百九十話 イアン 学校に行く
――朝。
イアンは探偵事務所に足を運んでいた。
今日は、イオが花売りをしにいく日ではないので、いつもより早くここへ来ている。
「ジグス、入るぞ」
イアンはドアの前に立ち、中にいるであろうジグスに声をかけたが、返事は無かった。
ドアを開け、イアンは部屋の中に入る。
すると、ジグスが返事をしなかった理由が見てわかった。
ジグスは、机に突っ伏して寝ていたのだ。
「ジグス、起きてくれ。もう朝だぞ」
イアンはジグスの傍に立ち、彼の体を揺する。
「う~~ん……」
体を揺すられるジグスは、唸るばかりで、一向に起きようとしなかった。
「……しぶといな」
起きる気配が無くても、イアンは手を止めない。
「……う~~ん……ん…ぐぐっ…んぐぐっ! 」
「お? 」
しばらく体を揺すっていると、ジグスの寝息に変化が生じた。
そして――
「痛った!! やめて、姉ちゃん!! それは死ぬぅ!! 」
ジグスは、悲鳴のような寝言を言い放った。
夢の中でひどい目に遭っているのだろうが、それが現実に起こっているように鬼気迫る声音であったため――
「うおっ!? 」
イアンは思わず驚愕し、ジグスから飛び退いてしまう。
「……んあ? もう朝か……って、イアンくん、もう来てたんだ? それと……何かあった? 」
自分の寝言が原因なのか、ジグスが眠りから覚め、飛び退いた時のままの体勢のイアンを見る。
「……い、いや、何でもない」
イアンは、ジグスの寝言には触れることなく、姿勢を元に戻した。
「今日は、イオ……花売りの手伝いが無くてな。それで、早く来たのだ」
「あ、そうなの? 真面目だねぇ。朝早く来るなんて、学校が無い日のケイちゃんみたいだよ」
「ケイちゃん? 」
聞きなれない言葉に、イアンは首を傾げる。
しかし、それが人の名前であることは、彼にも推測できる。
「あー、まだ紹介してなかったねぇ。ケイちゃんも、君やヴィクターくんと同じバイトの子だよ。最近は、学校の方が忙しいらしく来てないけど、もうすぐ会えると思うよ」
「ほう、そうなのか」
「うん……それで、今日朝早くから来てくれたイアンくんには、悪いんだけど……」
「……なんだ? 」
突如、ジグスの顔が神妙な顔つきに変化する。
その普段とは違う彼の表情に、イアンは何事かと心の中で身構える。
「……実は…」
しばらく、イアンの目を見続けた後、ジグスはおもむろに口を開き――
「今日は、仕事一件も無いんだよねー! だから、一日やることありませーん! 」
と、おちゃらけたように言った。
その後、おちゃらけていた元気な様子から一変し――
「……ごめんね、ほ、本当にやることが無いんだ……」
と、急激に元気がなくなった。
彼の表情は暗く、声も若干掠れている。
一日仕事が無い。
イアンにとっては、一日の収入が無いだけで、特に問題はない。
しかし、彼にとっては――
「うわぁぁ……よりにもよって、金が無い時に仕事が無いなんてぇ……今日……と明日のご飯どうすればいいんだよぉぉぉ……」
その日、飯が食えるか食えないかの死活問題であった。
ジグスは、頭を抱えて蹲ってしまう。
「……」
イアンは、今のジグスにかける言葉は見当たらなかった。
「あああ~~……あ! 今日の僕は、これから今日のご飯をどうするかを考えなければいけないけど、イアンくんは何もやることがない……か……」
ジグスは、顎を手に当て、何事か考え始めた。
「…………うん、いいかもね。イアンくん」
しばらくすると、何かを思いついたのか、ジグスはイアンに声を掛けた。
「何か思いついたのか? 」
「うん。イアンくん、ヴィクターくんが通っている学校に行きなよ」
ジグスが考え出したのは、イアンがヴィクターの学校へ行くことであった。
「学校? 学校とは、そこの学生が行くものだろう? 部外者のオレは入れないのでは? 」
「普通はそうだけど、たぶん大丈夫」
「……そうか。それで、学校に行けばいいのは分かったが、そこで何をすればいいんだ? 」
「うーん……まぁ、学校に行くか行かないかは、イアンくんの自由なんだけどねぇ……ヴィクターくんは、そこで探偵部っていうクラブ活動をしていてね。その手伝いをすればいいんじゃない? 」
「ほう……よく分からないが、とりあえず、その学校にいってみるとするか」
こうして、イアンは、ヴィクターが通う学校へ向かうことにした。
ケージンギアの北西部、そこにはフィルドエアという区画がある。
その区画もケージンギアのように、住宅街が多い。
しかし、住宅街の数はケージンギアには及ばない。
その代わり、ケージンギアには無い場所がある。
その場所とは学校のことであり、フィルドエアには、いくつかの学校が建っている。
住宅街よりも学校の面積の方が広く、区画の大部分が学校であるため、フィルドエアは学院区とも呼ばれる。
その学校の一つに、ブラッドウッド学院がある。
開校されたのが、五十年以上も前で、リサジアニア共和国の中では、古い部類の学校と言える。
この学校に入学するには幾つかの条件があり、その年で十六歳になることと、試験に合格することである。
試験は筆記で、この国の国民として、知っていて当然の知識があれば合格することができる。
すなわち、ブラッドウッド学院は、ブリサジニア共和国の学校の中でも、中の中くらいのレベルであると言えよう。
その学校の校舎の一階に、保健室と呼ばれる部屋があった。
具合の悪い学生を休ませたり怪我を負った学生の応急手当を行う場である。
校舎の中では、あまり入らない部屋の一つに数えられるが、頻繁に保健室を利用する学生が一人存在した。
「先生っ! ごめん、今日も休ませて! く、苦しい! 」
ヴィクターである。
彼は腹を押さえながら、保健室の中に入ってきた。
「あら? ヴィクターくん、今日もサボり? 」
保健室を管理する先生が、ヴィクターに声を掛ける。
その先生は女性であり、美人と言えるほどの容姿と心優しい性格のため、学生達に人気の先生だ。
「きょ、今日は違う! いてて……飯を食いすぎて、腹が痛いんだ。ベッド空いてる? 」
「空いてるけど、授業の先生には言ってきた? 」
「言った、言った。じゃ、少し寝かせてもらうぜ」
ヴィクターはそう言うと、一台のベッドに仰向けになって寝転がった。
「もう! いつもそう言ってるけど、学校が終わる前に起きたことないよね? 」
保健室の先生は、頬を膨らました。
いつも授業が終わった後に起きるヴィクターに、思うことがあるようだ。
「いつものサボりじゃあないから安心しなよ…………ぐー…」
ヴィクターは、目を瞑って数分待たずに寝息を立てた。
「はぁ……そのセリフも、いつも聞いてるんだけどなぁ…」
保健室の先生は、がっくりと肩を落とし、窓の外を見る。
保健室からは、学校の校庭が見え、晴れているせいか眩しく見えた。
「こう……ポカポカ陽気で、ついぐっすり寝ちゃうのは分かるけど、ヴィクターくんは寝すぎよ。自分で起きる時は、決まって大きい寝言を言うし……」
保健室の先生は、校庭を眺めながら、ヴィクターの愚痴を零していた。
「今日は早めにケイちゃんを呼ぼうかな……あれ? 」
校庭を眺めていた保健室の先生は、視界の奥に見える校門に人が立っていると気がついた。
目を凝らして見ると、紺色の服と白いエプロンのようなものを身につけているのが分かった。
「……? あれって……ナース服…だよね? 」
「ナース!! 」
保健室の先生の声が聞こえたのか、寝ていたヴィクターが声を上げながら目を覚ました。
「うわぁ!! びっくりしたぁ……あ、ナースって言えば、この子は起きるのかも! 」
ヴィクターの目を覚ます方法を思いつき、顔をほころばせる保健室の先生。
「先生! ナースどこ!? 」
ベッドから飛び降り、保健室の先生に詰め寄るヴィクター。
「うーん…それにしても、この反応……ナースじゃないけど、先生もナースに近い保健室の先生なんだけど……」
ヴィクターの様子を見て、保健室の先生はそう呟いた。
保健室の先生というのに魅力がないか、問いかけたいのだ。
「ええぇ!? ナースと保健室の先生は、全くの別モンだよ。それぞれに……それぞれの違う良さがあんのよ」
「そ、そうなの? ど、どっちが……その……男…の子に人気なのかな? 」
「うーん……難しい。どっちも人気だけど、俺は断然ナースだね! あっ! 保健室の先生は、俺のオジさんが好きだよ! 」
「あはは……微妙なフォローありがとう……」
保健室の先生の口から、乾いた笑いが漏れ出した。
「ていうか、先生は何でこんな所で、保健室の先生やってんの? クロスマーク持ってんのに、勿体無いぜ」
ヴィクターが、保健室の先生の顔を覗き込みながら、そう訊ねた。
「クロスマークは偶然の成り行きで、元々ナースになりたかったわけじゃないんだよなぁ……」
保健室の先生が、青ざめた表情を浮かべる。
「……? どうしたの? 先生」
「ちょっと、昔を思い出してね。それで、元々私は――」
「あっ! そうだよ! ナースはどこだよ、先生!! 」
突如、ヴィクターが声を上げ、保健室の先生の言葉うぃ遮ってしまう。
「あ……そうだったね。ほら、校門の前に立っているでしょ? 」
「おおっ! あの佇まい……遠目から見ても分かるぜ! かなりの美少女で、恐らくは、希少価値の高いクールビューティ……って、イアンじゃねぇか! 」
ヴィクターは、開いた窓から身を乗り出すと、そう叫んだ。
校門の前に立っていたのはイアンであった。
「……? ヴィクターくんの知り合い? 」
「ああ。あいつは、俺のツレなんだ。ちょっと、行ってくる! 」
ヴィクターは、そう言うと保健室の窓から校庭に飛び出し、校門のイアン目掛けて走り去ってしまった。
「……お腹……痛いんじゃなかったの……? 」
残された保健室の先生は、走り去るヴィクターの背中に向かってそう言った。
「ここがヴィクターの通う学校か……カジアルにある魔法学校よりは小さいな」
イアンは、校門の前に立ち、校舎を眺めていた。
「ジグスは、ああ言ったが入っていのだろうか? 何か、入ったらまずい雰囲気を感じるぞ……」
先程から、イアンは入るに入れない状況が続いていた。
「むぅ……どうしようか……」
イアンが頭を悩ませている時――
「おーい! イアン! 」
校庭からヴィクターが走ってきた。
「ん? ヴィクターか。どうした? そんなに走って」
「はぁ…はぁ…それ、こっちのセリフ……」
ヴィクターは疲れたのか、膝に手をついて息を荒げている。
「というか、久しぶりだな。今まで、何を……って、クロスマークじゃねぇか! 」
ヴィクターは、イアンの左腕に付けられた腕章を見て驚愕した。
「……これのせいだ…」
イアンがそう言いながら、腕章に指を差した。
「は? これ? …………あ…ああ、そういうことね。すげぇな、おまえ……」
その仕草で、ヴィクターは理解した。
「詳しくは、また今度聞くとして……何しに来たんだ? 」
「うむ。実は、今日は探偵事務所の仕事が無くてな」
「うわっ、そうなの? オジさん、死んだな……」
ヴィクターはそれだけで、今のジグスの状況を把握した。
「ああ、死にそうな顔をしていた。それで、やる事がなくて、暇だからここに来た」
「は? なんだと! 学校はな、勉強するところなんだよ! みんな、必死に勉強してんだ。暇だから来るような場所じゃあねぇんだよ! 」
イアンの発言に、ヴィクターは声を荒げる。
「……」
しかし、イアンは動じない。
むしろ、疑いの眼差しでヴィクターを見つめていた。
「な、なんだよ……」
「いや、おまえが言えるようなことではないと、なんとなく思っただけだ」
「…………分かってるじゃねぇか…」
先ほど、ヴィクターが声を荒らげていった言葉は、彼の冗談であった。
「学校の勉強なんざ、何に使うか分かんねぇし、暗記するもんばっかでつまんねぇ。はっきり言って嫌いだね」
「ふむ……魔法学校は魔法使いを目指す場所、ナースの学校はナースを目指す場所……」
「……? な、なんだ? 何が言いてぇのよ? 」
イアンの呟きに、ヴィクターは疑問を口にする。
「いや……学校は何かを目指して、その勉強をする場所だろう。ここは、何を目指す学校なのだ? 」
「そりゃあ、おまえ…………何だろう? 分かんねぇな……」
ヴィクターは、イアンの問いかけに答えられなかった。
「まあいいや! イアンよぅ、学校を案内するぜ! 」
「む、いいのか? 」
「ああ、いいぜ。せっかくここまで来たんだから、中に入らないと損だぜ? 」
「……そうだな。頼む」
イアンは、そう言うと校門をくぐり、校庭に足を踏み入れた。
思えばこれが、初めてイアンが学校の敷地に入った瞬間であった。
2016年7月20日 誤字修正
保険室 → 保健室
2016年7月26日 タイトル修正
百九十話 イアンに学校へ行く → 百九十話 イアン 学校に行く
コメント: ヒドすぎる……気付かなかった……orz