百十八話 ベティとの再会
イアンが、ラノアニクスの保護者になって数日。
ラノアニクスは以前よりも、格段に人間らしくなっていた。
セアレウスに教えられ彼女も、会話ができるほど言語を理解していた。
しかし、まだ言語を覚え始めたばかりなので――
「ギャウ! 今日の朝ご飯何かな? ラノ、楽しみ! 」
と流暢に喋れるわけではなかった。
それでも、喋ることができなかった以前の頃と比べれば、その進歩は凄まじいものである。
今、この食堂にいるのはイアンとラノアニクスだけで、セアレウスとミークの姿は見えなかった。
ラノアニクスが喋れるようになってきたので、冒険者としての活動を再会し、既に出かけていた。
「クク…今日の朝のメニューは、パンと焼きパンとサラダパンです」
ラノアニクスの座る前方のテーブルに、キャドウが料理を並べる。
「グゥ…肉が良かった…」
ラノアニクスは、ガックリと肩を落とした。
落胆するラノアニクスであったが、しっかりパンには口をつけていた。
「クク…ラノアニクスさまの食べっぷりを見ていると、作った甲斐がありますね…」
キャドウが嬉しそうに、頬を吊り上げる。
その後、キャドウはラノアニクスの反対側に座るイアンに顔を向ける。
「クク…今日はどうなされるのですか? 」
「うん? 今日も薬草採取の依頼に行くつもりだ 」
キャドウの問いに、イアンが答えた。
「クク…近頃人攫いが横行しているようでございます。お気を付けください…まぁ、イアンさまなら大丈夫だと思われますが…」
「人攫いだと…やはり、いるのか…」
イアンには、人攫いが横行している気配を僅かながら感じていた。
それはラノアニクスと出会った日、攫われた子供達を救った時からである。
「……王都騎士団がいない分、治安が悪くなっているのか…」
「クク…それが一番考えられますね…」
「一番……他に何かあるのか? 」
「クク…マヌーワ信仰教団…ですか。このような団体が手を引いている可能性等も考えられるでしょう」
「ふん、教団はもう潰れた。その可能性は無いな」
イアンは、キャドウの言った可能性を否定した。
「クク……だと、言いのですが…」
キャドウはそう言うと、厨房の方へ向かった。
「……さて、そろそろ行くとするか」
「ギャウ! お出かけ! 」
ラノアニクスがパンを食べ終わった後、二人は宿屋を後にした。
冒険者ギルドに着くと、イアンはいつもの掲示板の元へ向かう。
イアンの後ろをラノアニクスがついていく。
無闇に暴れる心配が無くなったので、もうラノアニクスを背負う必要は無いのだ。
「おはようございます、イアンさま」
イアンが掲示板を眺めていると、ギルドの役員に話しかけられた。
「なんだ? 」
「本日、あなたを指名する依頼があります。依頼者のいる部屋まで案内させて頂きます」
「ほう…珍しい」
イアンとラノアニクスは、役員に案内され、待合室の一室に前に来た。
「この部屋の中におられます。では…」
役員はそう言うと、この場から立ち去っていった。
「さて、どんな奴がオレを指名したかな」
イアンはそう呟き、部屋のドアを開ける。
「イ――」
パタン…
そして、すぐにドアを閉じた。
中にいた人物を人目見た瞬間、即座にドアを閉じるべきだとイアンは判断したのだ。
「グゥ? 」
ラノアニクスが小首を傾げる。
「……帰るぞ、ラノアニクス」
「中に入らない。いいのか? 」
「ああ」
「そうか」
イアンはラノアニクスを連れその場から――
「ちょっと!! 帰るのはやめてよ!! 」
去ろうとしたが、部屋の中にいた人物がドアを開け、イアンを呼び止めた。
「……」
イアンがあからさまに嫌そうな顔をする。
「ちょっとだけ! ちょっとだけでいいからお喋りしましょ! ね! 」
イアンはその人物に強引に引っ張られていく。
その人物の名はベティ。
かつて、イアンを護衛として依頼した学者であった。
渋々、イアンは部屋の中の椅子に腰掛けた。
その隣にラノアニクスも座る。
「よいしょ! 」
ベティは、イアン達とは机を隔てた向かい側の椅子に座り――
「さて……会いたかったよーっ! イアンくーんっ! 」
と、腕を平げながらイアンに飛びかかった。
「……!? サラ――ぐっ! 」
咄嗟に、サラファイアを使って回避しようとするが間に合わず、イアンはベティに抱きつかれてしまった。
「……! ……! 」
顔を胸に押し付けられ、息のできないイアンはじたばたと藻掻く。
「ああ~ぐへへ~」
そんなイアンに構わず、ベティはだらしくにやけていた。
「……」
ラノアニクスは目を見開いて、ベティに抱きしめられるイアンを見上げていた。
あまりにも衝撃的な光景に、ただ呆然と見上げることしかできないのである。
「ぐぅ…もう会いたくなかった」
ようやく、開放されたイアン。
少し、疲れたような表情をしていた。
「ふぅ…イアンくんを抱きしめたことだし、本題に移ろうかな」
「初めからそうしてくれ…」
イアンの口から呆れたような声が出た。
「えっとね…またイアンくんに護衛の依頼を頼みたいんだ」
「ふむ……今回はどこへ行くんだ? 」
「ネアッタン……ていう島に行きたいんだ」
「島か。そこには何があるんだ? 」
「さあ? 」
ベティが首を傾げながら言った。
それと同時に、広げた手のひらを上に向け、大げさに振舞う。
「さあって……何をしに行くのだ? もう一回、それをやったら帰るからな」
その振る舞いにイライラしながら、イアンがベティに訊ねる。
「ごめん、ごめん! 実はその島に、古代文明の遺跡があるらしくて、それを調査しに行きたいのよ」
「最初から、そう言えばいいだろう…」
「いや…まだ遺跡があるか分からないの。あるかもしれないってだけ」
「長くなりそうだな……さて、どうしようか…」
ここで、イアンはこの依頼を受けるか考え出した。
断る理由は無いが、受けたい理由も無かった。
「……ふむ」
ふと、イアンはラノアニクスに視線を向けた。
今、彼女の故郷を探している最中なのである。
できれば、そっちを優先したいと思っていたが――
(そういえば、こいつの口から故郷のことを聞いていないな)
と思い、ラノアニクスに聞くことにした。
「そういえば、おまえの故郷ってどんな所だ? 」
「故郷? どういう意味だ? 」
首を傾げるラノアニクス。
まだ、故郷という言葉の意味を知らなかったようだ。
「生まれ育った所、おまえがここに来る前に住んでいた場所だ」
「グゥ……木…いっぱい生えてた。それしか分からない…」
ラノアニクスが頭を捻りながら答えた。
「森か? 」
「森…違う。うーん…もっと木がいっぱい…あとビチャビチャ……」
「森より木が多くてビチャビチャ? なんだ? 」
「ビチャビチャ……水気……あ! もしかしたら、密林のことを言ってるんじゃない? 」
イアンの疑問にベティが答えた。
「密林…ほう、その可能性が高いな……よし 」
イアンは依頼を受けるか否かを心の中で決定した。
「依頼は受け――」
「るよね? 」
ベティがイアンの口を挟む。
「ネアッタン島には、密林があるよ」
そして、口を挟んだ理由がそれであった。
「……」
再び、イアンが嫌そうな顔をする。
ラノアニクスの故郷探しを口実に、ベティの依頼を断るつもりだった。
「そこがこの子の故郷か分からないけど、故郷と同じ環境に行けば何かを思い出すかもね」
「はぁ……仕方ない、受けてやるわ! 」
「わーい! ありがとーっ! 」
ヤケ気味に言うイアンに対し、ベティはとても嬉しそうだった。
(グフフ…なんかよく分かんないけど、イアンくんゲットできたわ。ありがとうラノアニクスちゃん!)
心の中で、ベティはそう思っていた。
「で、いつ出発する? 」
「準備も必要だろうし、二日後でいかが? 」
「問題無い。二日後、ノールドの港に行けばいいか? 」
「いい……ちょっと待って…」
ベティは口を止めると、ラノアニクスに見つめた。
「ギュウ…」
いきなり、ベティに見つめられ、ラノアニクスは困惑する。
「ねぇ、イアンくん。この子、ラノアニクスちゃんは女の子だよね? 」
「……そうだが」
ベティの問いの意図が分からないイアン。
「イアンくんは、女の子だよね? 」
「そ……違う、オレは男だ」
意味の分からない質問をするベティ。
たった今、イアンにした質問は、本当に意味が無かった。
イアンをからかっただけである。
「イアンくん…女の子だよ? ラノアニクスちゃんが来ている服は、女の子に着せる服じゃないわ」
今、ラノアニクスが着ている服は、布一枚で作られた簡素な服である。
これでも新調したものだが、以前彼女が着ていた服と大差なかった。
「ふむ……確かに、今のこいつの服はすぐに破れてしまうな。もっと頑丈な服がいいか」
「違う。そういうことじゃない。そういうことじゃないよ、イアンくん…」
イアンの言うことも正しいことではあるが、ベティが言いたいのは、そういうことではなかった。
「華やかさが足りないぃ……これは重要ぅ……」
ベティが噛み締めるように言った。
「はぁ? そんなもんいらんだろう、なぁ? 」
「動きやすい奴がいい…」
イアンに問われると、ラノアニクスはそう返した。
「はぁ…あなた達……分かった。私が服を見繕ってあげる。当日、このギルドに集合しましょう」
「……別に構わん」
とりあえず、頷くイアン。
「ところで…イアンくんには、セアレウスちゃんっていうプリティーな妹さんがいるみたいね」
「唐突だな。あと言い方が気持ち悪い…」
最大限に嫌悪を表情で表現するイアン。
「その子の服装も心配ね。セアレウスちゃんも連れてきてね」
「元より、同行させるつもりだが……」
「うおおおお! やったああああ! 」
(ふむ…セアレウスを連れて行くのはやめようか…)
ベティの喜びように、イアンはそう思わざるを得なかった。
その後、ベティとは別れ、イアンとラノアニクスは林の中にいた。
薬草採取の依頼を受けたのである。
「クンクン……イアン、こっちにある」
「ふむ……四束くらい摘んでくれ」
「わかった」
ラノアニクスは、イアンの手伝いをしていた。
彼女は優れた嗅覚を持っており、匂いを嗅ぎ分けて薬草を探すことができる。
そのおかげで――
「……もう終わってしまった…」
始めてから数分で依頼を終わらせてしまった。
「クンクン…クンクン…」
終わったというのに、ラノアニクスはまだ匂いを探っていた。
「もういいぞ、ラノアニクス。あまり取りすぎるのは良くない」
「違う…あの草、探してる」
「あの草? 」
イアンは何のことか分からず、頭を傾げた。
「グゥ……イアン、谷に落ちた時、草の匂いした。変わった匂いしてたから、覚えてる」
「谷に……ああ、ナール草のことか…」
ラノアニクスが探しているものは、ナール草であった。
(摘んだのだが、無くしてしまったな。勿体無いことをした…)
イアンは谷に落下している間に、摘んだナール草を失っていた。
「イアン、その草、摘んでた? 」
「……ああ」
「グゥ…ラノ、悪いことした」
ラノアニクスが申し訳なさそうにする。
(根は良いやつ……いや、純粋なのだな…)
イアンはラノアニクスの元に行き――
「気にするな。おまえは悪くない」
彼女の頭を撫でた。
「ギュ…」
「……よし、今日はもう帰るか」
イアンはそう言うと、摘んだ薬草をまとめだした。
「……」
ラノアニクスは、イアンに撫でられた頭に手を当て、じっとイアンを見つめていた。
――昼。
イアンとラノアニクスはカジアルを目指して街道を歩いていた。
すると、前方に幌馬車が現れ――
イアン達とすれ違った。
「……ラノアニクス」
「どうした、イアン? 」
名前を呼ばれ、イアンに寄るラノアニクス。
「今の馬車から、どんな匂いがした? 」
「……沢山の人の匂い」
「はっ! 昼間から堂々としているな」
イアンはそう呟くと踵を返し、幌馬車の向かった先に体を向けた。
「ラノアニクス……先に宿屋に戻れ。寄り道するのではないぞ」
「え? イアンは…? 」
「少し、用事ができた。夕方までには帰る」
ラノアニクスにそう伝えると、イアンは真っ直ぐ走り出した。
「……分かった」
しばらく、イアンの背中を見つめた後、ラノアニクスはカジアルに向かって歩き出した。
――夕方。
ラノアニクスは一人、宿屋の食堂にいた。
待てど待てども、イアンが帰ってくることはなかった。
ガチャ!
その時、宿屋の扉が開かれ――
「……! 」
その音を聞いたラノアニクスは扉の方に向かった。
しかし――
「…? どうしたのラノちゃん? 」
「おお! ついに俺たちも出迎えてくれるようになったか」
帰ってきたのは、セアレウスとミークで、そこにイアンの姿は無かった。
「ギャウ……イアン、帰ってこない……」
ラノアニクスは、ガックリと肩を落とした。
「……? 兄さんと一緒じゃないの? 」
セアレウスがラノアニクスの前に立ち、俯いたラノアニクスの顔を覗き込むように訊ねた。
「グゥ……実は…」
ラノアニクスは、ここまでに至った経緯を話しだした。
「……だから、ラノ、先に帰った」
「はぁ…兄さん、一人で行くなんて…ラノちゃん保護者なのに……」
「でも、流石イアンさまだぜ。単身で子供達を救いにいくなんざ! 」
ラノアニクスの話を聞き、セアレウスは呆れ、ミークはイアンを褒めたたえた。
「褒めることではありません。まったく、危険な目に遭っていたら、どうするつもりだったのでしょうか! 」
セアレウスは、イアンがラノアニクスを一人にしたことを怒っていた。
「危険…イアン、危険なのか! 」
しかし、ラノアニクスはイアンが危険だと解釈し――
バン!
扉を蹴飛ばし、宿屋を飛び出してしまった。
「ラノちゃん!? 待って! 」
慌ててセアレウスがラノアニクスを追うも、彼女の姿を見つけることは出来なかった。
ふと、地面を見ると、少し凹んだ部分があり――
「…まさか、建物の上を……これでは…! 」
セアレウスが悔しげに呟く。
ラノアニクスは、その脚力で建物の上部に上がり、屋根の上を移動しているのだ。
いくら足の速いセアレウスでも、屋根の上を移動されては、姿を捉えることができず、追いつけるはずがなかった。
「セアレウスさまーっ! 」
ミークがセアレウスに追いつく。
「はぁ…はぁ…ラノアニクスちゃんは…? 」
「見失いました……恐らく、町の外へ行ったのでしょう…」
「な、なんですって!? それじゃあ、探せすのは大変ですよ!? 」
「ええ。ですが、探さないわけには行きません! とりあえず、兄さんがよく行く東の街道へ行きましょう! 」
「わ、わかりました! 」
セアレウスとミークは、東に向かって走り出した。
やがて夜になり、イアンがキャドウの宿屋に戻ることはなかった。
3月26日 誤字修正
「密林…ほう、そのその可能性が高いな……よし 」 → 「密林…ほう、その可能性が高いな……よし 」