百十四話 憎い子に美味しいものを食わせろ
オルムガ丘の東に広がる森林地帯。
その付近に大きな谷があり、東にある海まで続いている。
谷底には緩やかに流れる川があり、その両側は大小の石が転がる川辺となっている。
今は夕方であるため、夕日に照らされ、橙色に輝いていた。
「……」
川辺に立ち、断崖絶壁を見上げる少年がそこにいた。
彼の体には鎖が巻かれており――
「ギャア! ギャア! 」
ジタバタと暴れる少女を縛り付けていた。
鎖の先端には、両側に刃を持つ斧が括りつけられている。
少女はイアンと背中合わせに縛り付けられており、腕も巻き込んでいるため、イアンに手出しができないようになっていた。
否、手出しが出来ないはずであり、これは少年の思い込みであった。
なぜなら、川辺で呆然としている彼を、自分共々この谷に突き落としたのは、彼女のせいだからだ。
「……どうしたものか……こんなはずでは、無かったのだがな…」
一人、その少年であるイアンは呟いた。
そして、今に至るまでの過去を振り返る。
――数時間前。
イアンは伐採斧で、倒木を切断する。
切断する場所は、少女を下敷きにしている部分の両側だ。
イアンは少女に覆いかぶさっている部分を取り除き、彼女を助けようとしていた。
彼は少女を救うことにしたのである。
もちろん、イアンの意思で決めたことだ。
彼は、騎士団が少女を保護し、ゆくゆくは故郷へ返すのだと思っていた。
しかし、ヘザーの話く限り、そうならない可能性が高い。
「おまえも攫われた子供の一人……だったな…」
イアンは、船に乗り込んだ日のことを思い出す。
扱いは違えど、この少女も人攫いに囚われていたのだ。
ならば、この少女も故郷へ返すべきだとイアンは思ったのだ。
「はぁ…」
そう思いつつも、イアンはため息をついてしまう。
これからのことを思えば、ため息をつかずにはいられなかった。
少女を故郷へ返すまでに、様々な障害が存在するのだ。
まず、会話が出来ない。
生まれてから教養を積んだことがないのか、少女は言葉を口にしない。
コミュニケーションが取れないのだ。
次に、イアンは少女に相当恨まれていること。
これが一番の問題であり、イアンはまず、これをなんとかしたかった。
「……飯を食わせれば、少しは良くなるだろうか…」
イアンはそう呟くと、少女を倒木から引きずり出し、上体を起こさせる。
少女と背中合わせに座り、イアンは鎖斧で自分と少女を縛り上げた。
「よし」
鎖を縛り終えたイアンが立ち上がる。
イアンの背中に縛られた少女は、腕を縛られ、芋虫のようになっていた。
「……しばらくは大人しくしてくれよ」
イアンはとりあえず、食料を探すため、歩き出した。
しばらくの間、イアンは歩き続けていた。
つまり、食料が見つからないのである。
「くっ…肉…肉はないか…」
イアンは小動物を探していた。
肉を与えれば、少女は心を開いてくれるのではないかと、イアンは考えた。
しかし、小動物は見つからず――
「……魔物もいない…」
魔物すら森林で見かけることはなかった。
「……なんだ? 何かあったのか? 」
イアンに緊張が走る。
彼は過去に、このような状況で危機に陥ったことがある。
周りの生き物がいなくなる、この状況を作り出す要因は近隣に強力な何かが潜んでいる時だ。
それを経験しているため――
「……」
周りに視線を送り、イアンは周囲を警戒していた。
自分がその要因の一つを背負っていることに気づかずに。
「……む、森を抜けてしまったな」
警戒しながら進んでいるうちに、イアンは森を抜けた。
その彼の眼前には、崖が広がっていた。
「むぅ…行き止まりではないか…ん? 」
森に戻ろうと踵を返しかけたイアンの目に、何かが映った。
それは崖端に生えた一本の草であった。
「ナール草…こんな所にも生えているのか」
イアンがその草の元に行き、腰を下ろす。
この草は、ナール草と呼ばれる薬草の一種であった。
あらゆる症状に効く万能薬の材料で、生息地が未だに分かっておらず、なかなか見つからないことで有名である。
「おお…」
珍しい薬草を前に、気分が高揚するイアン。
「グ…グゥ…」
背中に背負う少女が目覚めたことに気づかないほど、彼はナール草に夢中であった。
イアンがナール草を掴んだ瞬間――
「グウウウ…ギャアアアアア! 」
少女は覚醒したと同時に、高らかに咆哮を上げた。
「おおっ!? 」
イアンは驚きながらも、ナール草を摘むことができた。
「ギャウ! 」
しかし、少女の蹴りがイアンの尻に当たり――
「お…おおおおおおお!? 」
それに押され、イアンは谷へ転落した。
イアンは頭から谷底目掛けて落下していく。
「ギャア! ギャア! 」
少女が背中で暴れる中――
「くっ…! 」
イアンは真下に向けて、両足を突き出し――
「サラファイア! 」
ボンッ!
左右の足下から、炎を噴出させた。
これにより、落下の勢いを弱めることができた。
ダァン!
「ぐおおおおお! 」
完全には勢いを殺せないため、少量の落下の衝撃をその身に受ける。
イアンは耐えるしかなく、しばらく両膝に手を当て、じっと動けないでいた。
これがイアンが谷底に落ちるまでの出来事である。
――現在。
イアンは、落下の衝撃から立ち直り、崖の上を見上げていた。
どう考えても、元の場所に戻る術は見つからなかった。
グゥ~…
イアンの腹の虫が、唸り声を上げる。
「腹減った…」
イアンは、体を脱力させる。
ちなみに、この間にも少女はギャアギャアと騒いでいる。
イアンは、少女の声を無視していた。
「ギャア! ガルア! 」
「いたたたた…」
しかし、少女の足が膝裏に当たるのは無視できなかった。
あまり、力が入っていないのが幸いである。
「ふん! 」
これの対処方法として、イアンは前に屈むことにした。
これで、少女の足はイアンの体に届くことはない。
「これで良し! さて、食い物を用意せねば」
ストレスの一つを解消したイアンは満足げに頷いた。
そして、腹を満たすため、食べれる物を探すイアンの目に川が映った。
川、すなわち魚という単純な思考の元――
「魚を捕ろう」
と、イアンは決めたのである。
早速、イアンは川に入る。
川は浅く、イアンの膝下までの深さであった。
「……」
イアンは、魚が近寄るよう、静かに佇む。
「ギャア! ギャア! 」
「……チッ…」
騒ぎ続ける小娘にイラっとくるが、なんとか平常心を保つ。
すると、上流から三匹の魚が自分の方に来るのが見えた。
「……」
イアンは右手を上げ、来る時に備える。
魚を手で払って、捕ろうというのだ。
そして、その時は訪れた。
一匹目――
パシャ!
二匹目――
パシャ!
三匹目――
バシャア!
結果――
一匹も魚を捕ることはできなかった。
まるで、ダメである。
イアンは、魚を捕るのが下手くそであった。
「ぐぬぅ…」
あまりの結果に、イアンは悔しげな表情を浮かべる。
「ギャウ…? 」
少女は騒ぐのをやめ、イアンの行動を訝しむ。
「おのれ…」
イアンの闘志に火が灯り、近づく魚目掛けて手当たり次第に腕を振るった。
――夜。
イアンは焚き火の前で、腰を下ろしていた。
谷底には、森林から落ちてきた枯れ枝があり、それを利用して火を起こした。
その焚き火の炎で炙られている魚は一匹。
結局、捕れた魚は一匹だけであった。
「……」
少女は先程から大人しくしている。
そのことをイアンは気にしていたが、腹を満たすことを優先する。
「そろそろか…」
イアンは、炙っていた魚を取る。
いい具合に焼け、香ばしい匂いが辺りに広がる。
グゥ~…
イアンが魚に口をつけようとした時、後方から腹の虫が鳴る音が聞こえた。
「こいつ…腹が減ったから、静かになったのか」
イアンの言葉を裏付けるように、少女はぐったりとしていた。
「……むぅ…」
イアンは思い出した。
自分が彼女のために食料を探していたことを。
そして、悩む。
自分も腹を空かしているからだ。
「……」
しばらく考えた後、イアンは――
「……ギャウ? 」
魚を背中に回し、少女に魚を差し出した。
イアンは、今日一日空腹を我慢すればいい、そう考え、少女との距離を縮めることを優先したのであった。
「……ギャウ…」
イアンの意図が分からず、少女は困惑する。
少女は、散々自分を痛めつけた相手がいきなり優しくなったと思っていた。
実際は、少女からイアンに襲いかかったのであるが、そこの所は少女の頭の中には無い。
自分に非があると、一欠片も思っていないのだ。
(早く食ってくれ。そうすれば諦めがつくというのに……)
少女の困惑が、イアンを苦しめる。
空腹を我慢することは、簡単なことではなのだ。
「……ギャウ! 」
しばらくイアンを苦しめた後、ようやく少女は魚を口にした。
最初は恐る恐るといった感じであったが、一口食べると、その後は早かった。
「……」
魚を刺していた枝を手元に戻すと、そこには何もなかった。
「……はぁ……はぁ…」
少女に対して、何かを言おうとしたが、口を開けばため息しか出せなかった。
その夜、就寝したイアンは泉の前に立っていた。
最近よく見る、見慣れた光景であるが――
「はぁ…」
空腹で弱っている今のイアンにとって、きついものであった。
「兄さん……す、すみません…」
「……気にするな……オレもそっちに連絡をしたかったところだ…」
後方からセアレウスが現れた。
ここは、イアンが度々訪れる謎の場所である。
セアレウスと共有でき、遠く離れてもここで話をすることができる。
「オレのことは心配しなくていい……おまえ達は普段通り、依頼を受けてくれ」
「は、はぁ…分かりました…」
その顔を見て、心配せずにはいられないが、セアレウスはとりあえず頷いた。
「……」
「……」
「…もう用が無いなら、帰してくれ。おまえが出ないとオレが出れない…」
「あっ…すみま――」
セアレウスがパッと消える。
「早っ…」
イアンの反応は雑であった。
朝になり、空腹が続くイアンは魚を捕るため、川の中に入った。
少女は騒ぐことなく、静かにしていた。
「……うん? 」
イアンは違和感を感じ、屈んでいた体勢から、上体を起こす。
心なしか、少女が軽くなったような気がした。
「……むっ! いかん、いかん」
そのことに疑問を感じたが、魚が近づいてきたため、イアンの頭の中からその疑問は消え去った。
しばらく、川の魚と格闘していたイアンは、魚を三匹捕ることができた。
「うむ! 」
昨日よりもいい結果を出し、イアンは満足気に頷く。
そして、川辺に戻り、魚を焼く。
「うぅむ…」
魚が焼きあがると、再びイアンの葛藤が始まる。
魚の数は三匹、これをどう分けるかで悩んでいた。
しかし、悩む時間は昨日よりも短くなっていた。
「ほれ」
「ギャウ…」
二匹の魚を少女に差し出した。
やはり、少女を優先させたのである。
その理由は――
(昨日よりも上手くなった。次はもっと多く捕れるだろう)
と単純なもので、イアンが気分を良くしたゆえの考えであった。
昨日と同じように、一匹だけしか捕れなかったら、彼は一人で食していたであろう。
「ギャウ! ギャウ! 」
少女も単純なもので、喜んで魚を口にしていた。
しばらくの間、川の魚を食すだけの日々が続く。
そんな日が続いて、三日後。
ようやくイアンは、谷からの脱出を決めた。
その方法とは、セアレウスに頼る方法である。
彼女には水流を操る力があり、その力で谷底から引き上げてもらおうと考えた。
既にセアレウスに連絡をしており、あとは待つだけである。
「ここで食う魚も今日で最後か…」
焼き魚を食しながら、しみじみとイアンは呟いた。
彼の目の前には、大量の焼き魚を刺した枝が立てかけられていた。
イアンの魚捕りは上達していた。
「ふぅ…あとは全部おまえにやるよ」
「ギャーイ! 」
少女は喜びの声を上げ、差し出された魚を口にしていく。
度重なる餌付けにより、少女との距離もだいぶ縮まっていた。
しかし、拘束はまだ解かない。
少し、丸くなったからといって、イアンは拘束を解こうとは思っていなかった。
少女の故郷に辿り着くまで、拘束は解かないとイアンは決めていた。
「可哀想だが、仕方あるまい」
拘束していなければ、彼女が危険な人物だと判断され、騎士団に連行される可能性があるからだ。
イアンが連行される方が先だと思われるが、彼は考えないことにする。
「ふっ…慌てて食わんくてもまだ――」
「…! ギャウ! ギャウ! 」
その時、急に少女が叫び出した。
「な、なんだ? 」
急変した少女の態度に、困惑するイアン。
自分に対して吠えているのだと思ったが、声色から他のものに対して吠えているのだと気づいた。
「ガァウ! グルルルア! 」
「……ようやく出られるというのに…」
少女の声が鋭くなったことにより、イアンは戦斧を右手に持つ。
彼女の喧騒とは裏腹に、森林は沈黙し、少女の声を除けば谷底は静寂に包まれていた。
「……」
イアンは周りを見回し、周囲を警戒する。
周囲は何ら変わりは無い。
異変を感じているは少女であり、彼女の声の変化に注意を向けた。
「ギャウ! ギャ―………………」
少女は急に口を閉じた。
イアンも物音を立てぬよう、身動き一つしない。
彼女の沈黙に、静かにすることを強要された気がしたのだ。
しばらく、静寂は続く。
「……」
「……」
二人は、嵐が通り過ぎるのを待つかのように、沈黙を続けた。
「…………ギャウ、ギャウギャウギャウ! ギャアアアア! 」
「……!? 」
再び騒ぎ出した少女の叫びを聞き、イアンの全身から汗が噴き出す。
イアンは咄嗟に、前方に飛び出した。
ドォン!
その瞬間、イアンのいた場所が爆発したかのように、弾けとんだ。
「ぐっ…! 」
イアンは体を捻り、爆発のあった方向に体を向け、飛来する石から顔を戦斧で守る。
飛来する石がなくなり、戦斧を下ろすと、そこには――
「ググ…ググ…」
奇妙な姿の生き物であった。
イアンはその生き物が何であるか判断できないが――
「……こいつは…獣人……なのか…? 」
辛うじて、二本足で直立するその生き物が獣人であると判断できた。
三月五日――誤字修正。
その力で谷底から引き上げてもろうと考えた。 → その力で谷底から引き上げてもらおうと考えた。




