方ない。ロロット、周りを見ろ」
コウガに促され、ロロットは周りを見回す。
彼女の周りは、体を破壊された男達の死体が転がっている悲惨な光景であった。
「こいつらがひどい輩だったのは分かる。だが、おまえがこいつらと同じになってどうする! 」
「……でも……だって…」
「ダメだ! これではダメなのだ。こんな戦い方は、ただの殺戮だ。こんな……破壊するだけの力なんぞ誰も求めてはいない」
コウガはロロットをそう叱ると、ロロットの両肩を掴み、自分の方に彼女の体を向けさせた。
「私的な理由で、人を殺すことを禁ずる。これを破ったおまえに罰を与える」
コウガはそう言うと、ロロットの額に自分の右手のひらを当てた。
「今からおまえをロロットとは認識できないようにする魔法をかける。おまえは、もうロロットと名乗れないし、大半の者は、お前をロロットと認識できないだろう」
「え……それって…」
「おまえから、名前を奪うのだ。これからロロットは罪人の名となる。今のおまえにふさわしい罰だ…」
「ま、待って! じゃあ、あたしは……これからあたしは、誰になるの! 」
「誰でもない。名の無い猿人になる」
コウガがそう答えると、彼女の手のひらから光が放たれる。
「さらばだ、ロロット。拙者は、おまえに罰を与えることしかできない。すまんな…」
魔法に集中するためか、コウガは目を閉じた。
その彼女の表情は心なしか、悔しげに見える他、申し訳なさそうにも見えた。
「ロロットは大切な……せん……せ…」
ロロットの意識は、そこで途絶えた。
この日から、彼女はロロットではなくなった。




