百七十二話 弓の名手 マルゼス
プレトは、背の槍を手をかけたまま動けずにいた。
周りを敵であるノブサルの重騎士達に囲まれている中、武器を取り出せないでいる理由は、彼女の視線の先にある。
プレトが見つめるその先には、塀の上で弓を構えるマルゼスの姿が映っていた。
彼女は火矢を番えており、少しでも動こうものなら、その火矢を容赦なく放つだろう。
プレトはそれを警戒しているのだ。
「槍……お前、ルロル・オルヤールの妹のプレト・オルヤールで間違いない? 」
マルゼスがプレトに問いかける。
「……そうだ」
「ふぅん……なら、お前は生け捕りね。その隣の子供を背負った奴は死ね」
マルゼスがそう言い終わった後、番えていた火矢をイアン目掛けて放った。
「なっ……イアン殿、躱せ! 」
プレトがイアンに呼びかけるが――
「……間に合わん! 」
ラノアニクスを背負うイアンは、充分に動くことができない。
「……やっぱり暗いと、狙いが外れるなぁ…」
自分が放った火矢を見つめながら、マルゼスが呟いた。
彼女はイアンの首元を狙ったのだが、火矢の向かう先はそこではない。
「ま、結果は変わらないけどね」
狙いが外れたにも関わらず、彼女は余裕の様子である。
なぜなら、狙いの逸れた火矢の向かう先には、イアンの顔があるからだ。
「ぐうぅ……」
火矢が眼前に迫り、イアンの視界が真っ赤に染まる。
「……グ…ガアアッ! 」
しかし、火矢がイアンの顔を貫くことはなかった。
イアンに背負われているラノアニクスが、爪で火矢を払ったのだ。
「ラノアニクス!? ぐっ!? 」
振り向こうとしたイアンだが、急激に体が重くなり、地面に膝をついてしまう。
「どうした? 火矢は防いだはずだろ!? 」
プレトがイアンに駆け寄る。
「ぐぅぅ……まずい。ラノアニクスの……暴走だ」
「なんだと? 今日はまだ、人を殺していないはずだぞ」
「……どうやら……あの力を使っても発動する…らしいな。とりあえず、ここから離れろ…」
「は、離れろと言ったって……」
プレトは周りを見回した。
どこも重騎士に阻まれており、逃げ場はどこにも見当たらなかった。
その時――
「ギャオオオオオオオオ!! 」
ラノアニクスが顔を上げ、天に向かって咆哮を上げた。
「ぐっ……さ、先ほどのものよりも凄まじいぞ…! 」
プレトは、吹き飛ばされてしまうのではないかと思い、身を屈ませた。
「ぬぅ……なんだ…!? 」
「ぐぅ!? 」
ラノアニクスの咆哮に、衝撃を受けたのは重騎士達も同様であった。
「グゥア! 」
「がっ!? 」
イアンの上から、ラノアニクスが空高く跳躍する。
踏み台にされ、激しい衝撃をその身に受けたイアンは地面に倒れて気絶してしまう。
「グゥゥ…」
跳躍したラノアニクスは、宙を漂いながら眼下の重騎士達に顔を向ける。
重騎士達は暴走したラノアニクスに驚きつつ、彼女の攻撃に備えて大盾を空に向けていた。
ラノアニクスは重騎士達の頭上に到達すると、彼ら目掛けて落下し始める。
「な……消えた!? 」
地上からラノアニクスを見上げていたプレトが、驚愕の声を上げる。
ラノアニクスの落下速度があまりにも速すぎたため、一瞬で姿を消したのだと錯覚したのだ。
ドォン!!
プレトがラノアニクスの姿を見失ってから、数秒経たずに地面を叩きつける凄まじい轟音が辺りに響き渡る。
落下したラノアニクスが地面に到達したのだ。
数倍にもなったラノアニクスの落下を受け、彼女の真下にいた重騎士達は、頑強な鎧ごと押し潰されて絶命する。
近くにいた重騎士達は、落下による衝撃で体を吹き飛ばされ、他の重騎士達にぶつかってしまう。
「ギャオオオオ!! 」
着地したラノアニクスが咆哮を上げながら、落下攻撃を免れた重騎士へ襲いかかる。
「ひっ……ひぃぃ! 」
その重騎士はラノアニクスに怯え、大盾に身を隠して自分を守る。
「ギャアアア!! 」
ラノアニクスは軽く跳躍した後、空中から重騎士へ蹴り放った。
ガシャ!!
大盾が彼女の蹴りにより、くの字に曲がり、その重騎士は勢いに押されて吹き飛んでしまう。
「こいつ…なんて力だ! 」
「怯むな! 一斉攻撃を仕掛けるのだ! 」
凄まじい蛮力を持つラノアニクスに対し、重騎士達は数の力で彼女を仕留めることにした。
「「「うおおおおお!! 」」」
重騎士達は、槍を前に突き出しながらラノアニクス目掛けて走り出す。
「グゥゥ…・グゥゥゥ……」
ラノアニクスは周りを見回し、迫り来る重騎士達を見た後――
「ギャオオオオオオオオ!! 」
何度目かの咆哮を上げた。
「むっ!? 」
彼女の咆哮に慣れ、突進を続ける中、自分の異変に気づいた重騎士がいた。
「体が軽く……なっているような…」
重騎士は体が軽くなっているような違和感を感じていた。
「うわっ!? 」
その重騎士が短い悲鳴を上げる。
まるで、自分の体が引っ張り上げられるように、空へ浮かび上がったのだ。
「うわああああ!! 」
「な、なんだ!? 」
異変が起こったのは、その重騎士だけではなく、ラノアニクス目掛けて突進していた重騎士全員が空へ浮かび上がっていた。
「と、止まれーっ! 止まらんかーっ! 」
「む、無理です! 身動きが取れません! 」
空へ浮かび上がった重騎士達の勢いは、突進をしていた時と変わらずそのままであった。
そのため、空に浮かび上がる彼らの前にはラノアニクスではなく、突進する他の重騎士達がいるのだ。
彼らは前へ進んでしまう自分の勢いを止められず――
ガシャアアン!!
重騎士達はラノアニクスの頭上で、互いに激突した。
ラノアニクスは頭上に浮かぶ、重騎士の塊に目を向けた後、前に向かって歩き出す。
彼女が重騎士の塊の下から出た後――
ガシャアン!!
重騎士の塊はバラバラと地面へ落下した。
地面に倒れた重騎士達は、誰一人として動くことはなかった。
「なんだ……あいつ。我々の力では歯が立たないぞ…」
一人で多数の重騎士達を倒してしまったラノアニクスに、残された重騎士達は戦慄する。
「……はっ! ここにいては巻き添えを食らってしまう。離れなければ……っと、イアン殿! 」
暴走するラノアニクスを呆然と見ていただけのプレトが、ようやく動き出した。
プレトは倒れ伏すイアンの元に駆け寄ると、彼の生死を確かめる。
「イアン殿……良かった、まだ息がある。ここから離れるぞ…」
イアンが生きていることを確認したプレトは、彼を担いで歩きだした。
「……獣人…ね。カレッド領には、人間しかいないはずなんだけど…… 」
塀の上に佇むマルゼスは、ラノアニクスがここにいることを疑問に思っていた。
「とりあえず、これ以上被害は出せない。あいつは殺す」
マルゼスは弓に番えた矢の先をラノアニクスに向け、弦を引き絞る。
「騎士長! 」
その時、マルゼスの元に一人の騎士が現れた。
「なに? 」
マルゼスはその騎士に見向きもせずに返事をした。
「大筒の砲身は充分冷却されました。いつでも発射可能です」
騎士がマルゼスにそう告げる。
大筒とは、ノブサル領が開発したばかりの武器であった。
その武器は、他国から伝わった火薬と呼ばれる爆発物を利用することで、人の頭程の大きさの弾を撃ち出すものである。
撃ち出す弾にも火薬が仕込まれており、遠く離れた位置から敵部隊や城の城門を攻撃することを目的に造られている。
弾をまっすぐ飛ばすために筒状の形をしていることから、ノブサル領では大筒と呼ばれていた。
「そう。だけど、もう大筒の出番は無いわ。下を見なさい……この状況で撃てば、味方にも被害が及ぶわよ」
「しかし、大筒は完成したとはいえ、まだ改良する部分があるはずです。もっと多くの情報を集めないと……」
「なに? お前は味方を犠牲にしてまで……む! 」
騎士に顔を向けた時、マルゼスは自分を見つめるもう一つの気配に気がついた。
その気配は、騎士を見る自分の後方からマルゼスは感じており――
「伏せなさい! 」
咄嗟に彼女は体を伏せた。
「え? 」
しかし、騎士はマルゼスの感じた気配に気づかず、状況が分からないまま、その場に立ち尽くしてしまった。
ブゥン!
その騎士に目掛けて、何かが飛来する。
「うわっ!? 鎖!? なんで!? 」
飛来してきたのは鎖分銅であり、騎士の体に巻き付いた。
「ちっ」
マルゼスはしゃがんだ状態から、気配のする方向に矢を放つ。
ヒュ!
彼女が矢を放ったと同時に、向こうの人物も矢を放っていた。
二本の矢は互いにすれ違った後――
「がっ!? 」
一方は暗闇に消え、もう一方は鎖分銅が巻き付いた騎士の首元に命中した。
首元を射抜かれた騎士は塀の上から、下の地面に落下していく。
「ふぅ、思ったよりも手強いな…」
暗がりから、騎士を射抜いた人物がマルゼスに向かって歩いてくる。
その人物は弓を手にしており、身につけている黒いマントには一つの穴が空いていた。
「……オリアイマッドは、この戦争に介入しないと約束させたはずだけど? 」
マルゼスが顕になったその人物の姿を見て、そう言った。
「ほう…俺のことを知っているのか」
マルゼスに向かって歩いていた人物は、その足を止め、不敵な笑みを彼女に向ける。
塀の上、マルゼスの前に現れたのはアントワーヌであった。
火矢が放たれた後、走り出したアントワーヌは、塀の上を目指していた。
暗闇の中にいた自分達の近くに矢を放てる者こそ、この砦の最上位の騎士、マルゼスであると判断したのだ。
そして、奇襲失敗による逃亡をやめ、マルゼスを捕らえに来ていた。
「知っている……ええ、知っているとも。食事会の時、オリアイマッドの領主と何かヒソヒソと話しをしていたわね。珍しい黒色の髪をしていたからよく覚えているわ」
マルゼスはそう言いながら立ち上がる。
「そうか……一応、名を名乗っておこう。アントワーヌ……ルーリスティ。お前を捕らえる者の名だ」
「捕らえる……ふふっ、無理ね」
マルゼスは、アントワーヌに笑いかけた。
「無理だと? それはお前が決めることではない」
アントワーヌは矢筒から矢を手に取る。
「悪いな。少し痛めつけるぞ」
「ふぅん、やってみれば」
ヒュッ!
マルゼスはそう言ったと同時に、アントワーヌに目掛けて矢を放った。
矢筒から矢を引き抜き、弓の番える動作は一瞬で――
「なに!? 」
先に矢筒から矢を抜いていたアントワーヌが矢を放つ前に、彼女の矢は放たれていた。
矢はアントワーヌの心臓目掛けて飛んでいく。
キンッ!
アントワーヌは弓に矢を番えるのを諦め、左腕の盾で矢を防いだ。
ヒュッ! ヒュッ! ヒュッ!
マルゼスは連続で矢を放つ。
「くそっ! 」
アントワーヌは連続で飛来する矢を防ぐのに手一杯で、弓に矢を番える暇はなかった。
弓の名手であるマルゼスが最も得意とすることは、速射技術である。
この技術は、短い時間で多くの矢を放つことができるが、ゾンケット王国では、あまり重要視されていない技術でもあった。
それは、この国の弓兵騎士の役割に理由がある。
弓兵騎士の役割は、遠距離からの狙撃もしくは前衛部隊の後方支援である。
基本この二つの役割を弓兵騎士が担う時には、弓に矢を番える余裕があり、速射技術が高い必要はそれほどない。
しかし、マルゼスはこの技術に注目し、誰にも負けることがないよう鍛え続けていた。
彼女は、速射速度がモノを言う戦闘を見据えていたのである。
その戦闘とは、まさに今の状況であり、本来弓兵騎士が窮地に陥る近距離戦闘であった。
絶え間なく矢を放ち続けることで、敵に攻撃をする暇を与えないのだ。
「ぐっ……おのれぇ! 」
アントワーヌは怒声を上げた後、手に持っていた矢を捨て、弓を矢筒に差し込む。
その後、右手で腰の鞘から剣を抜き、左手で後ろ腰にある一本の短槍を引き抜いた。
多くの武器を扱える彼女だが、相手と同じ武器で負けることは屈辱的であった。
彼女の嫌いな言葉である多芸に無芸、そのことを示唆されているように感じるからだ。
しかし、背に腹は変えられず、自分のプライドを一時的に捨て去ったのだ。
キンッ! キンッ! キンッ!
アントワーヌは右手の剣で、飛来する矢を弾きながら、マルゼスに向かっていく。
「ふふっ、弓じゃ勝てないからって、接近戦に持ち込むのね」
「黙れぇ! 」
自分を笑うマルゼスに、怒声を浴びせるアントワーヌ。
「どんな信念を持っていようと、勝たねば意味はないのだ! 」
マルゼスの元まで辿り着いたアントワーヌは、彼女の体を目掛けて左手の短槍を突き出した。
「同感」
キンッ!
「なに!? 」
アントワーヌの突き出した短槍は、マルゼスに蹴りにより、弾かれてしまった。
マルゼスは蹴りを放った勢いのまま体を回転させ、振り向きざまにアントワーヌの脇腹に蹴りを入れた。
「ぐっ!? 」
アントワーヌはよろめきながら、後ろに下がる。
「目的を果たすのなら、何を犠牲にしても構わない……あたし、あなたに共感できるわ」
マルゼスはそう言うと、弓に矢を番え、矢先をアントワーヌの顔に向ける。
「でも、あなたは信用できない……悪いけど、ここで死んでね」
カンッ!
マルゼスは、止めを差すつもりで矢を放ったが、アントワーヌの左腕の篭手に付いた盾に阻まれた。
「はぁ……はぁ……勝手に…終わらせるな…」
アントワーヌは、剣と短槍をしまいながら、そう呟いた。
「は? 行動と言葉が一致していないけど? 」
マルゼスはアントワーヌの行動を訝しんだ。
「光栄に思うがいい。人間相手にこいつを使うのは、お前が初めてだ」
アントワーヌはそう言うと、服の中から赤色の鍵を取り出した。
「鍵? この状況で? 」
「この状況だからこそ…だ! 」
アントワーヌは盾の蓋を開け、そこに赤色の鍵の鍵を差し込んで回した。
[アウト・ザ・スピア! ]
ガシャ! シュコン!
謎の声と共に盾の一部が開き、そこから赤色の柄が飛び出す。
アントワーヌが柄を引き抜くと、それは長槍へと変化する。
「ここからが本番だ。覚悟しろよ」
アントワーヌは不敵な笑みを浮かべると、長槍を両手で構える。
「……なんで……これはあいつの……」
マルゼスは信じられない光景を目にし、放心しているようだった。
そんな彼女に目掛けて、長槍を構えたアントワーヌが接近し――
「はあっ! 」
マルゼス目掛けて、赤色の長槍を突き出した。
「……はっ! くっ…」
放心状態から我に返ったマルゼスは、顔を横へ傾け、間一髪で長槍を躱すことができた。
ゴウッ!
「きゃあ!? 」
長槍を突いたと同時に衝撃波が生まれ、マルゼスはその衝撃波に吹き飛ばされた。
「ほう! こいつはいいな。ははは! 」
赤色の長槍の力に、上機嫌のアントワーヌ。
「ま…まだ、あたしは立っている! 」
マルゼスは吹き飛ばされた状態から立て直し、塀の上に立っていた。
(あの様子だと、まだその力に慣れていないはず……まだ勝機はある! )
マルゼスは矢筒に手を伸ばし――
「そんなものにあたしの技術は負けない! これならどうだああああ!! 」
連続で矢を放ちだした。
とてつもない連射速度に加え、マルゼスは一度に複数の同時に放っていた。
絶え間なく、数多く放たれた矢は、防ぎようのない矢の雨となって、アントワーヌに向かって飛んでいく。
「馬鹿め! さっき思い知っただろうが! 」
しかし、アントワーヌは余裕の表情をしていた。
彼女は長槍を縦に持ったまま前に突き出し、横に回転させながらマルゼスに向かって走り出す。
アントワーヌの前で、衝撃波を生み出しながら回転する長槍は、強靭な壁となり、次々と矢を弾いていく。
「そ、そんな! 」
「はあっ! 」
マルゼスの目の前に到達したアントワーヌは、長槍の石突きを彼女の腹に打ち込んだ。
「ぐぅっ……ご…めん…ね…サミール…」
マルゼスはそう呟くと、前のめりに倒れ始めた。
「よし……やった…やったぞ! これで、この戦争勝ったも同然だ! 」
アントワーヌは目の前で倒れ伏すマルゼスを見下ろしながら、歓喜の声を上げた。