百七十七話 転落の一途
――夜。
アントワーヌは、ラファント領の砦にいた。
そこはヒスリッジと呼ばれている砦で、ラファント領の南西部に位置している。
彼女は今、ヒスリッジ砦の中にある客室で食事を取っていた。
「お味は、いかがですか? 」
ヒスリッジ砦の防衛隊長を務める騎士が、アントワーヌに訊ねる。
「美味でございます。私のような者に、このような最高のおもてなしをして下さり、感謝の言葉もございません」
「いえ、あなたは大切なカレッドの使者。当然のことでございます。何かあれば、遠慮なくお申し付けください」
「ありがとうございます」
アントワーヌの礼を聞くと、防衛隊長騎士は微笑みを浮かべた。
防衛隊長騎士はアントワーヌへ会釈をした後、部屋の外へ出ていった。
「…………ふふっ、使者という役も悪くはないな」
一人になった部屋で、アントワーヌは一人呟いた。
使者になり、宿を探して立ち寄った砦でもてなされ、アントワーヌは浮かれた気分になっていた。
「うまく休戦に持ち込めば、ルロルはまた、俺を評価するだろう。そろそろ、俺の名も国に広まる頃だろうか……」
アントワーヌは、皿の上に食器を置くと、窓の前に立った。
窓の外からは、空に浮かぶ星々がよく見えた。
「もうすぐだ……もうすぐ、オルヤールの姓を名乗る日がやってくる……ようやく始まるのだ…」
星空を眺めるアントワーヌの表情に、いつもの不敵な笑みなかった。
「ふっ…まだ、気が早いな。さて、明日も朝は早い。もう眠るとしよう」
アントワーヌは、ロウソクの火を消すと、部屋の隅に置かれたベッドへ寝転んだ。
程なく、アントワーヌの口から寝息が漏れ始める。
キィ……
彼女が寝息をたて始めてからしばらくした後、客室のドアがゆっくり開かれた。
ドアは部屋の中に向かって開かれる構造をしている。
そのため――
コッ…
近くに物を置かれていれば、ドアを開くことはできない。
アントワーヌのいる客室のドアの近くには、何かが置かれており、ドアは途中までしか開けなかった。
「……! ……! 」
ドアを開こうとしている者は、客室の中に入るため、ドアを少しずつ押して、障害物をどかそうとするが――
パリンッ!
ついに、物音を立ててしまう。
ドアの開きを妨げていたのは、小さな机であり、その上に置かれていた花瓶が床に落ちてしまったのだ。
「戦争中ということで、警戒しておいて良かったな」
花瓶が割れた音によって、目を覚ましたアントワーヌはベッドの上で上半身を起こした。
「ちっ…気に入らんガキだ」
バンッ!
気づかれたことで、その謎の人物はドアを蹴飛ばし、アントワーヌの元へ走り出す。
声からして、その人物は男であった。
その男が彼女に近づくと、剣を抜き、アントワーヌ目掛けて振り下ろした。
「ふん、ヤケになったか…」
「……!? なに!? 」
アントワーヌは躱す動作を一切取らなかった。
その代わりに行ったのは、剣を持っていた男の手首を掴んだことであった。
「そらっ! 」
「ぐあっ!! 」
手首を捻り、剣を奪ったアントワーヌは、目の前の男の体を袈裟懸けに切り裂いた。
切られた男は、仰向けに倒れ出す。
「俺が警戒していたからいいものの、この砦の騎士達は何をやっているのだ」
アントワーヌは、そう呟きながら、ロウソクに炎を灯した。
すると、辺りがほんのりと明るくなり、倒れた男の姿が明確になる。
「……!? 」
その顕となった男の姿に、アントワーヌは驚愕した。
男の着ている服は、ラファント領の騎士のものであった。
「どういうことだ……何故、ラファントの騎士が俺を殺そうとする……」
状況を理解できず、少しの間、呆然とした後、部屋を飛び出した。
「防衛隊長殿! 起きてください! 」
アントワーヌが向かったのは、砦の中にある防衛隊長の部屋であった。
彼女がその部屋のドアを叩くと、中から防衛隊長騎士が顔を出した。
「アントワーヌ殿!? 何故ここに……」
いきなり尋ねられ、防衛隊長騎士は驚愕の表情を浮かべている。
アントワーヌは、その防衛隊長騎士に向かって――
「大変です! ここの……ラファント領の騎士が私を襲ってきました! 」
と言った。
「……ははっ…そんな馬鹿な。見間違いではありませんか? 」
しかし、防衛隊長騎士は、アントワーヌの言葉を信じていなかった。
「本当です。信じられないのであれば、御自分の目で確かめてください」
「はぁ…では、客室へ向かいますか」
防衛隊長騎士のその言葉を聞くと、アントワーヌは踵を返し、客室を目指して歩き始める。
防衛隊長騎士も歩き始め、彼女の後ろをついていく。
「こいつです! こいつが、いきなり部屋に入ってきて、私に斬りかかってきたのです」
そして、アントワーヌ達は、客室の中には入り、そこに倒れているラファントの騎士に目を向ける。
「……確かに、我々の領の騎士ですね……この砦に詰める者ではありませんが……」
騎士の顔を見て、防衛隊長騎士はそう言った。
「もしかしたら、ラファントに騎士に扮したレアザ領の者かもしれませんね。何にせよ、砦の周囲を警戒を必要があります。申し訳ありませんが、安全のため、アントワーヌ殿は朝になるまで、ここから出ないようお願いします」
防衛隊長騎士はそう言うと、アントワーヌに手を差し出した。
「……すみません。この剣は護身用に持っておきたいです」
「……そう…ですね。では、アントワーヌ殿、くれぐれもこの部屋から出ては行けませんよ…」
防衛隊長騎士は、騎士の死体を運びながら、部屋の外へ出ていった。
「はぁ……くそっ! 舐めていた。前線とは離れた所で、戦争に巻き込まれるとは……」
アントワーヌは剣を手にしたまま、ベッドの上に腰掛けた。
「朝になるまでか……まだ夜になったばかりだぞ……」
アントワーヌは、げんなりと項垂れた。
その後、アントワーヌは落ち着かないまま、じっとベッドの上で朝を待ち続ける。
コン! コン!
アントワーヌがじっとしていると、部屋のドアが叩かれた。
(……? 防衛隊長殿か。何かあったのだろうか? )
アントワーヌは、そう思いながらドアの前に向かう。
「誰でしょうか? 」
一応、そこから外に誰がいるか確認する。
「防衛隊長でございます。先程の襲撃者の件で、部屋の中を確認したいのですが……」
「部屋の中……分かりました、今開けます」
アントワーヌは鍵を開け、ドアを開いた。
「……」
アントワーヌの表情が固まる。
ドアを開いた先には、防衛隊長騎士と多数の騎士が立っていた。
それだけでも充分異様な光景であったが、さらに騎士達は片手に剣を持っていたのだ。
「アントワーヌ殿……あなたは邪魔です。ここで死んでください」
防衛隊長騎士は微笑みを浮かべた。
アントワーヌは、自分に向けられたその笑みが、とても気持ち悪いものに見えた。
暗闇の中を駆ける少女がいた。
その少女はアントワーヌであり、彼女の服は所々破れ、赤く滲んでいる部分もあった。
アントワーヌは、あの場から生還し、カレッド領を目指し、北西の方角に向かって走っていた。
「はぁ…はぁ…」
彼女の呼吸は荒く、時折足がもつれて転びそうになる。
カレッド領を目指す前に、アントワーヌは、ヒスリッジの近くにあった砦に助けを求めに行ったが――
『黒い髪……お前がアントワーヌか!。皆の者、奴を殺せ! 』
問答無用で剣を向け、アントワーヌを殺しにかかってきた。
アントワーヌは、ラファント領の騎士を信用できなくなったのである。
「くそっ! ラファントの連中は皆、頭がおかしい! 俺が何をしたというのだ! 」
今のアントワーヌの武器は、刀身の中間から先が折れて無くなってしまった剣だけ。
追い詰められた状況であり、アントワーヌは叫ばずにはいられなかった。
「む? 」
アントワーヌは前方から何かが迫ってくるのが見えたような気がして、足を止めた。
耳を澄ますと、馬蹄が地面を叩きつける音が聞こえた。
「馬……カレッド方面から? 」
アントワーヌは、とりあえず近くにあった茂みの中に身を隠す。
程なく、アントワーヌの前を馬に乗る騎士が通り過ぎた。
「あ……今のは! 」
騎士の服はカレッド領のものであった。
「おーい! 待ってくれーっ! 」
アントワーヌは茂みの中から飛び出し、走り去っていったカレッド領の騎士に目掛けて、声を上げる。
すると、馬は方向を変え、アントワーヌの方向へ戻ってくる。
「あなたは、アントワーヌ殿か…」
馬に乗った騎士が、アントワーヌの姿を見て、そう呟いた。
「助けてくれ。ラファント領の騎士達は皆、俺を殺しに来るのだ」
「そう…ですか。ところで、ルロル様とプレト様の姿を見ていませんか? 」
「え……ルロル…様とプレト? いや、見ていないが…」
アントワーヌは、何故そんなことを聞くのかと、疑問に思いながら答えた。
「そうですか……分かりました。ありがとうございます」
騎士は馬上でアントワーヌに礼を言うと、長槍を取り出し、その穂先をアントワーヌの顔に向けた。
「え……? 」
アントワーヌは訳が分からず、間の抜けた声を出す。
否、アントワーヌは理解していた。
その証拠に、彼女の目には薄らと涙が滲んでいる。
理解していたが、彼女は認めたくはなかったのだ。
「死ね、アントワーヌ・ルーリスティ」
騎士全員が自分の敵であることを。
「うわあああああああ!! 」
その瞬間、アントワーヌは絶叫し、向けられていた長槍を折れた剣で弾く。
「くっ! はあ!! 」
騎士は体勢を立て直し、アントワーヌ目掛けて、長槍を突き出した。
アントワーヌは体を傾けて、長槍を躱した後、垂直に飛び上がり――
「あああああ!! 」
「ぐあっ!! 」
騎士の首に折れた剣を叩き込んだ。
「ヒヒーン! 」
騎士は落馬し、馬はどこかへ走り去っていく。
アントワーヌは落馬した騎士から長槍を取り上げると、騎士の体を突き刺し始める。
一突きではなく、何度も長槍を突き刺し、みるみる騎士は人間の形から離れた死体に変わっていく。
「はぁ…はぁ…」
やがて、アントワーヌは長槍を突くのをやめて立ち尽くした。
今の自分に味方が存在しないと、絶望しているのだ。