百八十ニ話 漂流 辿り着いたのは遠い島国
とある島国の砂浜。
そこは、滅多に人が訪れることない場所である。
この砂浜にはあるのは、太陽に照らされて白く光る砂と、寄せる波に運ばれてくる貝殻だけ。
それに加え、砂浜の規模が小さいため、遊びに来る人もおらず、人気が無いのであった。
しかし、今日、この砂浜に訪れる者がいた。
その者は、片手に銀色のバケツを持ち、砂浜を歩いていく。
そして、寄せる波の近くに座ると、側にバケツを置き、砂浜の貝殻を拾い始める。
その者――少女は、この砂浜にある貝殻を集めに来たのだ。
彼女の拾う貝殻は、皆綺麗なものばかりであるが、彼女の髪と同じ色である桃色の貝殻が多く拾われている。
少女はその色が好きなのだ。
貝殻を拾い続けていたが、ふと彼女の手が止まる。
手を止めた少女は顔を上げ、前方の海に目を向けていた。
しばらく、彼女は海を見つめていた。
しかし、何を思ったのか、彼女は腰を上げると、海の中に入っていった。
肩が海の浸かるほど、前に進んだ彼女の右手には、何かが掴まれている。
少女はそれを引っ張りながら、砂浜へ引き返す。
砂浜に戻った彼女は、掴んだものを海から引っ張り上げる。
少女が海から引っ張り上げたのは人。
彼女は、人が海の中にいるのを目にし、慌てて海の中に入ったのだった。
その後、少女は砂浜を抜け、どこかに走り去ってしまった。
砂浜に横たわる、水色の髪の少年を残して。
イアンが目を開けると、白色が視界に広がっていた。
当初、それが死後の世界の光景であると思ったイアン。
しかし、自分が仰向けになっていることと、体の上に布のようなものが被せられている感覚で、自分が生きていることが分かった。
視界に広がっていた白色が、ただの白い天井であることも理解する。
とりあえず、イアンは体を起こすことにした。
「……はっ! 」
上体を起こし、自分がベッドの上で寝ていたことに気づいたのと同時に、彼は驚愕した。
「髪が……伸びている…」
イアンの髪は伸びていた。
髪が伸びるのは、それ自体は驚くことではない。
彼が驚いたのは、髪が自分の腰の当たりまで伸びていたことだ。
「おや、もう起きたのか……」
イアンが、長く伸びた髪に驚いていると、部屋の中に一人の男性が入ってくる。
その男性の髪の毛は、茶色であるが、所々に白髪が混じっている。
顔には、僅かに皺があり、その男性は五十代くらいの中老であると判断できる。
中老の男性は、イアンの側に椅子を置き、そこに座る。
「まず、ここがどこか気になるかね? ここは、リサジニア共和国の最南端の村、ファラワだよ」
ぼうっとするイアンに、中老の男性はそう言った。
「……リサジニア共和国? ファラワ村? 」
聞きなれない言葉に、イアンは首を傾げた。
「ふむ、知らないか。記憶が無い……あるいは……」
中老の男性は顎に手を当て、ぶつぶつと何かを呟いた。
「君が海を漂っていたと聞いたんだけど、どこにいたか覚えていないか? 」
顎から手を離すと、中老の男性はイアンにそう訊ねた。
「……ウルドバラン大陸の……あっ! 」
イアンは何かを思い出し、自分の胸に手を当てる。
「胸が……確か、魔法で胸に穴を開けられたはずだが……」
イアンの胸は包帯で巻かれていた。
フェイゼリアの闇魔法により、イアンの胸は貫かれていたが、穴が空いているような感触はなかった。
「ああ、胸のことかね。驚いたよ君の言うとおり、穴が空いていたんだ。普通、こんな重症を負ったら、まず助からないんだけど……」
中老男性は、苦笑いをしながら頭をかく。
「穴を……傷を治したのは……」
「わしだ……ああ、名乗っておこうか。わしはラストン。このファラワ村で診療所をやっている」
中老の男性はラストンと名乗った。
「イアンだ。先程言いかけたが、ウルドバラン大陸のゾンケット王国にいた」
イアンも自分の名前を口にする。
「イアン……君か……」
「……? なんだ? 」
ラストンは苦笑いを浮かべたままであった。
彼の様子を不思議に思い、イアンが首を傾げる。
「いや、君の体を見るまで、わしはイアン君を女の子だと思って……いやぁ、今でも信じられないよ……」
「よく言われるが、オレが男と分かったのなら、あまり言わないでほしい」
「う、うん。わ、分かったよ……」
ラストンの返答は、歯切れの悪いものであった。
「……? どうした? まだ、何かあるようだが……」
そのため、イアンがラストンにどういうことか訊ねる。
「申し訳ないが、今、君が着ている服は女の子用なんだ……」
ラストンが申し訳なさそうに言った。
それを聞き、イアンは自分の着ている服を見る。
色は白色で、特に言う事はないが――
「……確かに……これは女用だな……」
全体的に細く、男が着るにはキツい大きさであった。
しかし、イアンは問題なく着こなしている。
彼が気づいたのは、服の大きさもあるが一番気になるのは、胸の辺りの余裕である。
明らかに、男性には必要のない余裕であった。
「ごめん! 今、患者用の服はほとんど洗濯に出してしまって、イアン君に合う服はそれしかないんだ」
ラストンが顔の前で手を合わせる。
「そうか……」
イアンはこれ以降、服のことに関して何も言わないことにした。
「それで……君は、ウルドバラン大陸のゾンケット王国から来たと言ったね? 」
ラストンが話題を変え、イアンに訊ねる。
「そうだ」
「……そうか。戦争から逃れるために、国を抜け出して来たのかな? 」
「いや……何というか、内乱を止めるのに失敗したというか……何と言えば良いか……」
イアンは、自分が海に落ちた経緯をどう伝えるか悩んでいた。
「内乱を止める? 戦争じゃあないのかい? 」
ラストンが怪訝な表情をした。
まったく心当たりが無い様子であった。
「戦争? いや、今、あの国では内乱が起こっている……はずだ」
ラストンの様子に、イアンは若干戸惑う。
「内乱……それはないはずだ。そんな状態で他国に戦争を仕掛けるとは思えない……」
「他国に戦争だと!? 」
イアンは驚愕し、目を見開いた。
「えっ!? これはどういうことだろうか……たった最近、ゾンケット王国は近隣の国……えーと、ゾンケット王国の北西にあるバルヒルター王国に、宣戦布告したばかり……と、この国には伝わってるけど……」
「……」
イアンは何も言い返すことが出来なかった。
彼が海に落ちたあの日、ゾンケット王国はまだ内乱状態であった。
それが今、他国へ戦争を仕掛けようとしているのである。
イアンには、わけが分からない状況であった。
「……待てよ。イアン君、君が気を失った時……いや、失う前か。その日はいつだ? 」
「その日は、確か……」
イアンが、タージステン大橋でフェイゼリアと戦った日付をラストン伝える。
それを聞いたラストンは、ギョッと顔を引きつらせ、部屋の外へ出ていった。
しばらくすると、紙束のようなものを手にして戻ってきた。
「この国も、周りと同じ日の付け方をしている。たぶん、一緒のはずだ……」
ラストンは、そう言いながら、紙束をイアンに渡した。
「ここを見て欲しい。これは今日の日付だ」
ラストンは、イアンの持つ紙束に指を差す。
そこには、数字が書かれおり、ラストン曰く、それは今日の日付であるらしい。
「どういうことだ……オレが海に落ちた…とされる日から、それほど経っていない…だと…」
イアンの言った日付とそこに書かれている日付を比べると、三日しか経っていないことが分かった。
「イアン君……もっと、よく見てくれ」
「……? 」
ラストンに促され、イアンは並んだ数字をジッと見る。
「……! な、なんだと!? これは……こんなことがあるのか! 」
イアンは何かに気づき、今日一番の驚愕の声を上げた。
紙束に書かれている年の数字は、イアンが海に落ちた年より一つ増えていたのだ。
「気づいたね、イアン君。君が海に落ちた日から一年過ぎているんだ」
神妙な顔つきで、ラストンはそう言い――
「つまり、君は半年と三ヶ月の間、海を彷徨い、あとの四ヶ月をここで寝ていたことになるんだ……」
と続けた。
リサジニア共和国――
ウルドバラン大陸の西側、そこから南西の方角に浮かぶ島国である。
他国との交流は多少あるものの、島国であるが故か、他国から受ける影響は少ない。
さらに、この国には、魔物が一匹も存在しないことが確認されている。
これらの要因のせいか、この国には独自の文化が形成されている。
まず、この国の国民は基本、武力を持たない。
そのため、武力を持たない国民を守り、国の治安を維持する組織が存在する。
その組織を警士隊と呼び、国家が管理・運営をしている。
彼らの存在がいることで、この国の国民は安心して、日々を過ごすことができるだろう。
しかし、彼らは目を掻い潜って、悪の所業を働く者がいる。
「はぁ…はぁ…へへっ、簡単に盗れちまったぜ! 」
リサジニア共和国の首都 タブレッサ。
国有数の大都市であるこのタブレッサは、栄えているが闇もある。
今日もまた、盗んだ鞄を抱える者が、人気のない路地を駆け抜ける。
「警士隊が近くにいなきゃあ、やりたい放題だぜ! 次は、女を襲ってやろうかな、げへへ」
走る盗人は、下品な笑顔を浮かべる。
そんな彼の前に――
「はぁ……昼間からよくやるよ……」
一人の男性が立ちはだかった。
男性はヨレヨレのシャツに、色が落ちたズボン、一昔前に流行ったトレンチコートを身につけていた。
「ああ? どきな、冴えないおっさん! 」
彼の口調、姿勢から無気力な雰囲気が漂い、見た目通りの冴えない男性として、盗人の目に映った。
「おっさん…か。おじさんも、もうそんな歳になっちゃうね。やだなぁ……」
男性はブツブツと呟くと、深々と項垂れた。
「聞こえねぇのか! おっさん! 」
盗人は立ち止まり、鞄を抱える反対の手――左手にナイフを持ち、道を開けない男性に向ける。
「はぁ……彼女は欲しいけど、結婚はしたくない。子供は可愛いけど、それは小さい時まで。あの子を見ていて実感してるよ……」
しかし、男性は独り言を呟くだけで、道を開けることはなかった。
「こ、こいつ! なめやがってよ! 」
盗人は、ナイフを前に向け、男性に向かって走り出した。
「どかねぇのが、悪いんだ! 」
盗人のナイフが男性の胸に迫る。
切りつけるだけではなく、完全に殺すつもりでいた。
「あれ? 」
盗人が間の抜けた声を出す。
目の前にいたはずの――胸を突いたはずの男性が、自分の視界から消えていた。
しかも、消えたのは男性だけではなく、自分の左腕も見当たらない。
「ふぅ……まったく、こういうのは、どこで手に入れてくるのやら……」
すると、男性の声が自分の背後から聞こえ――
「いっ…いでででででででっ!! 」
盗人は、自分の左腕、特に手首に強烈な痛みを感じた。
ボトッ!
盗人の左手に持たれていたナイフが、下の地面に落下する。
男性は盗人の背後に立ち、掴んだ左腕を盗人の背中へ回していた。
盗人の手首は、男性の手によって捻られている。
「素人さんの方が、何をしてくるか分からなくて、逆に怖いんだよね…っと! 」
男性はそう呟きながら、盗人の首元を右手で叩き込む。
「でぇえっ!? 」
盗人は気を失い、うつ伏せに倒れ込んだ。
「こいつは、警士隊に任せて、これは僕の仕事になるのかな? 」
男性はそう呟きながら、落ちていた鞄を拾い上げた。
彼が鞄をはたいて、付いた汚れを払っていると――
「あ、ああっ、私の鞄! ありました! あの人が、私の鞄を取り返してくれたみたいです! 」
豪奢な装いの婦人と共に、数人の警士隊がやってきた。
「……ありゃ、ただ働きになっちゃったよ……トホホ…」
男性はがっくりと項垂れた。
彼は、大都市タブレッサの隅にあるノギアスストリートに事務所を構える者。
人々に依頼された仕事をこなす探偵であった。
ちなみに、ここ数日の間に、彼の事務所にやってきた客の数は五人。
そのうちの四人から受けた依頼は、迷子になった飼い猫を探すことであった。
八章 開幕
今回も長い。たぶん長い。