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大声での喧嘩に雑踏の視線が集まる中、夕菜は七実でさえ今まで聞いたことがないほどの大きな声で、力の限りに叫んだ。
「わたしは、七実ちゃんが聞いてくれて、ただ好きでいてくれるのが一番嬉しい! 七実ちゃんが傍で聞いてくれないなら、ピアノを弾く意味なんてない!!」
……夕菜の叫びが音という音を掻き消して、七実の心にまで響く。
七実の頭に上っていた血が、すっと引いていった。
「……ゆう、な…………?」
「わたしは、七実ちゃんがいなくちゃやだ……七実ちゃんと会えないなら、ピアノなんて、やめる……」
「夕菜、何言って……」
「だって、七実ちゃんと会えないなん、て、やだ……わたし、は……!」
さっきまで叫んでいたのが嘘かのように、夕菜の声はか細く揺れていて、
「……やだよぅ……わたし、七実ちゃんと……っ……七実ちゃんと会えなくなるなんて、そんなのやだあぁ!」
「夕菜……夕菜っ!」
そして堰を切ったように声を上げて泣きだしてしまう夕菜に、七実は首筋を抱えるようにして抱きついた。
「七実ちゃん……わたし、七実ちゃんがいないのやだぁ! 外国なんて行かない! だから、ずっと傍にいてよぉ!」
「ごめん……夕菜、ごめん……! あたしだって、夕菜と離れたくないのに……あんな嘘ついて、傷つけてごめん!」
周りの目なんて気にせずに、二人は抱きしめあって、声を上げて泣いた。
自分は大馬鹿者だ。「夕菜のため」だなんて、自分の気持ちに嘘をつくどころか、一人よがりな偽善で、夕菜のことさえも傷つけてしまっていた。
「誰がなんと言ったって、夕菜のピアノを一番好きなのは、あたしだ!」
「うん……」
「夕菜のピアノが凄いかなんてわかんない! だけど、だからこそ! 夕菜のピアノがどんなに上手でも、どんなにヘタクソでも、夕菜のピアノを世界一愛してるのは、あたしだ!」
「うん、うん……!」
「だから、これからもずっと、すぐ傍で、夕菜のピアノを聞かせて!」
「うん……! わたしも、ずっとずっと七実ちゃんに聴いていて欲しい!」
「もう海の向こうになんて行かせない。夕菜がやっぱり行きたいって言っても、絶対に離さないから……」
「七実ちゃん……」
もう、絶対に離さない。そう思って、強く、強く抱きしめた。
「わたしはずっとここで、わたしのピアノを弾き続けるよ。ここでじゃないと……海の向こうなんかじゃ、わたしのピアノは弾けないから」
「え……?」
夕菜は顔を上げて、七実を見つめてくる。舞台のための化粧が涙でぐしゃぐしゃになった顔に、無垢な笑顔を浮かべて。
「言ったでしょ。わたしのピアノは、いつだって七実ちゃんと弾いてるんだから。七実ちゃんが居なくなっちゃったら、それはもうわたしのピアノじゃなくなっちゃうよ」
「あ……」
夕菜の言葉に、心臓が高鳴った。
夕菜の顔が目の前にある。吐息のかかるような、すぐ近くに。
……大好きな、何よりも愛しい夕菜の顔が。
「……夕菜、あたし……」
伝えるなら、今だ。
七実は一つ大きく息を吸いこむ。それから目を閉じて三つ数える。
……覚悟を決めた。
真剣な眼差しで夕菜を見つめる。七実のただならぬ様子に気づいたのか、夕菜は驚いて、目を丸くした。
「夕菜」
「七実、ちゃん……?」
「あたしは、夕菜が好きだ。世界で一番、誰よりも、夕菜の全部が、大好きだ」
そして七実は、言葉にして伝えた。
不器用な自分には、これ以上上手いことなんて言えない。だけど、ヘタクソなりに自分の「好き」の想いを精一杯に詰め込んだ。
そんな七実の告白に、夕菜は優しく笑って……。
「……うん。"わたしも"大好きだよ、七実ちゃん」
……さっき公園で見せたのと同じ表情に。
「ん……。…………そっか」
七実は、それ以上何も答えなかった。
今は、これでいい。だって願い事はキャンセルしたのだ。だからきっと、夕菜が天の川の向こう側へ行ってしまわなくなった分、こうして……。
「ねえ、七実ちゃん。今から一緒に、お祭り回ろ?」
「今からか? いいけど……お前、化粧くずれて凄いことになってるぞ? ほら、鏡」
「え……? ……ふええええ!? た、大変、ど、どうして、どうして……」
「あんなにびーびー泣いてるからだろ」
「な、七実ちゃんだって泣いてたくせにぃ!」
「はいはい。ほら、とりあえずホールに戻るぞ。そうすれば道具くらいあるだろ」
「ふえええん……」
……こんな、いつもと同じようなやり取りが、今は何よりも愛おしい。
俯いて顔を隠そうとする夕菜を引っ張って、七実はホールへ戻っていく。自分のより少し小さくて温かい手のひらを、大切に握って。
「……ねえねえ、七実ちゃん」
「んー?」
歩きながら、夕菜は不意に声をかけてきた。
「大好きだよ。……"わたしも"」
「わかったてば、恥ずかしいな」
「……えへへ」
あたしたちを離れ離れにしようとする天の川は、思っていた以上に、残酷で、冷たかった。
だから、あたしたちは天の川に逆らった。
織姫と彦星になんてならない。なれなくてもいい。
あたしたちはずっとずっと一緒にいる。
それだけでも、とてもとても幸せなんだから。