二百九話 フリッツ・エグバート
フリッツ・エグバートという男性について、調べ始めてから数時間後。
ケイルエラは、ケージンギアにある街路を歩いていた。
街路には多くの人々が行き交っているが、そこにヴィクターやイアン達の姿はない。
ケイルエラ一人である。
個々で行動することになったのだ。
(特警だからといって、聞き込みを任されたけど……)
ケイルエラは聞き込みを中心に、フリッツ・エグバートについて調べていた。
特別警士隊になる条件の中に、人格が優れているというものがある。
この条件は、広く知られており、この国の住民が持つ特別警士隊に対する信頼は厚い。
従って、彼女が話を聞きたいと言えば、口を開いてくれる人が多かった。
(誰に聞いても、フリッツ・エグバートの名前も知らないなんて……)
しかし、聞き込みがやりやすいからといって、うまくいくとは限らない。
未だに、ケイルエラはフリッツ・エグバートについて、何もの情報も得られていなかった。
(ケージンギアには、馴染みのない……住んでいないんじゃないのかな……)
ケイルエラがそう思いつつ、歩いていると――
「おや? ブランデン君じゃないか」
男性に声を掛けられた。
その声は後ろから聞こえ、ケイルエラは振り返る。
すると、そこには、警士隊の服を着る中年の男性がいた。
「あなたは……ロディ巡回部隊長」
「おおっ! 私の名前を覚えてくださいましたか」
ケイルエラに名を呼ばれ、中年の男性は、目を細めて微笑みを浮かべた。
彼は、ロディ・オーソン。
警士隊の中で、町の巡回を主な任務とする部隊の長で、顎に蓄えた髭が特徴の人物である。
「いやぁ、副士隊長の娘さんに名前を覚えられるとは、光栄ですなぁ! 」
「そんな、大袈裟な……巡回部隊長ともなれば、知っていて当然ですよ」
警士隊には騎士の階級と同じような、役職というものがある。
複数の人をまとめる役目を持ち、役職の名称は、所属する部隊名の後ろに長を付ける。
中でも一番位が高いのは、士隊長と呼ばれる役職で、警士隊の全てをまとめ、責任を負う立場を持つ。
その次に位が高いのは、副士隊長と呼ばれる役職で、士隊長の次に強い権限を持ち、士隊長の補佐をするのが、主な仕事である。
ケイルエラは、その副警士隊長の娘であった。
「いやいや、副士隊長のお子さんで、警士隊になるより難しい特警になった貴方に名前を覚えられることは、大変名誉なことなのです」
「……それは、持ち上げすぎです。ところで、ロディ巡回部隊長は、何を? 」
「それは……」
ケイルエラが訊ねると、ロディは周りを見回した。
「えー…例の件で、私も巡回に参加することになりまして、その最中です」
その後、ケイルエラに顔を向けて、そう答えた。
例の件とは、首切り殺人事件のことで、周りの一般の人に聞かれないよう、言葉を濁したのだ。
「はぁ……そういうことですか。部隊長レベルを現場に出すなんて……士隊長も思い切ったわね…」
ケイルエラは顎に手を当てて、そう呟いた。
「ええ。使える人員は、誰彼構わず現場に出すことになりまして……」
「でも、現場に行っている間、元の仕事が手につかなくなるんじゃ……」
「……私達、部隊長がやるはずだった仕事は全て、副士隊長がやることに…」
「……はぁ、頑張りすぎよ、父さん」
ケイルエラは、額に手をついて、深いため息をついた。
「……ブランデン君は、何を? 確か、今日は特警の仕事は無いはず…」
「今日は、アルバイトの探偵の方をやっていて……そうだ、ロディ巡回部隊長」
ケイルエラは顔を上げ、ロディの顔に視線を向け――
「フリッツ・エグバートという人について、何か心当たりはありますか? 」
彼にそう訊ねた。
すると、ロディは顎に手を当てたり、顔を空に向けたりと、記憶の中を探るような仕草をする。
(ああー…これは知らない感じだなぁ…)
その仕草で、ケイルエラは彼がフリッツを知らないことを悟った。
「……だいぶ昔に行方不明になった人じゃないか…」
「えっ!? 」
しかし、彼は知っているようで、ケイルエラは思わず、驚愕の声を漏らした。
「知っている……のですか? 」
「ああ。私が学生の頃に行方不明になった人だ。あと、私と同じ学院の学生だった。知っているのは、これくらいですな……何で、ブランデン君は彼のことを? 」
今度は、ロディがケイルエラに訊ねた。
「ええと……信じられないかもしれませんが、その人……例の件の犯人かもしれないんです…」
「……!? なんですって? 」
ケイルエラの発言に、ロディは大きく目を見開いた。
「私達の方で調べたところ、その男が最近の……例の件の現場にいたようで…」
「……そうですか…」
「はい……あ、時間になっちゃった…」
ふと、ケイルエラは見上げると視界に時計塔が見え、時刻を確認できると、彼女はそう呟いた。
ヴィクター達と集合する時間を決めており、もうすぐで、その時間になるのだ。
「ロディ巡回部隊長、ありがとうございました。貴方のおかげで、手ぶらで帰らずに済みました。では、失礼します」
ケイルエラは踵を返して、集合場所である探偵事務所に向かって、走り出した。
「ブランデン君! 」
「……! 」
少し走ったところで、ケイルエラはロディに呼び止められた。
「えーと……実は、貴方に頼みたいことがありまして……」
「……? 頼みたいこと? 」
ケイルエラは顔だけをロディに向けていたが、体ごと彼に向けた。
「ええ。今日の私が率いる部隊の人数が少なくて……申し訳ないのですが、貴方に応援を頼みたいのです」
「うっ……応援…」
ケイルエラは呻くように、そう呟いた。
いつもなら、二つ返事で手伝いに行くケイルエラだが、今日はそうではない。
今日は、警士隊の仕事を入れないで、ヴィクター達の手伝いをすると決めていたからだ。
(ちょっと可哀想だけど……でも、見回りが少ないと町の人達の安全が……)
体を硬直させ、警士隊を手伝うかヴィクター達を手伝うかで、ケイルエラは葛藤していた。
「お願い! この前、記録を持ち出すのに、協力したでしょう? 」
(うああ……今、それ言っちゃうの? )
ケイルエラは、心の中で悲鳴を上げた。
以前、ヴィクターと事件現場を回るため、記録を持ち出そうとした時に、ロディの力を借りたのである。
従って、ケイルエラは彼に借りがあるため――
「……分かりました。ちょっと準備をしてくるので……どこに迎えばいいですか? 」
警士隊の手伝い――ロディの部隊の応援をすることにした。
――空が赤く染まり始めた頃。
探偵事務所がある建物の前にヴィクターとイアン、そしてリトワの姿があった。
「ちっ、ケイの奴、遅いすぎるぞ…」
建物ぼ壁にもたれかかるヴィクターが、眉をひそめて、そう呟いた。
彼等は、この場所に来るであろうケイルエラを待っていた。
別れた後、イアンとリトワは、ケイルエラと同じように、聞き込みをしていたが、二人は何も得られなかった。
ヴィクターは、ルーペでフリッツの足跡を追跡していた。
その結果、彼の家らしき場所に辿り着いたが、フリッツはそこに住んでいなかった。
確認すると、そこに住んでいるのは、別の人物であった。
このことから、ヴィクターは、フリッツがその別の人物に成りすましていると、推測していた。
「足を辿って、着いたのは家。だけど、そこに住んでいるのは、別の誰か……確かに、フリッツっていう人が、その人に成りすましているって言えなくもないね…」
「だが、まだ推測の域だ。そいつの付ける足跡がフリッツのものであれば、そうだと言い切れるが…‥」
「へっ、小難しいことを考える必要はないぜ。フリッツの野郎の後を追えば、分かるんだからよぉ」
「フリッツ? それはフリッツ・エグバードのことかい? 」
三人が会話をしている中、彼らに声を掛ける者がいた。
ヴィクター達が声のした方に顔を向けると、ジグスが街路の上に立っていた。
「げっ! オジさん……帰ってきたのか…」
「げっ…とは、あまり良い反応じゃないねぇ…」
ジグスはそう言うと、ふらふらと歩き、ヴィクターの目の前に立った。
「あ? オジさん、疲れている? 」
「ちょっとね……それで? 僕の質問に答えてくれなのかい? 」
「あ、ああ、そうだけど……オジさんは、何か知ってんの? 」
「知らないよ」
「知らないのかよ…」
ヴィクターは、肩を落とした。
ジグスが知らないと答えたため、期待していたヴィクターは、ガッカリしたのだ。
「……僕はね」
しかし、長い間を置いて、ジグスはそう呟いた。
「僕は? どういうことだジグス」
イアンがジグスに訊ねる。
「知り合いの警士隊……だった人か。もう定年で辞めちゃったからね。その人がよく口にしていたからさ」
「フリッツ・エグバートを? 」
「うん。フリッツ・エグバートは、このタブレッサのどこかにいる……ってね。その人、三十年前の首切り殺人事件をずっと調査していたんだ」
「「「……! 」」」
ジグスの発言に、三人は目を大きく開いて驚愕した。
彼の言い方からすれば、フリッツエグバートという人物は――
「オジさん……フリッツ・エグバートは、三十年前の事件の容疑者……いや、犯人の名前ってことか? 」
「容疑者だね。犯人とは、言い切れないよ」
ジグスの言う通り、三十年前の首切り殺人の容疑者だった。
ヴィクター達にとって、このことは大きな意味を持つ。
三十年前の首切り殺人事件と、今起きている首切り殺人事件。
この二つの事件の容疑者が、同じ名前であることに気づいたのだ。
「結局、フリッツ・エグバートは行方不明のまま……もし、生きているとしたら、彼は今何をしているだろうねぇ……」
ジグスはそう言った後、踵を返して歩きだした。
彼が向かう先には建物の階段で、どうやら事務所に帰ろうとしているようだった。
「ふぅ……」
その途中、ジグスはイアンの横に立つと短いため息をつき――
「じゃ…」
と、イアンの肩を叩いて、階段を上がっていった。
「おーい! みんなー! 」
その時、遠くから少女の声が聞こえてきた。
「……この声…ケイだ。やっと来たか、あいつ」
声を耳にしたヴィクターは、それがケイルエラのものであると判断した。
程なくして、彼等の元にケイルエラがやってくる。
「ゼェ……ゼェ……ごめん、遅れた……」
「見たらわかるっつーの……で? 何か分かったのか? 」
「はぁ……フリッツ…エグバートは……三十年前に行方不明になった人……」
荒げる息の中、ケイルエラは言葉を途切らせながら、そう答えた。
「おう。それは知ってるぜ」
「えぇー……!? 」
ケイルエラは膝に手を付いて、上体を大きく下げた。
必死に伝えようとしたことが周知の事実であったのだ。
「まぁ、そんな落ち込むなって、これから――」
「ごめん…ヴィクター。警士隊の仕事が入ちゃって……だから、今日はこれでバイバイ! 」
ケイルエラはそう言うと走りだし、来た道を引き返していった。
「あ…おい! ケイ! 」
ヴィクターは、ケイルエラの肩に目掛けて手を伸ばしたが、届くことはなかった。
「別件で仕事があるのなら、仕方がない」
「ケイ先輩大変だなぁ……」
遠ざかっていくケイルエラの背中を見て、イアンとリトワはそう呟いた。
「ちっ! まぁいいや、イアンの言う通りしょうがねぇ。三人で、フリッツの野郎を追いかけよう」
「三人で動くのはともかく、追いかけるとは? 」
「そのまんま。足跡を辿って行くんだよ」
イアンの問いかけに、ヴィクターはルーペを取り出しながら答えた。
「ここに帰ってくる前に、新しめの足跡を見つけてんだよ。そこから奴を追う……もしからしたら、今日で決着が付くかもしれねぇ…」
ヴィクターは、ルーペのレンズを覗きながら、そう呟いた後――
「頼んだぜ、イアン! 」
イアンに顔を向けて、そう言った。
それにイアンは頷くと、右手を後ろ腰にあるFAAに伸ばして、軽く撫でた。
――夜。
完全に空が黒く染まってから、数時間の時が立つ。
この日の空には、ほぼ満月に近い月が輝いており、タブレッサの町を明るく照らしていた。
「……ここまで異常なし……ふわぁ…何もなさ過ぎて、緊張感が……」
ケイルエラは、夜の路地に立ち、欠伸をしていた。
彼女がいる路地は、ショウボルタにある。
ロディが担当する地域は、この区画であった。
「ははは、まったくですな」
彼女の目の前で、ロディが口を開いた。
今、ケイルエラと同じ空間にいるのは、彼だけである。
二人しかいないのは、ペアを組み、ペア単位で別々の場所を巡回しているからだ。
ちなみに、ケイルエラが来なかったら一人足りず、ロディが一人で巡回することになっていた。
「あーダメだ。油断大敵! 」
パンッ!
ケイルエラは気合を入れ直すため、自分の両頬を手のひらで叩いた。
「流石、ブランデン君。他の隊員も見習って欲しいものです」
「……」
ケイルエラは、彼の言葉に反応しなかった。
(うーん……良い人…なんだろうけど、ちょっとご機嫌取りすぎじゃない)
彼女は、ロディの態度が少し気に入らなかった。
そのため、彼の胡麻摺り発言には、反応しないようにしているのだ。
だからといって、邪険にすることはなく――
「ロディ巡回部隊長は、学生時代どんな感じだったんですか? 」
別の話題を振る。
「うーん……特に自慢することはないですなぁ…」
(自慢話が聞きたいとは、言ってないし…)
ロディの何気ない発言に、ケイルエラはイラっとした。
「……話せるのは、初恋のことくらい…かなぁ…」
「え? 初恋? 聞かせてくださいよぅ、どんな人だったんですか? 」
初恋という言葉に、ケイルエラは食いついた。
油断大敵とはなんだったのか、彼女は任務を忘れてロディの話に興味津々であった。
「どんな人? そりゃ、綺麗な人でしたよ。長い髪が特に綺麗でして……ブランデン君を見ていると、思い出しますよ…」
「へー。出会いは……やっぱり、学院ですか? 」
「うん。学院に入った時……彼女と出会ったその時から、私の心は彼女に奪われたよ…」
(うおおお!! 一目惚れ! 盛り上がってきた! )
心の中のケイルエラはお祭り騒ぎであった。
「……ずっと、好きだった……そして、私の初めては彼女だった」
「へー……え? 」
ケイルエラの顔が引きつる。
(初めてって……何が? 手? キ、キスゥ? それとも……っていうか、展開早っ! )
「えーと……その間に、何があったか聞かせてもらえると……」
「ああー…思い出すなぁ……気持ち良かったなぁ…」
「うっ!? 」
ケイルエラは思わず足を止め、呻くような声を出した。
(何があったのかって聞いてんのに、このエロオヤジは……)
猥談が始まると思い、彼女はロディに幻滅したのだ。
「……本当……ブランデン君を見ていると思い出すんだよなぁ……」
「ロディ巡回部隊長、今は任務中です。無駄話はここまでにしましょう」
ケイルエラは話を中断し、ロディに任務に集中するよう促した。
(父さんに言って、クビにできないかなぁ……こいつ)
そして、この時初めてケイルエラは、父の持つ権限を利用したいと思っていた。
「……」
すると、ロディはピタリと足を止めた。
「……どうかしましたか? 」
ケイルエラが、そう訊ねる。
ロディは若干猫背で、頭が下がっている。
普段より姿勢が悪く、様子がおかしいとケイルエラは感じたのだ。
「…………ずっと、我慢してたんだけどねぇ……最近、我慢しなくても良くなったんだ」
ロディはそう呟き――
「この力のおかげでね」
と言いながら、ケイルエラに振り向いた。
今、彼がどんな表情をしているか分からない。
何故なら――
「……ロ、ロディ巡回部隊長……なんですか? それ……」
ロディには、狼の顔を模したような仮面が付けられていたからだ。
「うっ……うううう!! 」
そして、ロディの体に異変が起こり始める。
突然、苦しみ出すと、彼の着る服がモリモリと盛り上がっていく。
それと同時に、骨が砕くような音も鳴り出し、ロディの体は大きくなっていく。
バリバリバリ…ビリッ!
とうとう服が耐え切れなくなって、弾けとんだ時には、そこにロディの姿はなくなっていた。
代わりに現れたのは、ケイルエラより数倍背の高い化物。
「ううううウオオオオオン!! 」
化物は顔を上げ、天高く咆哮を上げた。
その化物は全身毛に覆われており、口には鋭い牙、四本の足には巨大な爪を生やしている。
狼のような外見だが、後ろの二本足で立っていた。
「ロ、ロディ巡回部隊長……あなたは…」
ケイルエラは、腰から警士棒を取り出し、それを構えながらゆっくりと後退し始める。
「ロディジュンカイブタイチョウ? チガウナ…‥ソンナダサイナマエデハナイ」
狼のような化物は、ケイルエラに顔を向けると、そう言った。
化物の声は、人間のものではなかった。
「オレハ、カイジン ライカンスロープ……イヤ、フリッツ・エグバート…ダ。ハハハハ! 」
狼の化物――フリッツは、そう言うと、軽く笑い声を上げる。
そして――
「ブランデンクンハ、アノヒトニニテイルカラ、トクベツダ。イツモハ、コノツメヲツカウケド、カミコロシテアゲル……アノヒトトオナジヨウニ」
フリッツは、歯を剥き出して、ケイルエラに自分の牙を見せつけた。
三十年前に起きた首切り殺人事件。
その初めての犠牲者も首を切られていたが、他の犠牲者と違う部分があった。
他の犠牲者の首元の傷は、刃物で切られたのだと推測できるほど、綺麗に切れていた。
しかし、最初の犠牲者は、首の皮を千切ったように無造作な傷であったという。
「アァ……ブランデンクンモ、キモチノイイヒメイヲアゲルンダロウナァ…キタイシテイルヨォ…」




