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ホールからも通りからも離れたところにある小さな公園。祭りから離れているためか人気も少ないその場所で、七実は彼女が来るのを待っていた。
「な、七実ちゃん~!」
と、自分を呼ぶ声がして、七実は顔を向けた。
「おう、夕菜」
「はぁ……はぁ……」
走ってきたらしく、夕菜は膝に手をついて呼吸を整えてから、バッと顔を上げた。
「お、お葬式には! おじさんとおばさんも一緒に来てね!」
「死ぬな!」
ぺしっと頭をひっぱたく。
「ふえええええんやっぱりわたしにはあんなおっきいステージむりだよ~」
「だから言ったのに……。もうここまで来たからにはやるしかないだろ。覚悟決めろ」
「だって! だって客席すっごく広いんだよ! 空っぽの見てるだけで心臓止まっちゃいそうだったのにお客さん入ったらこんどこそ心臓止まっちゃうよ!」
「あー、それは困るなぁ、うん」
「ふえええええええん……」
今度こそ本気泣きしそうな夕菜を見て七実は頭を掻く。ここまで動揺しているのを見るのは久しぶりだ。
いつもは一度ステージに上がってピアノに触れてみると案外落ち着いてしまったりすることが多いだけに、本番直前になってまでここまで取り乱しているということは彼女も見た目以上に緊張しているのだろう。
「まったく、しょうがないな……」
……なら、久しぶりに"あれ"をしてあげよう。
七実は一つ深呼吸してまずは自分自身を落ち着かせる。それから、
「ほら」
「あ……」
夕菜を抱き寄せる。彼女の頭を抱きかかえるようにして、自分の胸に少し強引に押し付ける。
夕菜の体の柔らかさを、温かさを、……そして震えを感じる。甘い香りが鼻孔をくすぐった。
つい心拍数が上がってしまいそうになるが、深く呼吸して気を落ち着ける。そんなことでは意味が無いのだ。
七実は努めて気持ちを落ち着け、夕菜に声をかけた。
「どうだ、夕菜」
「……うん。七実ちゃんの心臓の音、聞こえる……」
夕菜はもう七実が押し付けるまでもなく、自分から耳を当て、鼓動の音を聞いていた。
「……ゆっくりしてるね。わたしなんて、破裂しちゃいそうなくらい早く動いてるのに」
「だから言っただろ。わたしはステージに上がらないんだから緊張なんてしないって」
「…………」
夕菜は目を閉じて、じっと七実の鼓動に聞き入る。少しずつ彼女の呼吸が落ち着いてきた。
「……そういえば、昔はよくこうしてくれたよね」
「夕菜が緊張してる時はな。まさかこんなに大きくなってこんなことするとは思わなかったけど」
「ん……」
背中に手を回して、赤子を寝かしつけるように優しくぽんぽんと叩く。夕菜はもうすっかりリラックスしているようだった。
「わたし、七実ちゃんの心臓の音、好きだな。いつも落ち着いてて、優しくて」
「あはは、そりゃ良かった」
……嘘だ。
いつも落ち着いてなんて、いられるはずがない。こうして抱きしめてる間も、心臓の高鳴りを抑えようとするのに必死なのだから。
時が経つにつれて、この気持ちは強くなっていく。今ではもう、こうするだけでも必死だった。
だけど、自分が緊張しているとわかったら、夕菜まで緊張してしまうから。
「……もういいか、夕菜」
「……ん」
夕菜は顔を上げると、「えへへ」と柔らかく笑った。
「ありがと、七実ちゃん」
「いいって。あたしにできることなんてこうやって夕菜を励ますことくらいだし」
「ううん。わたしがピアノを弾けるのは、七実ちゃんのおかげだよ」
夕菜は夜空を見上げて、すっと大きく息を吸った。七実も釣られて空を見上げると、綺麗な天の川が見えた。
「七実ちゃん、覚えてる? わたしの初めての発表会」
「……うん」
「あの時も七実ちゃん、こうやってわたしのこと抱きしめてくれたよね」
「そうだっけ」
曖昧に答えながらも、七実は明瞭に思い出していた。十年も前のことだ。
緊張のあまり泣きだしてしまった、小学1年生の夕菜。彼女の両親はもう客席に行ってしまっていて、どうしていいかわからなくて、幼心の思いつきでとっさにそうしたのだったと思う。
「あれからね、どんなおまじないよりも、七実ちゃんに抱きしめてもらうのがわたしにとって一番のおまじないだったんだ」
「え?」
夕菜の方を見ると、彼女はまだ空を見上げていた。その横顔は穏やかで、なんだかとても綺麗に見える。
「どんなに緊張してても、泣きそうでも、泣いちゃってても、七実ちゃんがぎゅってしてくれたら、落ち着けるの。自分でも不思議なくらい。だからね」
夕菜は七実に顔を向け、真っ直ぐに目を見つめる。そして、
「わたしのピアノは、七実ちゃんがいるから弾けるの。七実ちゃんはいつも自分はステージに上がらないなんて言ってるけど、そんなことない。わたしのピアノは、いつだって七実ちゃんと一緒に弾いてるんだよ」
そんな事を言って恥ずかしそうにはにかんだ。
「…………ふぁ」
夕菜が自分の目を見つめながら放ったそんな言葉と笑顔に、七実は変な声を出してしまう。
どうしてだろう。すごくうれしくて、恥ずかしくて、泣きそうになるくらい、やっぱりうれしい。
「七実ちゃん」
「わっ」
不意に夕菜は自分のことを抱きしめて、自分がするのと同じように胸に耳を当てさせた。
夕菜の鼓動は、さっきまでの緊張が嘘みたいに落ち着いていて、優しいリズムを奏でている。
「……わたしがこんな立派なステージに立たせてもらえるのも、七実ちゃんのおかげなんだよ」
「……うん」
夕菜は少しだけ力を込めて七実を抱き寄せてくる。七実も夕菜の背中に手を回して、抱き返した。
「わたし、七実ちゃんが大好きだよ」
「っ……」
不意打ちだった。
夕菜の「大好き」という言葉に心臓が大きく跳ねて、体中が熱くなるのを感じる。こんなの卑怯だと思いつつも、嬉しく思う気持ちは止められない。
「……あたしもだよ、夕菜」
「えへへ」
言葉を返すと、夕菜は嬉しそうに笑う。
……けれど、七実は知っていた。
本当は、「あたしも」ではなくて、その言葉が"違う"のだということを。
……十年前の、始めて夕菜を抱きしめたあの時。夕菜の柔らかさを、体温を、そして今にも壊れてしまいそうな体の震えを始めて感じて、それから自分はずっと……。
「……もう、十年になるのか」
「うん?」
――そろそろ、伝えよう。あたしの「大好き」の、本当の意味を。
「……ほら。そろそろ行かないと、時間になっちゃうぞ」
「あ……もう、こんな時間なんだ」
夕菜から離れると、七実は赤くなった顔を隠すように、彼女に背中を向けて携帯を開いた。夕菜には出演者としての準備が残っているはずだ。
「じゃ、行くね」
「あ、待って、夕菜!」
ぱたぱたと早足にホールへ戻ろうとする夕菜を、背を向けたまま呼び止める。
「演奏、終わったら……えっと……話したいこと、あるんだ。迎えに行くから」
「? ……うん、わかった。じゃあ、また後でね」
夕菜が今度こそ立ち去っていく。その足音が遠のいて聞こえなくなってから、七実はパタンと携帯を閉じた。
「……あたしも行かないと。席がなくなっちゃうな」
一人つぶやき、七実もホールへ向かっていった。