カレーライスと彼女
加筆修正しました。少し伝わりやすくなったかなと思います。
カレーライスと彼女
運命とは本当に分からない。まったくの偶然のように見えることでも、実は何らかの必然性によってつながっていることがある。僕は運命とか信じないタイプだけれども、ときどき驚いてしまう。
その日も、僕は運命なんて信じていなかった。自分が置かれている状況をどうにかしようとして、どうにもならず、ふらふらと人気のない夜の街を歩いていた。
二週間前、未曾有の経済危機に陥った我が国は、混沌としていた。紙幣はただの紙くずとなって街中で落ち葉のように舞い、数日間で多くの失業者を出した。街では盗みを働く輩が増え、自暴自棄になった人々が、訳もなく暴力をふるった。僕も、大企業にリストラされた労働者が押しかけて抗議しているのをテレビで見ているうちは、余裕があった。住む場所も食事も清潔な衣服もあった。だが次の日、それらをすべて失うこととなるのだ。
つまり、翌朝、僕は会社をクビになった。いままで会社の手や足となって一生懸命働いていた男が、だ。
僕は雷に打たれたような衝撃を受け、他の失業者と変わらず自暴自棄になった。そしてもうどうでもいいや、と現実逃避するように数日間部屋に閉じこもってしまった。
しかし、それがいけなかった。あれよ、あれよという間に家賃を払えなくなってアパートを追い出され、価格が高騰した食料を買うこともできず、夜になり路上で寝ていたら、財布と携帯を盗まれ、着の身着のままとなった。
急転直下である。
食べものもなく街をふらつき、かといって盗みをする勇気もなく僕はじわじわと飢えた。
今も死へと向かっているというのが僕の現状だ。
夜の街は静かで、なにも生き物がいないように見える。実際、この街に生きている人間はいないだろう。その証拠に、荒らされた家が建ち並んでいるし、空き缶や紙のなどのゴミでさえ見あたらない。滅びた街が何十年も放置されているようであった。そんな死の世界で、ついに僕は道路に膝をついた。そしてそのまま冷たいアスファルトの上に倒れた。
車が通るような場所だが、車が通る確立なんて低く、そもそも動くことができない自分にとってどうでもいいことだった。
もう餓死するか車に轢かれるかだ。いや、もしかしたらストレスの溜まった奴らに遊ばれて死ぬのかもしれない。どちらにせよ選択肢が酷すぎる。もはや人間としての尊厳はなかった。
なぜもっと早く仕事を探そうとしなかったのか。後悔が僕を苛むが、もうどうしようもないことだ。
ただ、まだ26歳で独身で家庭をもっていなかったことが不幸中の幸いである。自分だけが苦しみ、死ぬだけなのだから。
親と友人に連絡も取れずにここで死ぬは寂しいが、自分が間抜けにも携帯を盗まれたのがいけないのだから、自分のせいだ。あきらめよう。
すべてを諦めていたとき、瞼をすかして強い光が目にしみこんできた。同時に車の走行音も聞こえ、車に轢かれて死ぬのかと悟った僕は、死を覚悟して目を堅くつぶった。
どんどん近づいてくる走行音に、轢かれるのは痛そうだな、いやだなと歯を食いしばろうとして力が入らなかった。瞬間、抵抗できない恐怖が胸をよぎり、大きくなった音が耳を塞ぎ――。
車のブレーキ音が静かな街に響いた。
死を免れた安堵感が僕の心を一瞬満たしたが、どうせ餓死するという考えが僕を冷たくした。こんなご時世に、道路で倒れている男を救う奴なんていないのだから。
だが、予想に反して車のドアが開く音がし、「大丈夫ですか」と呼びかける女の声が弾けた。
にわかには信じられないことだった。「地獄に仏」とはまさにこのことだ。
今度こそ死を免れて、僕はふっと意識が遠のいて行くのを感じた。死を覚悟したつもりでいても、体は死に抗おうと意識を必死に保っていたのだろう。薄く開いた瞼から、逆光でよく見えない、長い髪の女の人が見えたのを最後に、僕は意識を手放した。
目が覚めると白い天井が見えた。すぐに辺りを見渡して、自分が茶色いふかふかしたソファーに寝ていることやここが清潔な部屋であることが分かった。
初め、部屋には丸テーブルと二脚の椅子のセットと飾り気のない戸棚が一つしか見られなかったが、体を起こしてみればテレビがあり、その左隣、つまり部屋の隅に観葉植物がおいてあるのが見えた。
家具があまり見られないような気もするが、ここはおそらくリビングで他に部屋があると考えれば、そこにその他生活に必要な家具、家電があるのだろう。
昨日の死にかけた記憶を思い出しながら、部屋を観察していると、ひとの歩いてくる音がした。すぐにドアが開いて姿を現したのは、昨日僕を助けてくれた女の人のようだ。あのときは逆光で顔がみえなかったから、その肩まで届く長い黒髪でしか判断できないが。
今はよく見える黒い瞳が印象的だった。年は僕より上だろうか。落ち着いて世間慣れしているようだ。
その人はやわらかい表情をして「やっと気がついた。気分はどう?」と自然な口調で尋ねた。それは昔、まだ小学生だったころの、保健室の先生を思い出させた。
「大丈夫です。その、助けてくださってありがとうございました」
「どういたしまして」
女の人は微笑んだあと、ちょっと表情を曇らせた。
その様子から、やはり僕は迷惑をかけているんだと悟った。すぐに立ち去った方があのひとのためになるのは分かるが、そうもいかない理由があるのだ。僕は、眠ったおかげで体の調子はそこそこ良いのだが、空腹感をひどく感じている。せめて何か食べさせてもらわないと今度こそ、餓死してしまうだろう。せっかく拾った命だ。死の恐怖を味わった僕に、生への執着心が芽生えていた。
「あのう、すみませんが何か食べさせてもらえませんか?そうしたらすぐに出て行きますので」
自分の食べ物さえまかなえないことが、ひどくはずかしい。
「わかった。すぐ用意するから」
そういってキッチンに行くとすぐに、「あっ、何もないじゃない。そういえばまだ帰ってきたばかりだったんだ」と慌てた声が弾け、キッチンのかべからひょこっと顔をだして、彼女は恥ずかしそうに笑った。
意外とお茶目なひとだな、と僕も頬を緩めた。
「ええっと、別に無理しなくてもいいです。スナック菓子とかでもいいので」
「だめよ。ちゃんとしたもの食べないとまた倒れるでしょ。あっカレーがあった!」
そう言って嬉しそうにカレールウの入った箱をひらひらとふった。
「すぐ作るから待ってて」
僕は完成したカレーライスを想像して、おなかがなってしまった。
聞こえてはいないはずだが、恥ずかしさがこみ上げてきて、僕は一人苦笑いをした。
完成したカレーライスが僕の待つテーブルの前に運ばれてくると、半ばひったくるようにしてスプーンを受け取って、五日ぶりのまともな食事をかき込んだ。
口の中に広がる香辛料が何ともいえず、また噛みしめる米のうまみが、いつもの何倍も濃く舌のうえに染み渡っていく。久しぶりの食べ物の刺激に僕は訳も分からずただ体内へと流し込んだ。
カレーは飲み物だ。
そんな格言が頭を横切った。
五分もかからないうちに完食した僕は、ふうっと息をついた。そこで顔を上げると唖然としている彼女と目があって、そこでようやく僕の獣のような食べっぷりを恥じた。
「いやぁ、その、あまりにおいしかったから」と僕が頭に右手を当てて動揺していると、彼女はクスリと笑った。
「おかわり、あるよ」
空腹をみたし、落ち着いたあと、僕は彼女に自己紹介をした。
「名前は、三井哲平です。ええっと、前の会社では事務と営業をやっていました」
「ということは、今は仕事にはついていない?」
「はい」
「そうよね。でなくちゃあんなとこで倒れてないよね」
「すみません」
「いえ、謝る事じゃないわよ」
そう言って、芦田久美子さんはぶんぶんと手を振って否定した。なんだかその様子がおかしくて笑いそうになってしまう。
ご飯を食べたら帰るつもりだったのだが、今、僕は命の恩人である女性、芦田さんとお茶をのんでくつろいでいた。僕がカレーライスを食べおえると、なんとお茶を出してくれたのである。早く出て行ってほしいのかと思っていたが、すくなくとも今は違うらしい。
お世話になってばかりで申し訳ないのだけれど、なんだか人の温かさを感じてしまって僕自身も離れがたくなっていた。
芦田さんは何か考えるように遠くを見つめた後、「これも運命かな」と微笑んだ。
「さっきも言ったけど、私は海外の会社に勤めているの」
さきほど僕がおかわりしたカレーライスを今度はゆっくり食べていたときに、彼女が聞かせてくれた話によると、彼女は海外に進出した会社に勤めていて、今回日本であふれかえった失業者を採用しにきたという。
にわかには信じられない話だったが、訳があった。
もともと芦田さんの会社は小規模であり、ここ数年で業績を伸ばして海外進出したばっかりなのだという。これから拡大していくにあたって、即戦力となる有能な社員が必要で、大企業に勤めていた失業者をぜひとも回収したいらしい。しかも、とくに営業、事務関係の職務で採りたいというのだ。
まさに自分のことではないか、と僕は舞い降りた好機に胸が高鳴った。僕がもといた会社も一流とよばれる大きな会社だった。さらに海外で暮らした経験もあり、うってつけといえた。
「実はもう、私たちみたいな会社が裏でそういう人たちを取り合っているのよ。だから、三井君に出会えたのは都合が良かったの。どう、うちの採用試験、うけてみない?」
「ぜひ、受けさせてください」
迷う余裕などあるはずもない。
「わかったわ。まあ、試験はあなたにとって簡単なものだと思うわ」
「しかし、本当に大丈夫でしょうか。自分と同じような境遇のひとは多いはずです。競争率は高いと思いますが?」
僕が不安を口にすると芦田さんは首を横に振った。
「確かにきみの言うとおり誰もが飛びつくでしょうね。でも私たちにそれだけの大人数を裁くだけの力も時間もないの。あくまで小規模で、かつ優秀な人材がほしい。となるとある程度こちらから選んで声をかけて言った方が、堂々と募集するよりもいいわ。で、私はそのスカウトマンのひとりだったってことよ」
「僕、いえ、自分は、運が良かったってことですね」
「そうよ。それに、いまここらへんの治安ってすごく悪いじゃない。ほら、荒らされた家ばっかりだったし。ここも安全とはいえないから早く抜け出したいのよ」
芦田さんは顔をしかめた。
その言葉に頷かざるをえない。僕もこの国から抜け出したかった。
その後、僕は採用試験に関する説明を受けた。そして電話を借りて親に自分の現状を報告した。親が数日前に電話による僕を装った者から詐欺にあったと聞き、申し訳なく思った。恐らく盗まれた電話を悪用されたのだろう。僕の複数の友人が同じような電話を受けて、うまく詐欺だと見破っており、僕の母親に警戒するように伝えてあったため、無事であったと教えられた。僕はほっと息をついた。その後、諸々の連絡や頼み事を伝えて、ひとまず電話を切った。
そんなどたばたが続き、やっとの事で僕は芦田さんにお礼を言ってそのマンションから出て行った。しばらく、無事に家が残っている友人の家で引き取ってもらうことになっている。採用試験は二日後なので、迷惑はあまりかかるまいと友人が引き受けてくれたのだ。誰もが自分のことで手一杯であるのに、ありがたいことだった。
数日後、採用試験にも受かった僕は再び芦田さんの住むマンションに向かった。僕は明日飛行機でここを出るが、芦田さんはあと三日ここに残るという。そこで、挨拶とお礼を言おうと思ったのだ。しかし、それだけではなくてもう一度僕の空腹を満たしてくれたカレーライスを食べたいと思ったのだ。あれはかなりおいしかった。そして僕の人生を変えた忘れられない食べ物なのだ。
部屋にむかい入れてくれた彼女は「おめでとう」といつものように微笑んだ。
僕はなぜか懐かしくなって、最近まで死ぬかもしれなかった自分を振り返った。
本当に人生は何が起こるか分からない。初めから計画していたことも予想していたことも、そのようにはならないものだ。案外、偶然というのは力をもつものである。
僕が感慨深くなっていると、芦田さんはまたあのときと同じようにカレーライスを作り、僕に差し出したが。
なんだか、色がおかしい。それに切られた具材も不揃いだ。
作り慣れているようには思えない。
僕はちらりと芦田さんを見るも、彼女は期待するように僕をみつめたままだ。
「あの、芦田さんは普段から料理をなさるのですか?」
「いいえ、まったく」
即答だった。僕は再び黒々としたカレーを見た。
確か、カレーって簡単に作れたはず。そんなにまずくはならないだろう。
それでもあのとき、僕は空腹過ぎて味覚がおかしくなっていたかもしれないという嫌な予感がした。
僕は恐怖心を押し隠して、スプーンでそれをすくい取り、食べた。
・・・・・・・・。
「こんな味でしたっけ?」
「そのはずよ。あんなに気に入ってくれから、作り方は変えてないわ。」
私、自分の料理をおいしく食べてもらえたのははじめてだわと嬉しそうに笑ったので僕は何も言えずに完食した。
それを見て芦田さんはさらに笑みを深めた。頑張って食べたかいがあった。そして、あの時と同じように、「おかわり、あるよ」と言った。
そんなわけで僕にとって彼女の作ったカレーライスは二重の意味で忘れられない食べ物となったのだ。
心が温まるような甘いお話が書きたかったのです。
本当にだめになったとき、甘えられる存在は必要だと思いました。