百十二話 樵の知
少女は訳が分からず、呆然と視界に映る人物を見つめる。
その人物は、自分が殺したはずの人間であり、彼の姿が目に映るのはありえないことだった。
実際、少女がイアンだと思っていた人物はセアレウスであり、イアンを倒した訳ではない。
ただ一人、少女だけがイアンが生きていることに疑問を持っていた。
「ガゥゥゥ… 」
真実に気づかず、少女は困惑する。
しかし、それも数秒の間だけであった。
ダァン!
「……ガアッ! ガアアアアアアア! 」
少女は、太い尻尾を地面に叩きつけた後、高らかに咆哮を上げた。
倒したはずのイアンが生きている理由は分からない。
もはや少女にとって、理由など分からなくても良かった。
死んでいなくても生き返ったとしても、もう一度殺してしまえばいい。
むしろ、何度でも殺してやろうと思っていた。
「はぁ…まさかの再戦とはな…」
イアンがため息をつきながら、伐採斧をホルダーに収める。
今回、予備の戦斧と伐採斧を入れ替えているため、二番目のホルダーに伐採斧が収められた。
次に、左右のそれぞれの手にショートホークを持つ。
攻撃する速度の早いショートホークで、少女の爪に対抗しようというのだ。
「…まだ近くにいたみたいですね」
倒木の下から、セアレウスの声が微かに聞こえた。
「セアレウス……オレは大丈夫だ。おまえはゆっくりしておけ」
「……はい…」
セアレウスは、外に出した水流を再び、自分の元に戻す。
彼女はイアンを援護しようとしていたが、無理していることをイアンに見抜かれのだ。
セアレウスはイアンの言葉に従い、それっきり言葉を発することはなかった。
「ガアアア! 」
少女がイアン目掛けて駆け出した。
上半身を前に倒した前傾姿勢で、イアンの方に向かう。
そして、イアンの数歩手前で跳躍、空中からその鋭い爪をイアンに向けて、飛びかかる。
イアンは少女の下をくぐり抜けようと、前方に向かって走り出した。
「ギャオ!」
少女は下を通るイアンに向けて、尻尾を振り上げた。
イアンの顔に少女の尻尾が迫るが――
ガッ!
イアンは左右のショートホークを交差させて、少女の尻尾を防いだ。
「捕まえた! 」
「ギャウ!? 」
イアンは、ショートホークを交差した状態で腕を横に閉じる。
すると、ショートホークで少女の尻尾を挟むことができた。
そのまま少女を投げ飛ばそうとしたのだが――
「ぐっ…ううっ! 」
イアンの両腕が急激に下ろされた。
思ったよりも少女の体が重かったのだ。
「グゥ…」
少女は仰向けの状態で、地面に下ろされる。
イアンは尻尾を挟むのをやめ、少女から離れる。
「……」
少女から離れた位置に到達したイアンは、彼女の体を観察する。
身長は低く、体は従来の人間の子供のように細い。
外見的には、持ち上げられないほど重いという要素が見当たらなかった。
「……蜥蜴獣人特有の何か…ということか? 」
外見に見合わない重量を持つ理由が分からず、イアンは首を傾げる。
「……ギギギ…ギャア! ギャア! 」
倒れていた少女は起き上がると、怒声を上げながら、足元を何度も蹴りつけていた。
地面に仰向けの状態で倒されたことが、彼女のプライドを大きく傷つけたようだった。
「グルルゥ…」
少女はこれ以上にないほど歯をむき出し、血走った目をイアンに向ける。
「…失敗だ。決定打を入れるつもりだったのだが、こうもうまくいかないとはな……」
イアンは少女の激昂ぶりに、額に汗を滲ませる。
怒りをむき出しにする少女の姿を見て、熾烈な戦いになることを予感したのだ。
激昂した少女に睨まれ、イアンは動けないでいた。
今にも、その獰猛な目から逃れるため、動き出した衝動に駆られるが、グッとそれを堪える。
先に動いてしまえば、動きを予測され、自分が不利になってしまうと判断したのだ。
「グゥゥ…ガアアア! 」
そして、待ちに待った少女の攻撃が始まる。
少女は助走もせず、イアン目掛けて跳躍した。
イアンは少女の攻撃を躱すため、横へ走る。
走りながら見上げると、少女は高く跳んでおり、飛びかかるというよりは、ただ高く跳んだように見えた。
その瞬間――
ドォン!
「なっ…!? 」
イアンが驚愕の表情を浮かべる。
轟音と共に、自分の元いた場所から土煙が舞い上がったのだ。
「ガアアアアア!! 」
そして、土煙の中から少女が飛び出し、イアン目掛けて鋭い爪を振り下ろしてくる。
「くっ…」
イアンは体を捻って、少女の爪を躱す。
今の少女の力が並外れているのが明らかであるため、イアンは攻撃を受け止めるのは愚策であると判断した。
「ギャア! ギャア! ギャア! 」
少女は左右の腕を交互に動かし、イアンに爪を振るい続ける。
激昂している彼女の爪は普段より大ぶりになっているため、躱すのは難しいことではない。
しかし、少女の膂力の驚異と迫力により、思わず身が竦ませてしまうのだ。
「ちっ…リュリュスパーク! 」
パリッ!
イアンは状況を打開するため、ショートホークを持ったまま、右手を前に突き出し、リュリュの力である雷撃を放つ。
「グッ…! 」
雷撃に驚き、少女が動きを止める。
その僅かな隙を見逃さずイアンは、右足を上げ、その足下を少女の腹に当てると――
「サラファイア! 」
右の足下から炎を噴射させる。
イアンは炎が噴射した逆の方へ飛び――
「グゥゥゥゥゥゥ!? 」
少女は炎に吹き飛ばされた。
少女の猛攻から逃れたイアンは、少女が落下した場所へ目を向ける。
そこ一帯の地面は陥没していた。
少女の体が落ちただけでこうなったとは信じ難く、何かしらの力が働いたのだとイアンは考えた。
そして、倒木に目を向ける。
「くっ…場所を変えるか」
少女が倒木に向けて落下攻撃を行えば、下にいるセアレウスが潰されてしまう。
それを危惧し、イアンは木々の中へ向かう。
「グウゥ…ガアアアア!! 」
少女は空中で身を翻し、体勢を整えて地面に着地すると、イアンを追い始めた。
「ギャオオオオオオ!! 」
「ちゃんとついてきたな」
後方から聞こえる少女の咆哮が聞こえ、イアンは少女に追いかけられていることを確認する。
少女の進みは速く、徐々にイアンとの距離を縮めてゆく。
「ほう…」
イアンが少しだけ、驚いた。
今、イアンと少女が走っている環境は悪い。
なぜなら、進行方向に木々が立ち並び、地面にはその根がむき出しになっており、障害物が多く存在するのだ。
木こりだったイアンは、このような環境に慣れているため、普段と同じ速度で走ることが容易である。
そのイアンよりも少女は、速く走っていることになるのだ。
ちなみに、足の速いセアレウスでもこの環境下であるならば、イアンに追いつくことはできない。
「ガアアア!! 」
ついに少女は、イアンの姿を視界に捉えることができた。
「……ふっ! 」
それを見越してか、イアンは少女目掛けて、左手に持ったショートホークを投擲した。
ショートホークが横に回転しながら、少女の方向に飛んでいく。
「ギャウ! ガア! 」
少女は飛んできたショートホークを掴み、イアンに投げ返した。
「……!? やるな…」
ガッ!
イアンは振り返り、投げ返されたショートホークを右手のショートホークで弾く。
イアンは走るのをやめ、体を少女に向け――
「ここら辺でいいだろう」
と言いながら、弾いたショートホークを左手で掴かむ。
「ガアアアア!! 」
少女が走る速度を緩ませず、イアンに迫っていく。
その勢いを受け止める術はイアンには無く――
「おっと…」
イアンは横に跳んで、少女の突進を躱した。
バキッ! バキバキバキ…
イアンのいた場所の後方には木が生えており、少女の拳を受け、木は少女の反対方向に倒れた。
「……ふむ……うむ」
その光景をイアンはじっと見つめ、何かを思いついたのかのように頷いた。
次に周りを見回し、一通り木々を目に映していき――
「……あった! よし! 」
と大きく頷いた後、目的の場所へ向かった。
その時、イアンは二丁のショートホークをしまい、伐採斧を右手に持った。
「グゥゥ…ギャアア!! 」
少女は振り返り、イアンの姿を探す。
彼女がイアンの姿を見つけた時、イアンは少女の方に体を向けた。
「ガアアア!! 」
少女はイアン目掛けて飛びかかり、右手を勢いよく放つが――
「ふっ…」
寸前でイアンに躱される。
バキバキバキバキ…
少女の右手は、イアンの後方にあった木の幹を砕く。
木が音を立てて倒れ始めるが、それに構わず、少女はイアンの姿を探す。
カッ!
「ギャウ!? 」
木を叩きつける音が森林に響き、その音が聞こえた方を少女が見ると――
「……」
イアンが少女の方に、体を向けて立っていた。
「ガアアアア!! 」
再び、少女はイアン目掛けて飛びかかる。
またイアンに躱され、その後方の木をなぎ倒す。
これを何度も繰り返した。
「ギギギ…」
攻撃を何度も躱され、少女の血はさらに頭に上っていく。
「……」
一方、イアンは表情を変えることなく、淡々と少女の攻撃を躱し続けていた。
イアンは少女に反撃することはないが――
カッ!
時々、伐採斧で後方の木を切りつけるだけであった。
しかし、同じことを繰り返すこの単調な攻防も終焉を迎える。
「はぁ……なんとか間に合った」
イアンはそう呟くと――
「ガアアア!! 」
バキッ!
少女の攻撃を屈んで回避した。
「ギャ――」
「リュリュスパーク! 」
その今までと違った行動に、少女は驚愕するが、彼女が驚きの声を出し切る前に、イアンの雷撃が放たれた。
雷撃は少女の目の前で、強烈に輝き、彼女の目を眩ませる。
ひるんだ少女は思わず、後すざりしてしまう。
パキパキパキ…
「ギュゥゥ……ギャウ? 」
視界が暗くなるのを感じた少女が見上げる。
木の幹が自分の方へ迫っている光景がそこにあった。
「ギャ…ギャウ! ガ……」
急いで倒れる木を回避しようとするが、少女の周りは倒木に埋め尽くされ、自分が逃れる場所がなく――
「ギャアアアアアアア!! 」
ドオオオン!
少女は押しつぶされる恐怖に、思わず尻餅をついてしまい、叫び声を上げながら倒木の下敷きになった。
「木を一撃でなぎ倒すのは見事だ。だが、倒れる方向を予測せずして、木こりは務まらんぞ…」
倒木の上に立つイアンが、少女に向けて呟いた。
イアンは、ただ少女の攻撃を避けていただけではなかった。
木こりは伐倒を行う際、伐倒方向を考えなければ、自分の方向に木が倒れてしまう。
多くの場合は、それで命を落としてしまうため、倒れる方向に細心の注意を払う。
そのため、木こりは自分の方に倒れないよう、あらかじめ伐倒位置を定める術を持つ。
それは受け口という切り込みを入れることであり、この切り込みがある方向に木は倒れる。
時々、イアンが伐採斧を木に打ち付けていたのは、この切り込みを入れるためである。
イアンは、彼女の逃げ場をなくさせるため、伐倒を行う順番と方向を決めて、少女に木をなぎ倒させていた。
結果、イアンの思惑通り、少女は逃げ場を失い、倒木に押しつぶされたのである。
「ギュ…ギュゥゥゥゥ! 」
しかし、少女は生きていた。
仰向けの状態で、少女の腹のあたりに倒木があり、彼女は身動きが取れなくなっていた。
これもイアンの思惑の一つである。
最後の木は特殊で、伐倒の準備を行うのに一番時間が掛かった。
その理由はこの木が、弾力性の高い木であるからだ。
弾力性の高い木は頑丈で、思った方向に倒れない不安があった。
そのため、受け口を深くするために、最後の木だけ何度も伐採斧を打ち付けていたのである。
その苦労の甲斐があり、木が衝撃を緩和させ、少女は死亡する程の致命傷を負うことはなく――
「グゥゥ…ギャア! ギャア! 」
少女が殴りつけてもビクともしなかった。
「ふぅ……なんとかなった…」
イアンは倒木に腰を下ろし、大きく息を吐いた。