百七話 焦眉の急
イアンは見上げたまま動けないでいた。
自分の頭上にいる衝撃的な光景に釘付けになっているからだ。
マストに少女が張りついており、船長の首を咥えながらイアンを見つめている。
船長の首から血が滴り落ち、ピクリとも動かないことから、死亡していることがわかった。
船長の死亡を確認した後、改めて少女に目を向ける。
長い髪は緑色で、整えていなのかボサボサである。
身長はロロットよりも小さく見え、彼女よりも年下であると予想できる。
身につけている衣類は、布一枚で作られたような服を着ていた。
服の腰のあたりは筒状になっており、そこから少女の足とトカゲのような尻尾が生えていた。
「獣人…か……」
体から尻尾が生えていることに気づき、少女が獣人の一種であるとイアンは判断した。
ゴキッ!
イアンは、骨を砕くような音を耳にすると、船長の体が落下し、船員の死体の上に積み重なる。
船長の首はありえない方向に垂れ下がり、首の骨が折れていることが分かった。
イアンは再び頭上を見上げ、少女に視線を移す。
「ウゥゥゥ…」
少女は唸り声を上げてイアンを睨みつけていた。
少女の目の虹彩は黄色く、瞳孔は縦長の形をしており、ますます少女が人間とは違う種族であるのを強調している。
その目から少女が怒っていることが読み取れ、イアンはどうするべきか考える。
端的に言うと、少女と戦う理由は無い。
しかし、少女はイアンを敵視しているようで、このままだと戦闘になってしまう。
イアンは戦闘を回避する方法を考えていた。
まず、持っていた戦斧とショートホークをしまうことにする。
少女を刺激しないよう、ゆっくりと腕を動かす。
「ウゥゥ……」
少女の様子に若干の変化が生じる。
唸り声が徐々に消えていったのだ。
(なんとかなりそうだな……)
イアンが安堵し、ショートホークをしまい終わった後、戦斧を腰のホルダーに戻すため、右手を後ろへ伸ばす。
バン!
その時、風によって、船尾にある船室のドアが勢いよく閉められた。
「……!? 」
イアンはその物音に驚愕し、思わず振り返ってしまう。
「……!? ギャオ! 」
それに対し、少女は物音に驚き、イアン目掛けて飛びかかった。
「…! ええい、うまくいきそうだった! 」
ガッ!
イアンは、顔先で戦斧を構えて、伸ばされた少女の爪を防御した。
「うっ!? 」
イアンは、少女の飛びかかりの勢いに押され、後ろに下がってしまう。
「ギャウ! 」
少女は空中で体を仰向けに反らせて回転。
その勢いを乗せた蹴りをイアンの戦斧に叩き込んだ。
「ぐっ! ……くはっ! 」
少女に蹴り飛ばされ、イアンは後方の船室のドアに体を打ち付ける。
「ぐぅ…」
イアンは足に力を入れ、倒れないように体を支える。
「ガァァァ! 」
「……!? 」
顔を上げたイアンが目にしたのは、右腕を振り上げながら飛びかかってくる少女の姿であった。
イアンは横へ跳躍したため、間一髪で少女の爪から逃れることができた。
バキッ!
少女の右腕がドアを貫通した。
ドアは木材で作られてはいるが、厚さが四センチもあり、そう簡単に貫くことはできない。
「なんて力だ……ロロット以上はあるのではないか? 」
少女の膂力に驚愕するイアン。
「グゥ…ガア! 」
バキッ!
少女は右腕を無理やり引き抜こうとしたが、ドアが外れてしまう。
「ギャウ? ガア! ガア! ガア! 」
右腕に付いたドアを破壊しようと、左腕をドアに叩きつける。
ドアに使われている木材がみるみるとひしゃげていき――
「ギャオ!? ギャウ! ギャウ! 」
ようやく右腕からドアが取れ、少女は歓喜の声を上げる。
「おお…」
少女が右腕を引き抜いたことに、イアンも感嘆の声を上げてしまう。
「ギャオ! 」
すると、少女が破壊したドアを持ち上げ、イアン目掛けて投げつけた。
「うお!? 関心している場合ではなかった! 」
慌ててドアを回避するイアン。
「ギャ! ギャウ! ガアア! 」
少女はマスト目掛けて跳躍した後、マストを蹴り、イアン目掛けて飛びかかった。
「ぐぅ…!? 」
その変則的な動きに対応できす、イアンは少女にしがみつかれてしまう。
少女にしがみつかれながらも、倒れまいと踏ん張るイアン。
しかし、どう足掻こうが組み敷かれた時点で、致命傷を負うのは確実であった。
「カァブゥ! 」
「いっ!? 」
イアンにしがみついた状態で、少女は彼の右肩に噛み付き――
「ギィィィ!! 」
そのまま顔を振り上げ、イアンの右肩の肉を食いちぎった。
「ぐあああああ!! 」
右肩に走る激痛により、イアンが絶叫する。
幸いなのは少女の口が小さかったため、ちぎられた範囲が小さくて済んだことだ。
「ブッ! ガア! 」
少女は食いちぎった肉を吐き出すと、イアンの体を蹴飛ばした。
イアンは受身を取ることなく、甲板に横たわる。
立ち上がることなく、イアンは右肩を手で押さえながら蹲っている。
「ギャオオオオオオオ!! 」
少女は咆哮を上げる。
甲板の木材が軋むほど、彼女の咆哮は凄まじかった。
ひとしきり吠え終わった後、少女はこの場から離れるため、周りを見回した。
「ギャウ? 」
どこを見回しても見えるのは海であった。
「ギャ……ギャウ」
少女は甲板上を走り回る。
しばらくした後、立ち止まり、少女は呆然と立ち尽くす。
どこに行ってもどこを見ても、見える景色は同じであり、彼女が求める陸地というものはどこにも無かった。
少女は船から出られないことに気がついたのだ。
「ギャウ、ギャウギャウ…」
少女は不安になり、キョロキョロと周りを見回すも、彼女の気持ちが落ち着くことはない。
この時、少女は気づくことができなかった。
甲板から一人の少年の姿が見当たらないことを。
「はぁ…凄まじい奴だな……」
そう呟きながら、イアンは右肩に調合薬を塗りこみ、包帯を巻いて応急処置を済ませる。
彼は今、二階の船室に身を潜めていた。
少女が甲板を走り回っている間に、ここまで見つからずに来たのである。
この船室の中央にはテーブルがあり、皿に盛られた料理や飲みかけの酒が無造作に置かれていた。
船員達が騒いでいた跡である。
「参ったな……あいつら大丈夫か? 」
イアンは甲板の上で伸びている残りの船員達を思い出した。
イアンが危惧しているのは、彼らが殺されてしまうことである。
船員達がいなければこの船は動かせず、港に戻れなくなってしまうのだ。
「早々に何とかしなければ」
とイアンが立ち上がろうとした時――
カタッ!
床に転がっていた空き瓶を蹴ってしまった。
イアンは、コロコロと転がっていく空き瓶を黙って見つめる。
ギシ…
しばらく経った後、外から床の軋む音が聞こえた。
足音はゆっくりと近づいてくる。
「……! 」
イアンの表情に焦りの色が浮かぶ。
今、動ける者がいるとしたら少女以外に考えられなかった。
そして、船室は狭く、ここで戦えば少女の膂力を躱すことはできない。
少女が船室に入ってしまえば、今度こそイアンは殺されてしまうだろう。
この時、イアンは船室に逃げ込んだことを後悔した。
「……」
イアンは息を殺して、ドアの傍らの壁に寄りかかる。
彼は諦めたわけでない。
少女が船室に入った瞬間、こちらから攻撃を仕掛けようというのだ。
イアンは、ゆっくりとショートホークに手を伸ばす。
少女の足音は、壁の向こうから聞こえて来る。
すぐそこまで少女が来ているのだ。
「……」
イアンはショートホークを手に取り、ゆっくりと持ち上げる。
その間に、少女の足音は前の方に向かい――
ギ……シ……
船室のドアの前で止まった。
ギィィィィ……
扉が開かれ、そこから少女の影が船室に浮かび上がった瞬間――
「うわあああ! な、なんでお前が!? 」
船員の叫ぶ声が船内に響き渡った。
イアンが気絶させた船員の一人が起きてしまったのである。
バン!
船室のドアが勢いよく閉まる。
「くそっ! 今日は何もかもうまくいかんな! 」
イアンは、船員を殺させまいと船室から飛び出す。
「ガアアアア!! 」
船室から出たイアンの視界に、起き上がった船員に飛びかかる少女の姿が映った。
「…! サラファイア! 」
二回から身を乗り出したイアンは、両の足下から炎を噴出させ、少女目掛けて飛んでいく。
「ガア!? グゥゥゥゥ! 」
少女はイアンの接近に気づき、こちらに顔を向けたが、抵抗するまもなくイアンにしがみつかれる。
「ひぃぃ!? 」
意識を取り戻した船員が悲鳴の声を上げる。
少女の腕に掴まれる寸前であったが、イアンが突撃したことで彼が八つ裂きにされることはなかった。
サラファイアの勢いに押され、イアンは少女と共に船員の目の前を横切っていく。
バァン!
そのまま、イアンは少女を船尾の方にある船室の壁に叩きつけた。
「グゥゥ……グルルルゥ! 」
強い衝撃を受けたにも関わらず、血走った目で、自分の背後にいるイアンに手を伸ばそうとする。
「リュリュスパーク」
バリッ!
「ギャアア!! 」
イアンが雷撃を放ったことで、少女は悲鳴を上げ――
「ア…ウゥ…」
気絶した。
「……気を失ったか。はぁ……結局使ってしまったな…」
イアンは電撃を放った右手を見つめながら、そう呟いた。
少女を気絶させた後、船は進路を変え、ノールドを目指して進んでいく。
あの後、気絶していた船員を起こしたイアンは、彼らに戻るよう命令した。
命令に従わない者は一人もおらず、船員達はせっせと働いていた。
「ウ~~~~~!! 」
少女は縄でマストに括りつけられていた。
気絶した彼女をイアンが縛り上げたのである。
船員達がイアンの命令に従っている理由の一つに、彼女も含まれていた。
少女を使わなくとも彼らがイアンに歯向かうことは無いと思われるが、イアンは――
『港に戻れ。言うことを聞かなかったら、こいつの縄を外すからな』
と船員達を脅したのである。
彼らからしたら、それは殺すと言っているのと同じで、誰も逆らうことができなかった。
「ギャオ! ギャオ! 」
少女が縄を解けと言わんばかりに暴れだす。
「ひっ…! 」
少女に恐怖する船員達が身を震わせる。
「……リュリュスパーク」
バリッ!
「ギュウ! 」
少女の目の前で、イアンが雷撃を放つ。
少女は雷撃に驚き、怯えた表情でイアンを見る。
「次、暴れたら浴びさせるからな」
「ギュ、ギュゥゥゥゥ…」
イアンに右手を突き出され、それに当たるまいと少女が顔を背ける。
まるで、嫌いな食べ物を押し付けられている子供のようであった。
「……ふん」
少女が大人しくなったのを確認し、イアンは彼女の元から離れていく。
イアンが離れたことに気づくと、少女はイアンの背中を睨みつけた。
雷撃に怯える少女だが、イアンに対して闘志を無くしたわけではなかった。
「ギィィィ…」
目を血走らせ、歯をむき出しにする少女。
後に、この少女がイアンの危機を救うことになるのだが、誰も知る由もない。
ただ一つ言えることは――
「はぁ……今日は最悪な日だ…」
この日以上の出来事に、イアンが巻き込まれてしまうことであった。




