百八十三話 イオの花園
イアンが、長い眠りから目を覚まして数日後。
ラストンの言われたとおりに運動し続け、イアンは元の動ける体に戻った。
傷も完全に癒えており、完全に復活したと言える。
しかし、元の状態に戻らないもの、失ったものも存在する。
「ラストン、もうオレの体は元通りになった。オレの着ていた服に着替えたいのだが…」
ラストンの診療所の側にある開けた野原。
そこにイアンとラストンはいた。
「君の着ていた服か……もうボロボロで、着れない状態だったから、捨ててしまったよ。代わりの服を用意するから、それを着なさい」
診療所の壁に沿うように作られたベンチ。
そこに座るラストンがイアンにそう言った。
「……そうか。なら、仕方ないか……」
イアンは少し俯く。
その時の彼の眉は、僅かに下がっていた。
「では、オレの持っていた戦斧……オレの腰に、いくつかの斧があったはずだ」
イアンは顔を上げた。
「斧? 腰に? ……すまないが、君を見つけた時にはなかったぞ」
顎に手を当て、視線を上に彷徨わせた後、ラストンはそう答えた。
「……」
イアンは俯いた。
先程より、彼の眉は下がっている。
「もしかしたら……いや、確実に、海を漂っている間に、君の腰から外れてしまったんだね」
「斧が無ければ、戦えない。どこかに売っていないだろうか? 」
「ふぅ……前に言ったろう? この国には、魔物はいないんだ。武器を持つ必要はないよ」
ラストンが困った顔をする。
「あ……そうか。そう……だったな。いつも腰に付けていたから、どうも落ち着かなくて……」
「他大陸から来た君には、受け入れ難い文化かもしれないね。でも、この国にいる間は、慣れてもらわなきゃ。言ったろう? 罰法について」
イアンは、ここ数日の間、この国について、ラストンからある程度のことを教えられていた。
その中に、この国の法律の一つである罰法というものがあった。
罰法は、窃盗や殺人といった非人道的行為を抑止させるために作られたこの国の法律である。
これを破った者は、その犯した罪に定められた処罰――罰が下される。
「武器を持つことは、罰法の凶器所持の罪にひっかかる。持っていたら、警士隊に掴まちゃうんだ。余程大切な物じゃあなければ、無くして良かったのかもよ? 」
「……捕まるのなら……そうかもな……」
ラストンに言われ、イアンは渋々納得した。
「まぁ、例外もあるけどね。あと、こんな田舎じゃあ、持っていても警士隊に見つかることは無いけどね。ははは! 」
ラストンは目を細め、笑い声を上げた。
「……やっぱり、無くさない方が良かった……」
イアンは俯き、がっくりと肩を落とした。
――昼。
運動を中断し、ラストンとイアンは診療所の中に入る。
ラストンの家は、診療所の建家の一部分にあり、二人はそこで昼食を取った。
ラストンの好物であるのか、彼の出す料理は肉料理ばかりで、今日もイアンが口にするのは肉である。
昼食が終わり、テーブルに並べられた食器を片付けると、ラストンは別の部屋に向かった。
「イアン君、君の服を捨てたと言ったが、捨てる前に中身を出しておいたんだ」
その部屋からラストンが戻ってくると、彼の両手に木箱が抱えられていた。
イアンがその箱の中を覗くと、そこに入っていたのは自分の所持品であった。
箱の中に手を伸ばし、イアンは所持品の一つ一つを確認し始める。
「オレの財布に……白いアクセサリー……あっ…ショーギ必勝法の本が……ボロボロに……」
もう読むことが出来ないほど、海の潮水で本が傷んでいた。
ちなみに、イアンが読んだのは半分ほどで、読破できなかったことに彼は気を落とした。
「……この黒いのは……ああ、ネリィが顔に巻いていた布か。あと、メロクディースに貰った鈴と……なんだこれ? 」
箱の中に見慣れない物があり、イアンは首を傾げる。
「それ……誰かの髪の毛だろ? 何で、イアン君はこんなものを持っていたの? 」
ラストンが青い顔をしながら、イアンに訊ねる。
箱の中に、長い黒髪の束があり、その存在にラストンは体を震わせる。
「なんか……無理やり切ったように見えるけど……」
「誤解だ、ラストン。オレが切った髪じゃあない。そうか……あいつの髪が片方無かったのは、こういうことか……」
イアンは髪の束を手に取り、それを見つめる。
この髪の束が誰のものであったか、イアンは理解したのだ。
「何か、分かったのかい? 」
ラストンがイアンに訊ねる。
「ああ。だが、何故髪を切り、オレの服の中に入っていたのかは分からない。とりあえず、持っておくとしよう」
「あ……捨てないんだ……」
イアンの言葉にラストンが間の抜けた声を出した。
「服を持っていない今、これらを持ち歩くことはできない。悪いが、しばらく…預かって……ん? 」
イアンの言葉は途切れ、彼は首を傾げた。
「……? どうしたんだい? 服は用意してあるぞ」
「いや、そうではない。何か……忘れていることがある……ような気がするのだ…」
「忘れていること? 何か、この中に無いものがあるのかい? 」
ラストンは箱の中を見回し、イアンが見逃しているものがないか探し出す。
「……まぁ、そのうち思い出すだろう」
イアンは、頭の中にかかった靄を振り払った。
「そうかい。ところで、服はもう用意できているんだ。今、着替えるのだったら、この箱はここに置いておくが……」
「おお、そうなのか。助かる、早速着替えたい。箱はそこに置いて……服はどこにある? 」
「よっこいしょ。服は、君が寝いていた部屋にあるよ」
テーブルに箱を置き、ラストンがそう答える。
「そうか……あと、申し訳ないが、何か縛る物は……いや、鋏は無いか? 」
「ああ、髪が長いから縛るんだね。ちゃんと用意してあるよ」
ラストンがにっこりと微笑みを浮かべる。
「いや、鋏を…」
しかし、イアンが欲しているのは鋏である。
彼は、長くなった髪を切りたいのだ。
「鋏? そんなものは、うちには無いよ」
ラストンが真顔で答える。
「…………そうか。分かった、ありがとう……」
イアンは髪を切ることを諦め、服を着替えに行くことにした。
部屋に入ったイアンは、ベッドの前に立った。
目の前、ベッドの上には綺麗に畳まれた服と紐が置いてある。
イアンは、その紐で髪を縛り、畳まれていた服を広げ、それに着替えた。
服は体に合った大きさで、イアンは違和感なく着ることができた。
着替え終わると、イアンは部屋に出る。
そして、微笑みを浮かべるラストンに向かって――
「オレは男だと言ったはずだが……」
と、僅かに眉を吊り上げながら、そう言った。
「……夢だったんだ…」
ラストンが微笑みを浮かべたまま呟いた。
「自分がデザインした服を美人の女の子に着てもらうことが…ね……うっ…ううっ…」
ラストンは言葉を口にした後、顔を腕で覆い泣き始めた。
イアンが着た服は、紺色の長い袖があるワンピースに白いエプロン。
この国のナースという職に就く女性が着る服であった。
ちなみに、イアンの長い髪を後ろで縛っているのは、黄色のリボンである。
「オレに着せなくても、女を雇えばいいだろう」
ナース服を着るイアンが、嗚咽するラストンに言う。
「ううっ……募集しても来ないんだよぉ……ババアしか来ないんだよぉ……うおおおおん! 」
「……若い女に着て欲しくて、結局、男であるオレに着せるのか……」
泣き叫ぶラストンの姿は哀れに見えた。
イアンは一歩後ろに下がる。
「はぁ……ラストンには、色々と世話になっているし、しばらくはこれでいいだろう……仕方ない……」
「本当かい! わーい!! これまでの治療費チャラにしてあげる! 」
ラストンは顔を上げると、両腕を上げて喜びを表現する。
「いや、流石に治療費は払わなければ……いくらだろうか」
イアンはテーブルの前に立ち、箱の中の財布を手に取る。
「本当いいよ、払わなくて。あと、言ってなかったね。この国で使われている通貨はディルというものしか使われていない」
「なに、そうなのか? 」
財布を開けるイアンの手が止まる。
「この…Qという通貨は使われていないと…」
イアンは財布の中から、硬貨を取り出し、ラストンに見せる。
「使えないね。ディルと交換できる……けど、漂流して来たイアン君だと厳しいね。君の財布は、この国にいる間はわしが預かっておこうか」
「そうか……分かった、お願いする」
イアンは、硬貨を財布の中にしまい、財布を箱の中に入れる。
「……待てよ? この国から出るとき……船の料金もディルなのか? 」
「そうだね。流石に、船の料金は負担できないなぁ……どこかで働かないといけないね」
「むぅ……すぐにこの国からは出られないか……さて、何をするべきか……」
イアンは腕を組み、考え始める。
「わしの助手はどうかな? 」
ニコニコと微笑みながら、ラストンが自分の顔に指を差す。
「勘弁してくれ。この国にいる間、ずっとこの服のままではないか……」
イアンは腕を組みながら、後ろに一歩下がる。
この時、ラストンに顔を向けることはなかった。
「そんなぁ~……あ、そうだ! 」
ラストンは何かを思いついたのか、手を叩いた。
「イオちゃんの手伝いとかはどうかな? 」
「イオちゃん? 誰だ、そいつは? 」
イアンは首を傾げた。
「ありゃ…言ってなかったか。海にいた君を見つけて、わしに知らせに来てくれた女の子だよ」
「ほう、オレの命の恩人ではないか。礼を言わなくては…」
「そうだね。イオちゃんは君のことを心配していたからね。せっかくだから、今日、会いに行くといいよ。今日は……この村の花園にいると思うよ」
「ああ、そうさせてもらう。あと、本当に治療費はいいのか? 」
外に出るドアに手をかけたイアンは、顔を振り向かせてラストンに訊ねる。
「え、いいよ。というか、イアン君は国民じゃないから、保険がきかなくてすごく高いよ」
ラストンが手を振りながら答える。
「そう……か。ちなみにどれくらいだろうか? 」
「うーん……この国の中流階級の人が、一年働いて稼いだお金が約三年分? 」
ラストンが首を傾げながら言った。
「……本当、申し訳ない……」
イアンは頭を下げると同時にそう呟くと、診療所から出ていった。
(着せたのわしだけど、あの格好で外に出られるんだ。すげぇな、イアン君は)
外へ出ていったイアンの後ろ姿を見て、ラストンは心の中でそう呟いた。
イアンが道沿いに歩いて数分後。
彼の視界に、一面花だらけの光景が映った。
広い野原に花が色や種類ごとに分けて咲いているのだ。
ここが、ラストンの言っていた花園である。
「思っていたよりも広いな…」
イアンは、花園の入口であろうアーチ状の門の前に立ち、花園を見回す。
花が咲いているところだけで、ファラワ村の半分の広さはあると、イアンは思った。
「ここにいると言っていたが、探すのに骨が折れそうだ。とりあえず、中に入ってみよう」
イアンはアーチ状の門をくぐる。
両脇の花々を眺めながら、進むイアン。
イオらしき人物どころか人の姿すら、視界に映ることはなかった。
「うぅむ、いないではないか。花園にはいないのではないか…」
花園を歩き回ったイアンは、そう呟くと、花園の奥に目を向ける。
そこには、緑が生い茂る丘があり、その頂上には、桃色の花を身につけた一本の木が生えていた。
「ん…うぅむ……ん!? 」
風が吹き荒れ、思わず目を閉じたイアン。
彼が目を開けると、丘の上に生えている木は緑色の葉を身につけていた。
「……? 見間違い……だったのか? 桃色の花をつけていると思ったが……」
イアンは首を傾げる。
見間違いであったことを疑うほど、桃色の花の木は美しく見えていた。
「あの木は、サクラという名前の木です。今は咲いていませんが、春になるとサクラ色……ピンクの花を咲かせます……」
イアンがぼうっと、丘の上の木を見上げていると、背後から少女の声が聞こえてきた。
少女の声を聞き、イアンは後ろに振り返る。
すると、そこには、一人の少女が立っていた。
少女は、白い服と紺色の長ズボンを着ており、その上に胸元から腰の辺りを覆うエプロンを身につけていた。
イアンを見る彼女の瞳は濃い赤色で、僅かに揺れ動いている。
そして、少女の髪の色は、イアンの脳裏に刻まれたサクラの花と同じ桃色であった。
「……あの…ラストンさんの診療所の人……ですよね? ……たぶん」
イアンがジッと少女の姿を見ていると、その少女がイアンに声を掛けた。
「……あ…ああ、いや、違う。他に着る服が無かったのだ。それで、おまえがイオで間違いないか? 」
「……! 」
我に返ったイアンがそう訊ねると、少女は後ろへ下がるが――
「……あれ? あなたはもしかして、あの時の……」
イアンの顔を見て、少女は気づいた。
「オレの名はイアン。オレを助けてくれたそうだな。ありがとう、助かった」
イアンは少女に向かって、頭を下げた。
「そ、そんな……え、えと…その…小屋の中に入りましょう……か…? 」
少女――イオは、バタバタと手を動かした後、ある方向に手を向けた。
イアンがその方向に目を向けると、そこには花園の外に小さな小屋が建っているのが見えた。
「ああ、色々と話したいことがある。ちょうどいい」
イアンは、自分を見上げてくるイオに顔を向けて頷く。
「お話? ……とりあえず、行きましょう…えと、イアン……さん…」
イオはそう言うと、小屋に向かって歩き出す。
「……とりあえず…か、そうだな。まず……一応、言っておくことがある」
イアンは、イオの背中に向かって、そう声を掛けた。
「……? 」
イアンの声を聞き、イオは振り返る。
「オレは……今はこんな服を着ているが、男だ」
「…………え……」
しばらく、イオが動くことはなかった。
2017年9月14日 誤字修正
「ここいいると言っていたが、探すのに骨が折れそうだ。とりあえず、中に入ってみよう」 → 「ここにいると言っていたが、探すのに骨が折れそうだ。とりあえず、中に入ってみよう」




