二百六十四話 少女が名乗る名は
トウロウ村から出て、北を目指して歩いて十分程。
ロロットとコウガは、トウロウ村で出会った男の家についた。
そこは麦畑が広がっている場所で、男の家はその麦畑に囲まれるように建っていた。
家の中は狭く、部屋が一つしかないことから、彼が独身であることが想像できる。
部屋の隅に、藁で作られたむしろが積まれていることから、男はむしろ売って生計を立てているようであった。
「どうぞ、座ってください」
部屋の中央には、机といくつかの椅子があり、ロロットとコウガは横に並んで座った。
二人が座った後、その向かいの椅子に男が座る。
「申し遅れました。私は、チョウコウと申します」
男――チョウコウは、自分の名前を言うと同時に頭を下げた。
「チョウコウ……さっき、あたしとお母さんを待ってたって言ってたけど、もしかして……」
「そう。私は、君のお母さんの友人……さ…」
ロロットの呟きに、チョウコウは僅かに目を伏せながら答えた。
「やっぱり……お母さんは、チョウコウ…さんのところへ行こうとしてた。それで……」
僅かに逡巡したロロットだが、彼女はチョウコウに真っ直ぐに見つめ――
「自分のことについて分からないことがある。チョウコウさんは、あたしのことを知っているの? 」
と答えた。
「知っているよ」
すると、チョウコウもロロットの目を見据える。
そして、決心がついたかのように頷くと、彼は口を開いた。
「話すとなると、私の兄……君のお父さんの話からしなきゃいけないね」
「え? 兄……チョウコウさんは、あたしの叔父さん? 」
「そうなるね。じゃあ、君のお父さんの話から始めよう」
ロロットの父親の名前は、チョウリン。
シソウ国の中央に位置する王都、その北隣の町であるユウセンの出身の猿人であった。
文官という行政等の事務処理を行う役人の家の出であり、彼も文官の職についた。
チョウリンの弟であるチョウコウも以前は文官の職についており、同じ役人の目から見て、チョウリンの仕事っぷりは他よりも秀でていたという。
彼は、故郷であるユウセンの村娘と結婚し、やがて一人の子を授かる。
「その子は、チョウ・ゲントク。ロロットちゃん、君の本当の名前だ」
「本当の名前? 」
ロロットが、チョウコウの発した言葉に疑問を持った。
「ああ。後で説明するけど、君はずっと仮の名前を名乗っていたことになる」
「え……? 」
ロロットは、口を開けたまま動けなくなった。
今まで、自分の名前だと思っていたものが仮の名であったことは、彼女にとって衝撃だった。
「ちょっと待ってくれ」
ロロットが放心する中、閉ざされていたコウガの口が開かれた。
チョウコウは、申し訳無そうにロロットを見つめていたが、コウガに顔を向ける。
「本当の名前と言ったが、名を言わないのか? 」
「……え? 」
ロロットは、コウガに視線を向けた。
チョウコウは、ロロットの本当の名前を言ったはずである。
なのに、名を言っていないとはどういうことなのかと、ロロットは不思議に思ったのだ。
「……実は、私はロロットちゃんの名を知らないんだ」
しかし、チョウコウはコウガの言わんとすることを理解しているようで、彼女の問いかけに答えた。
「え……どういうこと? 名って……みんな、何を言っているの? 」
一人だけ話についていけていないロロットが、二人を交互に見る。
「ロロットよ、この国の者の多くは、姓、名、字という風に自分を示す言葉が分けられているのだ」
コウガがロロットに顔を向けて説明する。
シソウには、姓と名に加えて字というものが存在する。
字は、この国の者達が名を滅多に口にしてはいけないという風習から出来上がったものであると言われている。
「聞いた感じでは、チョウが性でゲントクは字だろう。名を知らないとは、どういうことだろうか? 」
コウガがチョウコウに訊ねる。
「ロロットちゃんが生まれた時、兄と義姉は性と字だけを私に教えてくれました。名は後で言うつもだった……のでしょう」
「……ということは、ロロットの……チョウ・ゲントクの名は…」
「……分かりません…」
チョウコウは、申し訳無そうに俯いた。
彼に視線を向けていたコウガは、ロロットに顔を向け――
「ロロットよ、どうする? 」
と、訪ねた。
今まで名乗ってきたロロットという名前と、チョウ・ゲントクという本来の名前。
これからどちらを名乗るのかを問いかけているようであった。
コウガの言わんとすることを察したのか、ロロットは顔を俯かせる。
しばらくの間そうした後、ロロットはゆっくりと顔を上げた。
「まだ、決めれない。まだ、知らないことがある」
ロロットはそう言うと、俯いているチョウコウを真っ直ぐ見つめる。
「……じゃあ、話の続きをしよう。君が生まれて数年……二年くらい経った頃…」
チョウコウも顔を上げ、ロロットを見つめ返し、先ほどの話の続きを語りだした。
チョウリンに子が出来てから数年経ち、事は起きた。
真面目に働き、誰からも信頼の厚かったチョウリンに、謀反の容疑がかけられたのだ。
無論、チョウリンは容疑を否定し、周りの者も彼を信じた。
しかし、彼の容疑が晴れることはなかった。
国王が頑なにチョウリンの謀反を疑わなかったのだ。
チョウリンの訴えも虚しく、彼は投獄。
程なく、焼身刑に処され、チョウリンは生きたまま炎に焼かれて死亡した。
そして、これだけでは終わらなかった。
罪人に兄弟や親族、家族がいた場合、その者等にも処罰が下る場合があるのだ。
これにより、チョウリンの妻も死刑、弟のチョウコウは幸いにも数年間投獄される刑が下されることになった。
罪人の子、チョウ・ゲントクにも何かしらの刑が下るはずであったが、そうはならなかった。
何故なら、謀反の容疑がかけられてからすぐ、彼女は別大陸へ逃げていたからだ。
チョウリンは、容疑がかけられた時点で、その容疑が晴れることはないと判断していたのだ。
彼と彼の妻は、自分の子を守るため、別の大陸へ逃がすことを考えていた。
その役目を担ったの者は、ショウという猿人の女性だった。
兄夫婦に代わり、チョウコウが別大陸へ逃げてくれる人を探す中、彼女が名乗りを上げたのだ。
ショウは、ユウセンの町の娘で、チョウコウとは幼馴染の関係である。
それ故に、巻き込むまいとチョウコウは苦悩するが、他に頼れる者が見つからず、結局彼女に兄夫婦の子供を託した。
その時、別の大陸の環境に溶け込んでいけるようにと、ショウはリオットと名乗り、預かった子をロロットと呼んだ。
「そうして、二人は別大陸へ旅立ったんだ。数年後、ロロットちゃんが十歳くらいになった頃に、帰ってくると約束してね…」
チョウコウはそう言い、自分の知りうる話を締めくくった。
「……」
彼の話を聞いた後、ロロットは何も発することはできなかった。
本当の両親のこと、その両親が処刑されたこと、リオットが自分の母ではなかったこと、自分の知らなかった様々なことを聞き、やはり衝撃をを受けているのだ。
その中でも一番の衝撃は、ロロットという名前が本当に仮の名前であったことだ。
そのことが、これから名乗る名前を決めるロロットを大いに悩ませるのであった。
ロロットが何の反応も示さない間、チョウコウは肩を落とし、顔を俯かせていた。
「こうして、牢から出た私は、むしろ売りとして静かに暮らすことができた……でも…」
顔を俯かせていたチョウコウは、ゆっくりと顔を上げた。
チョウコウの顔を見て、コウガは目を伏せ、ロロットは顔を歪めてしまう。
「ショウは……リオットは死んでしまったんだね…」
チョウコウは泣いていたのだ。
自分の母をしてくれていた人の死を悲しむ彼の姿を見て、ロロットは胸を締め付けられる気持ちになっていた。
しかし、ここで何も言わないことはできない。
ロロットは、重くなった口を必死に開き――
「リオット……あたしのお母さんをしてくれた人は、あたしを守って……」
と、言い顔を伏せた。
今のロロットには、そう言うのが精一杯であった。
「……そうか。最期までロロットちゃんを守ってくれたのか…」
ロロットの言葉を聞くと、チョウコウは顔を上げ――
「ありがとう、ショウ。だから……僕は君のことが……」
と、呟いた後、机に突っ伏して泣き崩れた。
顔を伏せる彼の体は震え、両手の拳は強く握り締められていた。
「……ううっ…」
彼の姿に、ロロットも目に涙を浮かべる。
そんなロロットに――
「よく言えたな」
と言って、コウガは彼女の肩に手を置いた。
そして、程なくロロットも泣き崩れた。
日が暮れ始め、麦畑の金色に赤みがかかる頃。
ロロットとコウガは、チョウコウの家の前にいた。
「ロロットちゃん、君が生きていたことを知れただけでも僕は嬉しいよ」
「うん……」
「……チョウコウ殿、今のこの子にはやるべきことがある。名残惜しいが、これでさらばだ」
ロロットとコウガはこの場を去り、レッカを目指そうとしていた。
今は、チョウコウに別れの挨拶をしている最中である。
「……日が暮れ始めている今、すぐにでも出発したいのだがな……ロロット」
コウガに名前を呼ばれ、ロロットは彼女に顔を向ける。
「自分が名乗る名前は決まったか? できれば、今決めて欲しい」
そう言うと、コウガはチョウコウに顔を向ける。
彼にロロットがどちらの名を名乗るかを知って欲しいのだ。
ロロットも気持ちは同じであり、彼女は決心がついたかのように、引き締まった顔で――
「あたしは、ロロット。本当の両親には悪いけど、やっぱり、この名前が良い」
と、言った。
「……そう。やっぱり、そっちになるよね」
ロロットの答えを聞いたチョウコウは笑みを浮かべていた。
「よくぞ決断した。これで憂いはもう無いだろう。さらばだ、チョウコウ殿」
コウガはチョウコウに頭を下げると、踵を返して歩きだした。
「…………ん? 」
しかし、十歩ほど歩いた所で、彼女は足を止めて振り返る。
ロロットが自分の後ろについて来ていないのだ。
彼女は動かず、未だに同じ場所に立ったままであった。
どういうことかとコウガが見ていると――
「修行の間……ここに住んでいい? 」
ロロットはそう口にした。
「えっ!? 」
「……」
彼女の言葉に、チョウコウは驚き、コウガは表情を変えず、黙ったままであった。
「修行はちゃんとやる。その合間に、チョウコウさんの力になりたいんだ」
「……チョウコウ殿、ロロットはああ言っているが、よろしいか? 」
「え……構いませんが…」
「なら、良いだろう」
チョウコウの答えを聞くと、コウガは顔を正面に向け、再び歩き始めた。
「修行の時間になったらここへ来る。ロロットよ、ここでの修行の間、しっかりチョウコウ殿の助けになるがいい」
コウガは振り返ることなくそう言うと、麦畑に囲まれた道を真っ直ぐ歩いて行った。
「……ありがとう、先生。チョウコウさん」
コウガの背中を見つめた後、ロロットはチョウコウに体を向ける。
「あたし、お母さん……リオットさんには、何も返せなかった。その代わりというかなんというか……チョウコウさんの助けをしたいんだ」
ロロットは、自分を育ててくれたリオットに何もしてやれなかったことを後悔していた。
何も出来なかった分、少しでもチョウコウに恩を返したいと思ったのだ。
「ありがとう。少しの間、君と暮らせるだけでも僕は嬉しいよ」
チョウコウはそう言うと笑みを浮かべて、ロロットの頭を撫でた。
頭を撫でられる中、ロロットは思っていた。
もしかしたら、自分はこのまま彼と一緒に暮らしていたかもしれないと。
しかし、その未来はもう訪れない。
今のロロットには別の居場所があり、そこを守るために修行をしていることを彼女は忘れていない。
だからこそ、ロロットはこの時に、チョウコウと共に暮らすと口に出来たのだ。
シソウ国の名前の仕組みは、三国志に出てくる人とだいたい一緒。
字の無い人もいる。
チョウ・ゲントク。漢字で書くと張 元徳。
作中で知らされていない名の部分は、徳に関系する漢字になります。




