百八十話 残虐なる者
アントワーヌは、石煉瓦に膝を付いた状態のまま動けないでいた。
その彼女の目は、前方に立つ少女に向けられ、表情は凍りついたように固まっていた。
アントワーヌの目の前に現れたのは、フェイゼリア。
ユニスの父であるロイクの部下で、アントワーヌは数年前から彼女のことを知っている。
ファイゼリアは礼儀正しく、心優しい人物。
周囲の人々が持つ、ダークエルフの印象を払拭させるほどの人格の持ち主であった。
しかし、今、その何もかもが砕け散った。
フェイゼリアは、死んだユニスを見て泣き崩れたアントワーヌを笑ったのだ。
「なんで、そんなことを言うか……だって? あはははは! 聡明なアントワーヌが、こんなことを聞くなんてねぇ! この状況でわかるでしょ? そういうことよ」
フェイゼリアが、周りを見回すことを促すかのように、両腕を広げた。
「……お前は敵…だったのか…」
固まった表情のまま、アントワーヌが呟いた。
「そう! だけど、ただの敵ってわけじゃあないんだなぁ」
フェイゼリアがニヤついた表情で言った。
「ただの敵ではない……だと? 」
「はははっ! どうやら、頭の回転がだいぶ鈍っているみたいねぇ。ロイクとフィリクは死ぬ前、あんたと同じ顔をしていたよ」
「ロイクと……まさか! 」
アントワーヌは、はっと目を見開いた。
「あの二人を殺害したのは、お前だったのか! 」
「せいかーい! 加えて、他の領主を殺したのは、あたしに賛同した騎士達。つまり、オリアイマッドの領主を殺害しただけじゃなく、あたしは領主達を殺害した首謀者なんだよ! 」
フェイゼリアが声高々に言い放った。
「あの領主達は厄介でね。この国を争いで滅茶苦茶にするには、邪魔な存在だったんだよ。こうして殺害するまでに、数年の時間が必要なほど…ね」
「お前は初めから領主達を……いや、ゾンケット王国を破滅させるつもりだったのか……」
「そう。何もかも、そのため。あんたが今、大切に抱えているユニスがそうなったのも、そのために必要なこと…」
フェイゼリアの視線が、アントワーヌが抱えるユニスの体に向けられる。
この時の彼女の目は笑っていた。
「ユニスも……おまえが殺ったのか……」
アントワーヌは頭を俯かせ、声を搾り出すようにそう言った。
「ふふふ、そうよ。あたしの手で直接殺してあげたわ。せっかくだから、ユニスの最期がどんな感じだったか教えてあげる」
――二日前の夜。
この時、ユニスは自分の家の執務室にいた。
「ふぅ、エンリヒリスとロニーは休戦、カレッドとノブサルの戦争は終わった……」
彼女の前の机の上には、休戦協定の同意書とカレッド領が戦争に勝利したことが記載されている書類があった。
「そして、カレッドのルロルは、私に賛同してくれると……」
ユニスは、手に持っていた書状を机に置いた。
その書状は、カレッド領から送られてきたユニスの戦争根絶運動に賛同するものであった。
「これで、後はレアザ領とラファント領か。しかし、エッジマスク殿の言われた通りやっているだけで、こうもうまくいくとはな……」
ユニスがゾンケット王国の内戦を止めようとしたのには、エッジマスクが関係していた。
この数日前、ユニスの前にエッジマスクが現れ、彼女にエンリヒリス領とロニー領の領主を説得するよう言われたのだった。
当初、オリアイマッド領が戦争に巻き込まれることを恐れ、ユニスは消極的であった。
しかし、やることは書状を書くだけであると聞きいたのと、なかなか引き下がらないエッジマスクに負け、筆を取ったのである。
その後は、書状を三通ほど書くだけで、エンリヒリス領とロニー領を休戦させることができた。
この次に、エッジマスクに言われたのは、他の内戦も止めること。
ユニスは各領地に書状を送り、自分に戦争を止める意思があることを伝えたのであった。
「……レアザとラファントは、書状を書くだけでは止まらないと思うが……周りの領主が一斉に声を上げれば、効果はあるのだろうか…」
椅子にもたれかかり、ユニスはそう呟いた。
今、この執務室にいるのはユニス一人だけ。
誰も彼女の呟きに、返答をすることはなかった。
「はぁ……アン達は、何時帰って来るのか……」
ユニスはそう言うと顔を上げ、天井を見つめた。
「……ここ数日、小生の傍にいてくれる者はいない。本当の小生の部下……いや、仲間は、あの三人だけ……か…」
ユニスが呆けていると――
コン! コン!
執務室のドアが叩かれた。
「入れ」
「失礼します」
ユニスが入室の許可を出すと、騎士が執務室に入ってくる。
「……」
姿勢を正そうとしたユニスだが、その体の動きが止まった。
入って来たのは、一人の騎士だけではなく、数人の騎士達がぞろぞろと執務室に入ってきたのだ。
その異様な光景から、ただならぬ雰囲気を感じ、ユニスは体の動きを止めてしまったのである。
「何かあったのか? 」
ユニスが先頭に立つ騎士に訊ねる。
その騎士の頭には、一対の獣の耳が生えている。
彼は犬獣人だ。
「……ユニス様、あなたとあなたの父上は、我々のような、よそ者を雇ってくれました。本当に感謝しています…」
「そ……そうか。そう言われると気恥ずかしいな……」
犬獣人の騎士の答えにユニスは、はにかんだ表情を浮かべた。
「……小生が雇ったのは、イアンとラノアニクスだけだがな…」
ユニスは頭を俯かせると、騎士達に聞こえないような小さな声でそう呟いた。
「それで……何だ? おまえ達は、騎士を辞めるのか? 」
ユニスは顔を上げ、犬獣人の騎士にそう訊ねた。
犬獣人の騎士の言葉をユニスは、辞める前の挨拶であると受け取っていた。
「いえ、違います」
「……? じゃあ、何だというのだ? 」
しかし、犬獣人の騎士に否定され、分からないユニスは首を傾げた。
「辞めるのは、あなたです。ユニス様…」
犬獣人の騎士はそう言うと、腰に下げていた剣を手に取った。
周りの騎士も同じように剣を手に取る。
「……!? おまえ達……何をするつもりだ…」
ユニスは驚愕し、椅子から腰を浮かせる。
「あなたは……あなた達は邪魔なんですよ。これからのゾンケット王国には要らない。ここで、死ねぇ! 」
騎士達が一斉にユニス目掛けて、剣を振り上げながら襲いかかった。
「くっ……」
応戦しようとユニスは腰に手を伸ばすが――
「……! しまった! 剣は小生の部屋に……! 」
ユニスは今、剣を持っていなかった。
「覚悟! 」
騎士達の剣の刀身がユニスに迫る。
「させん…」
ギンッ!
しかし、騎士達の剣がユニスを切り裂くことはなかった。
「なに!? 貴様は! 」
「エッジマスク殿…」
騎士達の先頭に立っていた獣人が驚きの声を上げ、ユニスが目の前の人物の名を呟く。
突如、エッジマスクがユニスの前に現れ、自分の持つ剣で騎士達の剣を弾いたのだ。
「おのれ! あの小娘の手先…国賊めが! 」
獣人の騎士がエッジマスク目掛けて、剣を振り下ろす。
「……それは、貴様達のこと…」
ズバッ!
「がはっ――!!」
エッジマスクは、自分に剣が振り下ろされる前に、獣人の騎士の腹を剣で切り裂いた。
「ぎゃ――!! 」
「ああっ――!! 」」
その後、エッジマスクは他の騎士達も容赦なく切り裂いていく。
エッジマスクが現れてから、一分も経たず、騎士達は床の上に転がった。
「助かった……ありがとう、エッジマスク殿」
目の前のエッジマスクに礼を言うユニス。
「礼はいい……それより、窓の外を見てみろ…」
「……? 外……? 」
エッジマスクに促され、ユニスは執務室の窓を開けた。
「……なっ…なんだ、これは!? 」
窓から、外を見回したユニスが驚愕の声を上げた。
家の周りには、たくさんの騎士の死体が転がっていた。
そして、視界の奥には、家の敷地内に侵入していく、大人数の騎士達に姿が見えた。
皆、オリアイマッドの騎士達である。
「……あれらは、貴公の命狙いに来た者達だ。このエッジマスクの手で葬った…」
いつの間にか、ユニスの側に来ていたエッジマスクがそう言った。
「皆、この領の騎士達だぞ……なんだ……一体何が起きている……」
「貴公は、彼等……この国の崩壊を企んでいる者共にとって邪魔なのだ」
「この国の崩壊……だと? 騎士達がそれを望んでいるのか! 」
「一部の者共がな。奴らは、内乱を止めたくないのだ……」
エッジマスクはそう言った後、執務室の外に向かって歩いていく。
「今は、この屋敷から抜け出すことが先決……」
「……! ま、待て! 小生が狙われているなら、母上とロランドは……」
窓から離れ、ユニスがエッジマスクに向けて、そう声を上げた。
「案ずるな。母君と…弟君は、既に我々が保護している。今は、二人共安全な場所に着いているはずだ」
「そ、そうか……」
ユニスは、ホッと息をついた。
「貴公が安堵するには、まだ早い。まずは、この屋敷を脱出するぞ」
「あ、ああ」
エッジマスクは、廊下に出ると走り始めた。
ユニスは、エッジマスクの後に続いた。
立ちはだかる騎士達を剣で斬りつけながら、エッジマスクは長い廊下を進んでいく。
すると、前方の突き当たりの曲がり角から、一人の騎士が現れた。
「いたぞ! エッジマスクとユニスだ! 」
騎士が声を上げると、次々と騎士達が集まっていく。
「くっ……あれでは、先に進めない…」
エッジマスクの足が止まった。
騎士達は、隙間なく二人の前方に立ちふさがり、まるで壁のようになっていた。
エッジマスクの力を以てしても、この壁を突破することはできない。
「階段は他にもある。引き返そう! 」
ユニスがエッジマスクに、そう言った。
「ダメだ! もし、その階段も塞がれていたら、我らの逃げ場はなくなってしまう。ここは……」
エッジマスクは、ユニスにそう答えると、彼女の手を掴み廊下の窓に目を向けた。
エッジマスクは、窓から脱出を試みるつもりであった。
「ユニス様ーっ! 」
その時、二人の後方から、ユニスの名を呼ぶ声が聞こえた。
「……! あれは……フェイゼリア! 」
振り向いたユニスが、後方から走ってくる人物の名を口にする。
二人の元にやってきたのは、フェイゼリアであった。
「何故、おまえがここに? 怪我は……背中の怪我はもういいのか? 」
「はい。今日、完治して、医療院を出たばかりですが…」
フェイゼリアが、ユニスの隣に並び立つ。
「お初にお目にかかります。あなたが、エッジマスク……さんですよね? 私は――」
「フェイゼリア殿……前オリアイマッドの側近…」
フェイゼリアが名乗る前に、エッジマスクがそう呟いた。
「……はい。名乗る必要はなかったようですね。では、これより私が加勢します。共に、ここから抜け出しましょう! 」
フェイゼリアは、腰の鞘から剣を抜いた。
「いや、今はユニスを救うことが先決……ここは、このエッジマスクが引き受ける。貴公はユニスを連れて、別の階段に向かえ」
しかし、エッジマスクはフェイゼリアの前に立ちはだかった。
「……大丈夫…ですか? 」
「突破はできんが、食い止めることはできる…」
「……お願いします。ユニス様、行きましょう」
「あ、ああ……」
フェイゼリアは、ユニスの手を引いて、来た道に向かって走り出す。
彼女に手を引かれながら、ユニスは後方に立つエッジマスクの背中を視界から消えるまで見続けていた。
走るフェイゼリアと、彼女に手を引かれるユニスの視界に、階段が映った。
「ようやく階段……いつも通っているのに、長く感じたな…」
階段を目にしたユニスが、そう呟く。
「ええ、そうですね…」
フェイゼリアがユニスの呟きに答えた。
二人は階段に向かって進み――
「えっ……」
階段を上り始めた。
フェイゼリアは下の階へ続く階段ではなく、上の階へ進む階段に進んだのである。
「何故、上に行くのだ…? 」
「……ロイク様の部屋には、大事なものがあります。それを取りに行きましょう……」
フェイゼリアは、ユニスに振り向くことなくそう答えた。
「父上の…部屋……? 父上の部屋は……」
「いいから行きましょう…」
「あ、ああ……」
ユニスはフェイゼリアに手を引かれるまま、階段を上ってく。
そして、階段を上った後、二人はロイクの部屋の中に入った。
「はぁ……はぁ……」
ユニスは膝に手をつき、荒くなった息を吐き続ける。
「それで……何を探しに来たのだ……ここには…」
ユニスが上体を起こし、顔を上げる。
「もう…何も無いぞ……おまえは知らなかったのだろうがな……」
二人が入ったロイクの部屋だった場所には、何も無かった。
彼が死んでから、私物は別の場所に保管し、部屋を片付けて、空き部屋にしてしまったのである。
「……知っていましたよ…」
「……なら、何故ここに来た……」
ユニスは、自分に背中を向けるフェイゼリアを見る。
「……ん? というか、今、何と――がっ!? 」
そして、再びユニスが口を開いた時、フェイゼリアの左手が彼女の首を掴んだ。
「あっはははははははは!! 」
ファイゼリアは、ユニスの首を持ち上げ、踊るようにベランダの方へ向かい――
バンッ!
窓を蹴り飛ばし、ベランダに出た。
「ぐっ!! 」
フェイゼリアは、首を掴んだまま、ユニスをベランダの柵の押さえつける。
「ここに来たのは、お前を殺すためだよ、ユニス! 」
フェイゼリアは、右手もユニスの首へ伸ばし、両手で彼女の首を締め始める。
「ぐうっ……フェイ……どう…してっ! 」
「えぇ? なに? 聞こえませんよっ! 」
フェイゼリアはユニスの首を持ち上げ、柵の上に彼女の背中を乗せる。
「うわあああああああ!! 」
ユニスが悲鳴を上げる。
彼女の目に映るのは、空と地面が逆になった景色。
視線が移ってしまうのは視界の上の方、遥か下にあるはずの地面であった。
「あっははははは! 最っ高! ロイクを殺った時より気持ちいい! 」
ユニスの声を聞き、フェイゼリアは目をに開いたまま満面の笑みを浮かべる。
「うっ…何故…なんで、こんなことをする! 」
もがきながら、ユニスが叫ぶ。
「何故? 楽しいからに決まってるじゃない! こうして、人が絶望していることが! 」
フェイゼリアは、ユニスを掴む首を下へ押し込む。
すると、ユニスの上体は柵を乗り越え、彼女の足も柵から出てしまう。
今、ユニスの命を繋いでいるのは、フェイゼリアの両腕だった。
「き、来たぁ! あたしの腕にかかる、この重量! 」
ユニスの首を持ちながら、フェイゼリアは恍惚とした表情を浮かべる。
「やめろ! やめてくれ! ここから落ちたら、死んでしまう! 」
「もう少し……もう少しで、あの瞬間が来る! ああ、早く来ないかなぁ」
フェイゼリアに、ユニスの声はもう届くことはなかった。
「あ、ああっ、誰か……誰か助けて! アン……早く…」
「ああああ!! 来たぁ! もう限界ぃ! 」
フェイゼリアの両腕の限界が訪れ、ユニスの首は離された。
ユニスは、ベランダから転落し――
「来てくれえええええ…………」
地面に激突した。
その後、彼女の体はピクリとも動くことはなかった。
ユニスは死んでしまったのだ。
地面に横たわる彼女は、絶叫をしたままの悲惨な表情をしていた。
「あはははははは!! 最っ高に気持ちいいいいい!! 」
ベランダから身を乗り出し、ユニスの顔を見た後、フェイゼリアは空に向かって笑い声を上げた。
バンッ!
その時、部屋のドアが勢いよく開かれ、そこからエッジマスクが姿を現した。
「貴様……貴様だったのか! 」
「ふふっ、色々と遅いのよ…あんたは! 」
エッジマスクが剣を構えて駆け出し、フェイゼリアは腰の鞘から剣を抜いた。
ギンッ!
互いの剣がぶつかり合い、二人の戦いが火蓋を切る。
二人が互いの剣をぶつかり合う中、地面に横たわる少女ユニス。
彼女は最期まで、アントワーヌが来ることを待ち望んでいた。
「……エッジマスクは、倒しきれなかったけどねぇ……まぁ、これが、ユニスの最期よ。ああ…あの人が落ちる一瞬は何度見ても良いわぁ…」
話し終えたフェイゼリアがうっとりした表情になる。
「……」
対して、アントワーヌは俯いており、表情を伺うことはできない。
「あれ、どうしたの? 怒ってる? 」
アントワーヌの様子に気づいたフェイゼリアが、彼女を嘲笑うかのように声を掛ける。
「ああ、怒っているとも…」
アントワーヌは顔を上げた。
「……ぷっ、あっははははは!! 」
彼女の顔を見たフェイゼリアが、盛大に笑い声を上げる。
アントワーヌの顔は涙に濡れていた。
「俺はかつてないほど、怒っている…」
アントワーヌは、抱えていたユニスの死体をそっと石煉瓦の上に置く。
その時、ユニスの顔に手を添え、開いていた彼女の目と口を閉ざす。
「くくくっ…なに? あたしが死ぬほど憎い? 」
「ああ、憎いな。だが、お前よりも今は自分自身が何十倍も憎たらしい! 友の窮地に……自分を優先して、ユニスを蔑ろにした自分が憎くてたまらない……! 」
アントワーヌは吐き捨てるように、そう叫びながら立ち上がった。
「フェイゼリア……俺の言ったことを覚えているか? 」
「ん? あんた、あたしに何か言ったっけ? 」
首を傾げるフェイゼリア。
「そうか……なら、もう一度……改めて言ってやる」
アントワーヌは、緑色の柄の剣をフェイゼリアに向けた。
「ロイクとフィリク……ユニスを殺したお前は、このアントワーヌが直々に八つ裂きにしてやる! 」
「……くくっ…はっはははははは!! 」
フェイゼリアは笑い声を上げながら、腰から剣を抜いた。
「無茶はなさらないでくださいよぉ、アントワーヌ様ぁ! 」
彼女は、剣を持たない左手で、アントワーヌを挑発するように手招きする。
「うおおおおおお!! 」
アントワーヌは、前方のフェイゼリアに向かって駆け出した。