突発性涙症候群
授業中、たまに泣きそうになる。これは私が悪いわけではないのだけれども、周りの人が悪いわけでもない。強いて言うと、たぶんきっと余韻のせいなのだ。本当にとてもつまらないことなのだけれども、私は頭が悪い。頭が悪いが故に脆く傷つきやすかった。ただそれだけだったのだ。そして、生粋の馬鹿なのだ。馬鹿は冗談に気づくことができない。嘘を見抜くことができない。純粋で美しくかっこよく都合がいいだけのものなんてほんとうにまったく存在なんてしないということを知ったのがつい三か月前のことだから、私はその余韻に酔いしれ、その事実に感銘を受け、感動の涙を流しているのだ。感動の涙とは少しちがうかもしれない。だって、私はその事実に感動などしていない。無感動、むしろ、マイナス。つまり、簡単に言ってしまうとショックだったのだ。今までの十八年と数か月、私はありもしないものを崇高していたことになるし、私と年の違わない少女たちはそのことを知っていたのに、私は知らなかったのだ。そして、私は誰にもその事実を教えてもらうことさえなかった、ということになるのだ。そこまで言えば私の受けたショックがどれほどのことなのかなんて容易に検討がつくだろう。実際、そんなことは私が誰かに教えてもらうことなんかじゃなくて、自分で気づかなければいけなかったものなのだ。気付くチャンスは私が見落としているだけで、今までに何度も何度も、何十回も経験していたはずなのに、私はすべてスルーしてきたのだ。そして、そのツケが回ってきた。そしてそのツケは大きすぎた。私はこんなにもツケておいたつもりではなかったのに、私はその大きさに慄いた。震えた。私が逃げてきた罰はこれほどのものだとはつゆも知らなかったのだ。
授業中、たまに泣きそうになる。「あ、なにかでる」と、気付いた時にはすでに手遅れで。私は堂々と最前列を陣取って教授の話にうんうんと相槌を打つという模範大学生をやっているのに、気付いた時には冷たいものは鼻筋を掠めている。意識すればするほど、水滴が私の顔を横切るスピードは速くなっていくのだけれども、私はそんなことでは慌てたりなんかしない。急いで下を向いたり、せっせと鞄の中のハンカチを探したり、そんな醜いことは一通りすべてやってしまっている。私はそのままなんでもないような澄ました顔でツンと教授を見上げてやる。そうすると、教授は全然気付かないし授業は滞りなく平和に進むのだ。私はシャーペンから右手をそっと離し、机の下で左手の付け根当たりを爪で思い切りえぐるのだ。痛い痛い。肉を削ぎ落すように、できるだけ痛く。もっと痕がつくように。痕が残るように。願いをこめながら、ありったけの力をこめる。私の意志とは裏腹に体が「やめて」と叫ぶのが分かる。そうだ、それでいい。そうして私の体には傷が増える。表面の傷が増えると、私の心の傷は反対に消えていくような、そんな気がしている。それがとても気持ちがいい。机の下という、誰も気にもとめないような秘密空間で繰り広げられている、私の心と体の攻防戦に、私は毎回興奮しているのだ。リストカットをする勇気はまだないが「まだ」ないだけで、私には素質がある。私はそれもよく分かっている。私の常識と衝動のせめぎあいの結果、「まだ」、その境地に至っていないだけで、桃源郷はすぐそこなのだ。
授業中、たまに泣きそうになる。これだけ泣きそうになっていれば、「たまに」ではないのかもしれないが、私にとってその瞬間はほんの一瞬で、泣きそうになるのは決まって授業中なのだ。それは、ほとんどが突発的なものなのだけれども、そうじゃないこともある。単純に教授が私の地雷を踏んだ時だった。そんな時はいつもみたいにうんうんと首振り人形みたいに首を振ることをやめてニッコリと微笑んでやる。そう、極上のスマイルってやつを見せてやる。それは、私の表の顔で、裏の、そう、ブラックな私は教授を般若のような目で見つめているのだ。私はブラックな私と調和し、模範大学生の域を超えないようにスマイルを見せるのだ。月曜日の二限、この授業は三回目なのだけれど、この教授は恋だとか愛だとかが好きみたいで、私の地雷を踏むことが多い。まったく嫌な人だ。だけど教授に対しては好感が持てる。でも、私の左手には赤い模様が増える。私の感情と行動が混じり合ってまったく一致していない。でもそれでもよかった。私は快適で満足に授業を受けていたのだから。
「ねえ、なにしてたの?」
それは突然だった。私にしては久しいハプニングだった。
教授が必要資料を研究室に忘れたのでとってきます、と、言って教室を出て、ほんの数秒だった。私は二つ隣に座っていた見知らぬ人に右の手首をつかまれたのだ。あまりのことに驚き絶句した。周りの大学生たちは、私のこの緊急事態に気付かずに、お喋りをしていた。
「ねえ、なにしてたの?」
低くて心地よい声だった。彼は再び私に問う。思えば、私は誰かに害を与えているわけではないのだから、いつも、授業を受ける時みたいにツンとして堂々としていればよかったのだ。しかし、私は、後ろめたくて暗い、闇のような罪悪感に襲われていた。
「ご、ごめんなさい・・・」
蚊の鳴くような細い声を出したのは私だった。普段誰とも話をしないただの首振り人形はどうやら声をだすことを忘れてしまっていた、みたいな、そんな声だった。自分でも、自分の声帯がここまで使えないポンコツだとは思っていなかった。自分の声に自分が一番驚いた。
「すごく赤くなってるけど?」
私はなんにも言っていないのに、彼は私の言葉なんて待たずに右の手首をつかんだまま話をする。彼が私のことが分かるエスパーなら、私も同等だ。彼の顔を見ていない、見た事すらないのに、彼が怒った顔をしていることは簡単に分かった。それでも私は
「離してください・・・」
蚊のように、か細く鳴くことしかできなかった。
教授が少し息を切らしながら帰ってきて、授業は再開された。あんなに強く握られていた右の手首は教授の姿が見えた途端すんなり解放されて、私は少し寂しい気持ちになったりもした。握られていた右の手首はきつく握りしめられていたけれど、優しさがあって、痛いはずはないのに、ジンジンと傷んだ。今まで数十回と赤い模様を刻んだ左の親指の付け根よりも痛くて痛くてどうしようもなかった。時間は刻一刻と授業の終わりへと近づいていったが私はたぶんこの教室の中でただ一人、この授業が一分でも長く続くことを望んでいた。
私はなんだか、とても恥ずかしくなった。二つ隣に人がいることには気付いてはいたはずなのに、人がいるにもかかわらず、私は赤い模様を刻み付け、一人、快楽にふけっていたのだ。恥ずかし気もなく、堂々と。人前ではやるべきではない行為なのだ。そんなことは分かっていた。だけど。こうしないと、私は人前で泣いてしまうのだ。最前列に座って講義を受けるのは、私が意識の高い模範大学生だからではない。本当はまったく別の理由なのだ。最前列以外の席に座って、もし、誰かが振り向いたりしたら。それがちょうど、私のあの突発的な涙が流れている時だったら。それが怖かったのだ。理由はそれだけなのだ。それに、好き好んで最前列に座る学生は少ない。私にとって好都合の席だった。こんなことが起こる可能性を一パーセントも考慮していなかった私の最初にして最大の、そして最悪なミスだった。うかつだった。
二つ隣の彼をそっと盗み見る。私の知らない人なのは当たり前だが、真面目そうな好青年という印象を受けた。こういう真面目な人は人道に外れた行為を許さないんだろうな、と、思った。例えるなら、正義のヒーロー。私が一番見たくない存在だ。私には眩しすぎるのだ。眩しすぎて、憎い。そういう上辺がいい人間はみんなに優しいフリをして、平気で嘘をつくし、結局誰にも優しくなんかないのだ。三か月前の私なら、惚れていたのかもしれない。「あの人かっこいい」なんて言いふらしていたのかもしれない。でも、私はもう、三か月前みたいな純粋無垢な少女でいられないのだ。
教授が私の地雷を踏んでも私は赤い模様を刻むことができなくなってしまったので、できるだけ、教授の話を聞かないように瞑想をしていたら授業は終わってしまった。目を開けると片づけをする教授とチャイムの音が流れてきた。目の前に広げられたルーズリーフには当たり前に白紙の世界が広がっていた。私は片づけをして、教室を抜け、人が少ない場所に行こうとした。
「ねえ、なにしてたの?」
まただ。
もう授業は終わったのに、さっきと同じ声で、さっきと同じトーンで、さっきと同じ言葉を聞かされた。私は教室を出る前に、確かに彼の存在を確認していたものの、逃げてしまえば私の勝ちだと思っていたから、もうどうでもよかったのだ。私はいつだって逃げてきた。逃げて逃げて逃げて逃げてきたからこうして今も突発的涙症候群に悩まされているのだけれども、それでも私は逃げる以外の方法を知らないから、こうするしかなかったのだ。
「な・・・なんですか?」
私の声帯はまだ眠っているようで、ちゃんと仕事をしてくれない。ドアと机との間に離れた私たちを言葉がうまく繋げるかどうかのギリギリの声量で私は精一杯の返事をした。
なにか言われる。こわい、助けて、涼くん。
心の中で叫んだのは私に現実を見せた人だった。私は変な汗をかいていた。一刻も早くどこかへ消えてなくなってしまいたかった。そんな私の気持ちをエスパーの力で察したのか、目の前の彼は
「あの、さっきはごめんなさい。急に腕なんか掴んじゃって」
と、言って、右の手首を解放した時よりもあっさり、本当に淡々と私を置き去りにその空間からいなくなってしまった。なんだか、私はもうその彼とは二度と会えないんじゃないか、そんな気すらしていた。彼が最後に見せた、少し悲し気な顔があんまりにも美しくて、私は興奮を抑えきれず、その場で立ったまま赤い模様を刻んだ。いつもより深く爪が刺さったらしく肉が変色して、青紫色になった。