二百十五話 変わらない恩人の背中
キン! コーン!
鐘が鳴り、ブラッドウッド学院のその日の授業が終わりを迎える。
「うーん……終わった」
保健室にて、そこを管理する先生――ラナ・サージェントは机に座ったまま大きく伸びをした。
「今日は、珍しく……珍しく! ヴィクターくんが来なかったから、平和だった」
珍しいという言葉を強調するラナ。
ヴィクターが保険室に来ないことは、彼女にとって珍しいことなのだ。
上に伸ばした両腕を下ろし、ふと、ラナは窓の外へ目を向けた。
窓の外のグラウンドには、クラブ活動を行う学生達と帰路に着く学生達の姿が見えた。
校門に向かって歩く学生達の中に、ラナの目を引く学生が現れる。
「お、ヴィクターくんだ」
その人物はヴィクターであった。
彼は、校門に向かって走っている。
門に向かう学生達では、ヴィクターだけが走っており、誰から見ても目を引く存在であった。
「走ってるなぁ……そういえば、あの人も、あんなふうに走ってたっけ…」
ラナは、走るヴィクターと誰かの姿が重なり懐かしい思いをした。
彼女は窓から視線を逸らすと、机の引き出しを開ける。
「……」
引き出しの中には文房具の類と、綺麗に折りたたまれた緑色の小さな布があった。
――ある日の午後。
学校の授業が終わり、ブラッドウッド学院の学生であるヴィクター、ケイルエラ、リトワの三人は探偵部の部室に向かっていた。
「探偵事務所の依頼やアンティレンジにかまけてばっかしじゃあ、ダメってね。依頼が来てないか見に行くぞ」
「依頼が無かったら、生徒会の仕事をやろっか」
「げっ!? 勘弁してくれよ。こうなりゃ、何でもいいから依頼が入っていることを祈るぜ」
「何でもいいから……よっぽど無茶じゃなければ、ボク達に選ぶ権利は無いと思うけど……」
三人は、会話をしながら旧校舎の廊下を歩く。
「あれ? 部室の前に誰か立ってるよ」
リトワが前方に指を差す。
「あん? ありゃ、保険室の先生じゃねぇか。何してんだ? 」
部室の前に立っていたのは、ラナであった。
「ラナ先生でしょ。ラナ先生、何か御用ですか? 」
ケイルエラが、前方のラナに声を掛ける。
「あ……ケイルエラさん、それにヴィクターくんと……あなたは転入生の……」
「リトワです……そろそろ転入生は卒業したいのですが、まだダメでしょうか? 」
「あ、ごめんなさい! リトワさん」
ラナはリトワに頭を下げた。
「おい、リトワよぅ。そこまで言う必要ないんじゃねぇの? 先生は悪気はないぜ」
先生であるラナに頭を下げさせたリトワに、ヴィクターはやんわりと咎める。
「いや、悪気があろうとなかろうと、はっきりと言うべきだ。ボクは、ブラッドウッド学院の学生。いつまでも転入生じゃない」
リトワに悪びれる様子はなかった。
「……はぁ、そうかい。先生、もう顔上げな。それで、依頼でもあんのかい? 」
「あ……うん」
ラナは顔を上げると、緑色の小さい布を取り出す。
「それは……ハンカチですか? 」
「うん。昔、私を助けてくれた人が貸してくれた物なの。これを元の持ち主に返して欲しいのだけど……」
「人探しかぁ、厄介だ――」
「ふんっ! 」
「なぐえっ!? 」
ケイルエラに脇腹を肘で突かれ、ヴィクターは呻き声を上げる。
「ラナ先生、その依頼引き受けましょう」
「待てよ、ケイ。毎回、部長を差し置いて、話を進めんじゃねぇ」
「はぁ? ロクなこと言わないくせに、黙ってなさいよ」
「そんなことねぇよ! 先生、ちょっとハンカチを見せてもらってもいいか? 」
「うん、いいよ」
ヴィクターはラナからハンカチを受け取ると、それを広げてジッと見つめる。
「……これ、母ちゃんが持ってたやつと同じだな。色が違うけど……」
「……昔と言っていましたが、具体的には? 」
リトワは、ヴィクターから視線を外し、ラナにそう訊ねる。
「私がまだ十二歳の時だから……十六年前かな」
「十六年前……この中で、ボクが一番経験が浅いけど、一筋縄では行きそうにないね」
「だからって、引き受けないわけには行かないよ。でも、ハンカチはラナ先生が直接その人に返しましょう」
「え? 」
ケイルエラの発言に、ラナは間の抜けた声を出した。
「おう、ケイの言う通り、直接会ってお礼の一つでも言ったほうがいいと思うぜ」
「え、ええぇ、でも……」
ラナは視線を落として俯いた。
「ラナ先生は、ずっとハンカチを返したいと思ってたんでしょう? なら、自分で渡したほうが絶対いいですって! 」
ケイルエラは、ヴィクターからハンカチをもらうと、ラナにそれを差し出した。
ラナは俯いたままであったが、差し出されたハンカチが視線に入ると――
「……うん、みんなの言う通りだね。自分で渡すよ」
差し出されたハンカチを受け取った。
「でも、ハンカチは私が持ってていいの? 」
「いいですよ。物がなくても、探す方法はありますからね」
ケイルエラはそう言うと、服のポケットから小さな冊子と羽ペンを取り出した。
「そのハンカチを貸してくれた人の特徴と出会いを詳しく聞かせてください」
――ブラッドウッド学院 校門前。
「特徴は、当時十六、七歳くらいの男、茶色のトレンチコートを着て、キリッとした顔立ち……これだけじゃ探すのきついぜ…」
「しかも十六年も前の情報だからね……正直、当てにならないね」
ラナから話を聞いた後、ヴィクター達はそこに集まっていた。
「当てになんのは……えーと…今は三十前半の歳になっていること、緑色のハンカチを持っていたことと、先生を助けたっつーエピソードだけかぁ……見つかるかねぇ…」
三人は、そこでラナから得た情報を整理し、元のハンカチの持ち主を探す準備をしていた。
「二人共、何を弱気になってるの! 絶対に見つけ出すわよ! 」
少ない情報で人を探す苦労にげんなりするヴィクターとリトワ。
そんな二人に対し、ケイルエラはやる気に満ち溢れていた。
「ケイ先輩、いつになく張り切ってるね」
「ええ? リトワちゃんは、ラナ先生の話を聞いて何も感じなかったの!? 」
リトワのげんなりしている様子に、ケイルエラは目を大きく開く。
「感じたこと? ありふれた話だなぁって思った」
「な!? なんてことを! あんな素敵な話をありふれた話だなんて! 」
「素敵な話かはともかく、案外ありふれてはいねぇと思うぜ。見ず知らずの迷子の女の子を助けるなんざよ」
ラナがハンカチを貰った経緯はこうだった。
十二歳のラナはタブレッサに一人で訪れていた。
当時、彼女はノーラスラッドの村に住んでおり、その時が初めてタブレッサに行った時である。
目に映るものは、彼女にとって目新しいものばかりで、特にセンタブリルにある時計塔が印象だったと言う。
しかし、意気揚々とタブレッサの街道を歩いていたラナは、住宅街の路地に迷い込んでしまう。
タブレッサの町に慣れていなかったラナにとってはどこも同じ景色に見えるのだ。
歩き続けていても路地から出られず、蹲って泣いていた時、一人の少年が現れた。
その少年は泣いているラナにハンカチを手渡すと、彼女の手を引き、近くのロープワゴンの駅に連れていく。
その時には、ラナの涙は止まっており、少年にお礼を言おうと隣に顔を向けると、そこに少年の姿は見えなかった。
彼女が後ろに振り返ると、走る少年の後ろ姿が遠くに見え、人ごみの中に消えていったという。
「その時に返しそびれたハンカチをいつか返そうと、ずっと大事にしていたのよ? なんか、こう……グッとこない? 」
「グッと来る? 先生がずっと、その助けてくれた人を想い続けていたとでも言うのかい? 」
「ぐはっ! リトワちゃん、分かってるじゃん! くぅ~この胸の高鳴り! 」
「痛っ!? ちょ…痛え! ケイ、なんで俺を叩く!? 」
ケイルエラは興奮を噛み締めるような笑顔を浮かべながら、隣にいるヴィクターの背中を何度も叩く。
彼女は、ラナがハンカチをくれた人物に恋をしていると思い込んでいるのだ。
「くそっ……惚れてるって、まだ確定してねぇのにこれだぜ。再開して付き合いだしたら、どうなるか――」
「え!? 付き合っちゃうの!? きゃあああああ!! 」
ヴィクターを叩いていた手が、平手から握り拳に変わる。
「ぐわああああああ!! 」
「うわぁ……これが口は災いの元ってやつだね。というか、二人共……早く探しに行こうよ…」
拳を振るい続けるケイルエラと、それに殴られるヴィクターをリトワは呆れた目で見ていた。
ヴィクター達が、ハンカチの持ち主を探し始めて数日。
彼等は、手分けをしてタブレッサの町を歩き回った。
その中で、道行く三十代くらいの男性に、十六年前に少女を助けていないか等のことを聞く。
しかし、訊ねた男性達の中で、首を縦に振るものはいない。
ラナを助けたという男性の捜索は、ヴィクターとリトワの言った通り、困難を極めるものであった。
「ぐぬぬ……五日以上も捜索しているのに、かすりもしないなんて……」
ケージンギアの街路の端にヴィクター達は集まり、そこでケイルエラが手にした冊子を睨みつけていた。
そこには、捜索の記録が記されており、彼女の望む記録が記されていないのだ。
「先生が名前を聞いてないのが、致命的だよなぁ。名前が分かりゃ、まだ希望はあったぜ」
「……ケイ先輩、そろそろ捜索の打ち切りを考える頃じゃあないかい? ボク達がやらないければいけないことは、他にもあるはずだよ」
「うっ……分かってる…けど、もう少し頑張ろうよ…」
リトワに捜索の打ち切りを提案されたが、ケイルエラはまだ諦めるつもりはなかった。
「こんにちわ。ヴィクターくん、ケイルエラさん、リトワさん」
その時、彼らに挨拶をする者が現れる。
三人はその声がした方向に目を向けると、目の前にラナが立っていた。
ラナは学校では、保険室の先生ということで白衣を身につけているが、今の彼女は身につけていない。
彼女は今、白いワンピースを着ており、肩に小さなカバンをかけていた。
「あ、ラナ先生……こんにちわ。もしかして、ケージンギアにお住まいが? 」
挨拶を返した後、ケイルエラがラナに訊ねる。
「はい……だけど、ここからだとちょっと遠いかな。あなた達は……あの人を探しているところ? 」
「はい。まだ見つけていません。ですが、必ず――」
「いいえ。もう……探さなくていいですよ…」
ラナは、首を横に振りながら、そう言った。
彼女のその言葉と仕草に、ケイルエラは言葉を詰まらせ、イアンとリトワは視線を下ろす。
「ラ、ラナ先生、なんで……」
「……少し考えたの。やっぱり、これは他人に任せちゃいけないことだって。あとは、私が自分で探すよ」
「でも……」
納得できないケイルエラ。
「三人共ありがとう。あなた達の言った通り、ちゃんと会って、ハンカチを渡して、あの時のお礼を言うから心配しないで…」
ラナはそう言うと、微笑んだ。
三人は、元のハンカチの持ち主が見つかるまで、捜索し続けるだろう、
ラナはそう思い、ヴィクター達を止めに来たのだ。
どこにいるも分からない人物を探すという不毛なことをやめさせるために。
「……ケイ、どうするよ? 」
ヴィクターとリトワがケイルエラに視線を向ける。
ケイルエラは顔を俯かせていたが――
「そう……ですか。分かりました……力が及ばず、申し訳ありません…」
顔を上げて、ラナの顔を見たあと、彼女に頭を下げた。
ケイルエラを見て、ヴィクターとリトワも頭を下げる。
「あ、頭を上げてください! あなた達は充分やってくれましたよ! 謝る必要はありません! 」
ラナが慌てて、三人の頭を上げさせようとする。
「……探すっていう依頼だったからな。実質、依頼失敗だぜ」
「……でも正直言って、先生から捜索を止めてもらえて、助かった……かな? 」
ヴィクターとリトワの頭が上がる。
「くっ……ううっ……二人が再開する姿が見たかったよ~」
そして、悔しげに表情を歪ませるケイルエラが頭を上げた。
「はぁ……俺達がその時を見れるかどうかはら知らねぇけど、いつかは会えんだろ。それで、先生は俺達にそれを言いに来たの? 」
「うーん……あなた達に会えたのは偶然だね。他に行くところがあったの」
ヴィクターの問いに、ラナはそう答えた。
「この近くに、あの時の路地があるの。そこい行ってみようと思ったんだ」
「出会いの場所……よろしければ、私達も一緒に行っていいですか? 」
「うん、いいよ。こっちにあるからついてきて」
ラナはそう言うと歩き始めた。
ヴィクター達、三人はラナの後についていき、しばらく街道を歩くと、目的の場所に辿り着いた。
「ここ……やっぱ、昔っから変わんねぇんだな…」
すると、ヴィクターがそう呟く。
辿り着いたのは、古い住宅街であった。
彼等はその路地の入口の手前に立っている。
「奥で、私は迷って、ここから出てきた……はず」
「はず……ああ、ここみたいだね」
リトワが周りを見回した後、そう言った。
この場所から、ロープワゴンの駅までの距離は短い。
目の前の路地から、かつての少年と出てきたと、ラナの記憶から推測できた。
「懐かしい……ここから、あの人が私を手を引いて……」
「ん? 人が通るみてぇだな。道を開けっか」
路地の先を見るヴィクターの目に、こちらに向かってくる人影が映った。
その人影は、どうやら走っているようで、四人は慌てて道を開ける。
「……あれ? ヴィクターくん達…」
その人影が横を通り過ぎるとき、彼はそう口にした。
「オジさんじゃん。何してんの? 」
ヴィクターが、目の前で立ち止まった人物にそう訊ねる。
向かってきた人影は、ジグスであった。
「何してんのって……依頼だけど……って、ゆっくり走っている場合じゃないね。じゃあね」
ジグスはヴィクターにそう言うと、走り去って言った。
「ああ? オジさんのくせに忙しいのか……それにしても、オジさんのせいで、空気がぶっ壊れたなぁ。なんか、ごめん。身内から、謝罪させてもらうぜ」
「……」
「……あれ? 先生どうしたの? 」
リトワが、ラナにそう訊ねた
彼女は、ジグスが走り去った方向に顔を向けたまま、動かなくなっていた。
「…………え? 嘘……え、ええええええ!? 」
その時、ケイルエラが、ジグスが走り去った方向とラナを交互に見て、叫びだした。
「あ? なに? どうした? ケイ」
「……ラ、ラナ先生を助けたのは、ジグス所長だった? 」
ケイルエラは、じっとジグスの走り去った方を見るラナの姿に、そう思った。
「んな、馬鹿な。オジさんが人助け……はしてたかもしれねぇけど、先生みたいな人と縁があるなんて――」
「……彼だ……あの人で間違いない…」
「あるわけ……え? あるの!? 」
ラナは発言にヴィクターは驚愕し――
「はぁ……灯台下暗しと言うか、骨折り損のくたびれ儲けと言うか……ボク達が捜索していた時間はなんだったんだろうね…」
リトワは、くたびれたかのように肩を落とし――
「き……きゃああああああ!! 見つかったああああ!! 」
ケイルエラは歓喜の声を上げた。
「なんという奇跡! い、急いで追いかけましょう! ハンカチは持っていますか? 」
「ちょ! ちょっと待って! ハンカチは今無いし、まだ心の準備が……」
ラナを引っ張るケイルエラだが、彼女の体はまったく動かなかった。
「くっ……ハンカチが無いんだったら、仕方がない……ラナ先生、いいですか? あの人は、ジグス・フォース。この近くのジグス探偵事務所で働いています。心の準備ができたら、会いにいくんですよ? 」
「う、うん……その時までに、なんて言うか考える…」
ケイルエラに詰め寄られ、ラナは頷いて答えた。
「うんうん……で、あとは、そこの二人! 絶対にジグス所長に、ラナ先生のことを言わないこと! 」
ラナが頷くのを見た後、ケイルエラはヴィクターとリトワに指を指した。
「おう……流石に言わねぇよ」
「うん、言わないよ」
「よし……これで、後はラナ先生を応援するだけ……頑張ってください! 」
「あ、あはは…‥」
張り切るケイルエラの様子に、ラナは苦笑いを浮かべる。
「けど、オジさんねぇ……オジさんに彼女ができたことなんて……あ! そうだ。先生に朗報があるぜ! 」
ヴィクターは何かを思い出したのか、ラナに微笑みを向ける。
「オジさんはなぁ……保険室の先生が好きなんだよ。だから、なんかうまくいくかもしれないぜ? 」
「……うん、知ってる」
ヴィクターの発言を聞くと、ラナはニッコリと微笑み――
「だって、私が保険室の先生になったのは、あの人が好きって言ってたからなの」
と答えた。
「え? 言ってたって、十六年前!? オジさんの保険室の先生好きって、そんなに歴史があんの? 」
「驚くところそこ? 十二歳の女の子に、自分の性癖を語る当時のあの人に疑問があるんだけど…」
「くっ…くぅ~…惚れた人の理想の女性を目指すなんて……」
ラナの返答を聞き、三人はそれぞれ違った反応をした。
三人が騒いでいるのをよそに、ラナは再び、ジグスが走り去っていった方向に顔を向ける。
その時、ラナが見つめる街道には、かつてのジグスの後ろ姿が映っていた。
その姿は次第に、今のジグスの後ろ姿へと変わっていき――
「やっぱり、あなたはまだ、走っているんですね…」
と、呟いた。




