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「なんで、どうして……!」
七実はひたすら走っていた。人混みをかき分けて、当てもなく。
そして行き着いた先は、あの笹飾りの広場だった。
「一年ごとにしか会えなくなるだなんて、そんなのまるで……」
肩で息をしながら、七実は笹飾りを睨みつけた。
「……そんなこと、頼んでない」
他の短冊をかき分けて自分の短冊を見つけると、思わず握りつぶして、引きちぎっていた。
「あたしがずっと願ってきたのは、そんな意味じゃない!」
それだけでは足りずに、破って、千切って、引き裂いて、
「だったらこんな願い事……無かったことにしろ!」
丸めて地面にたたきつけて、踏みにじった。
どうしてよりによってこんな形で叶えるというのだ。そんなに贅沢な願い事だっただろうか。
ああ、なんてバカなんだ。もっと素直に願っていたら良かったのに。幼心によく考えずに願ったことを、こんな歳まで願い続けるからこんなことになるのだ。
「夕菜……」
夕菜のことを思う。……結局のところ、きっと夕菜にとっては、やっぱり良い話なんだろう。
オーストリアがピアノの本場だというなら、ここよりずっと良い環境で練習できるだろう。もっと大きなステージにも立てるだろう。将来、本当に世界的に有名になれるかもしれない。
だから、夕菜のことを思うなら、笑って送り出して上げるのが良いに決まってる。
夕菜と一緒にいたい。自分勝手でもいい。だけど、それで夕菜は幸せなのか? 夕菜のためを思う気持ちと夕菜のことを想う気持ちがぶつかって、ぐちゃぐちゃになる。……さっきまであんなに熱に浮かれたような気分で居たのが嘘のようだった。
空を見上げる。綺麗な天の川が流れていた。
「……川くらいなら泳いででも渡ってやるのに……はは、海かぁ。ちょっと遠いかな」
まるで当てつけのような光景。よりによってこんな日にそんな運命を突きつけてくるだなんて。
「……いやだ」
そんな運命を思って、自然とそんなことを呟いていた。
「いやだよ、夕菜ぁ……」
悲しさが、寂しさが、葛藤が、全部が涙になって溢れて、頬を伝う。もう止まらなかった。
「う、あああ……ゆう、な……ぐすっ、行っちゃやだよ、夕菜ぁ……!」
やっぱり行かないで欲しい。ずっとそばにいてほしい。いままでそうだったように、これからもずっと……。
「七実ちゃん!」
「っ……夕菜……?」
遠くから呼び声が聞こえた。七実は咄嗟に声へ背を向けて、ぐしぐしと涙を拭う。
夕菜の足音は遠くからぱたぱたと近づいてきて、すぐ後ろで止まった。
「七実ちゃん、えっと、その…………」
夕菜は何か言いかけるが、なにを言っていいのかわからないというように口を噤んでしまう。
「七実ちゃん、あのね……」
そうしてしばらく逡巡した後で発せられた言葉を、七実が遮る。
「夕菜、オーストリアに行くんだろ」
「! やっぱり、聞いて……」
「…………」
「…………」
それきり会話が続かなくなる。七実は背を向けたまま、涙の跡を隠そうとするのに必死だった。
「……あのね。聞いてたなら、わかると思うけど」
夕菜が気まずそうに沈黙を破る。
「わたしね、あのお話……」
「聞きたくない」
しかし七実は、またも途中でそれを遮った。
「七実ちゃん……?」
「……行くんだろ、オーストリア。そこでもっと良い環境で良い先生に教えてもらうって。……年に一回くらいしか帰ってこれないって」
夕菜がどれだけ自分のことを想ってくれていようとも、彼女はそれと同じかそれ以上にピアノを大切に思っている。だからこそ、今日のコンサートにだって参加を決めたのだ。
自信なさげにしていながらも、チャンスがあれば積極的にものにしていく。そんな彼女がこんな、これを逃せばもう二度と巡ってこないようなチャンスを無駄にするものか。
「行ってこいよ。あたし、よくわかんないけど、きっと夕菜なら世界でもやっていけると思う」
自分が我慢すればいい。そうすれば夕菜のために……それだけではない、あの音楽事務所の人や、音楽の世界のためになるのだ。
だったら、もうここで別れを認めてしまった方がいい。
想いも伝えないまま、閉じ込めて。もしも伝えてしまえば、きっと別れがたくなってしまうから。
「……さよなら、夕菜。長いようで短い付き合いだったな……って、はは、これこの間も言った気がする」
「ねえ、聞いてよ七実ちゃん!」
「……何だよ。まさか行かないなんて言うんじゃないよな」
七実が冷たい声で先回りすると、夕菜ははっと息を飲んだ。
「……そうだよ。わたし、オーストリアなんて行きたくない」
「なんでだよ。お前のためにも、あの人達のためにも、行ったほうが良いに決まってるだろ」
「……なんでそんなこと、言うの?」
「だってそうだろ。お前、そんな半端な気持ちでピアノやってたんじゃないだろ」
「それは、そうだけど……」
「だったら、その方が夕菜のためになる。夕菜のピアノがもっと凄くなって、世界に認められるようになって……そしたらあたしだって嬉しいよ」
「……嘘だよ、そんなの」
「嘘なんかじゃない。小さい頃から見てきた夕菜が世界で有名になるんだ。あたしだって幼なじみとして鼻が高いよ」
「……嘘」
「嘘じゃない」
「っ! 嘘だよ!」
夕菜は突然大声を上げて、七実の肩を掴んで振り向かせた。
ようやく真正面から見た夕菜の顔は真っ赤で、涙でぐしゃぐしゃになりながら、歯を噛み締めて怒っていた。
「わたし、知ってる! 七実ちゃんは、ピアノのことなんて全然わかんないって!」
「な、なんだと……!」
「だって七実ちゃん、わたしのピアノの発表を聞いて、『凄い』なんて言ってくれたことない!」
「っ……! ああそうだよ、お前のピアノが凄いかどうかなんてわかんない!」
「じゃあ、わたしが外国でもっと練習してもっと凄い技術を身につけたら、嬉しいの!? 七実ちゃんはそんなのわかってくれないでしょ!」
「うるさい、バカにするな! あたしだってそれくらい……!」
「バカだもん! わたしはそんなの嬉しくない! わたしは!」