金魚死んじゃった④
「光川千鶴さぁん、おはようございます。今朝の体温チェックに来ましたぁ」
「あら、おはようリンゴちゃん。どうぞ入って」
リンゴと呼ばれた看護師はカラカラとドアを開けて、千鶴の白い四角い病室へ入って行った。リンゴという名前は本名ではなく、後藤凛という名前を千鶴が捩ったものだ。
「千鶴さぁん、体調はどうですかぁ?」
そう千鶴に投げかけて、凛は彼女の寝ている白い四角いベッドのそばに歩み寄った。凛は手にカルテと体温計を持ち、見た目はきちっと看護師服を着ている。だがどうしても舌っ足らずな話し方の所為で頼りない印象を他人に与えてしまう。
「元気そうでなによりです。体温計、失礼しますねぇ。あっ、その絵。かわいいですねぇ。お孫さんが描かれた……ボールですかぁ?」
凛は千鶴の抱えていた一枚の絵を指して千鶴に話しかけた。患者とこうして話すのも看護師の仕事なのである。
「そう、孫が送ってきてくれたの。これは真っ赤な可愛い金魚の絵。もう金魚死んじゃったんだけれどね」
そういって千鶴は凛に絵を渡した。赤いクレヨンで描かれた丸にちょっとしたひれの様な部分がちょこんとついている、なんとか金魚と言える一枚だった。凛は黄色いクレヨンの差し色が素敵ですねといいながらその絵を千鶴に返した。
「千鶴さんって金魚がお好きなんですねぇ。すごく嬉しそうな顔してる」
「あら、わかるかしら。昔飼っていたのよ、金魚」
「あ、やっぱりぃ。私も飼ってたんですよぉ。冬とか、いつも寒そうな水槽にいてすごいなぁって思いながら眺めてましたぁ」
凛は真顔を保ちながら両腕で寒いとジェスチャーをした。その姿があまりにもおかしくて千鶴は笑ってしまいそうになるのを必死に飲み込んだ。
「私もそう思ってね、暖めたことがあるのよ。両手で水槽のなかから掴みだして、ぬるっとしている金魚を必死に落とさないようにしっかりと握って。あの時は母に怒られてしまったんだけどね」
「えぇ~。すごいですねぇ。素手でなんて私じゃ絶対無理ですよぅ。ヌルヌルしてるのなんて触りたくないですし。でも夏祭りの金魚すくいで取ってきた金魚の世話は、自分でしろっていわれて。ビニール手袋つけて掴みましたよぉ。びちびちっと」
「それじゃあお魚も捌けないわよ。でも夏祭りの金魚すくいなんて懐かしいわね。私もよくやったわ」
堪え切れずにくすくすと笑う千鶴に凛は魚は切り身派なんですと答えながら、夏祭り楽しいですよねと話を千鶴に返した。
「そうね。金魚みたいな赤い浴衣を着て、帯をぎゅーっと締めて出かけたわ。そのときも金魚すくいをやったのだけれど結局一匹だけだったわね」
「ふふふ。千鶴さん、私こう見えて金魚すくいものすごく上手なんですよぉ。掬ってはいれて、掬ってはいれて。金魚すくい破りなんて言われてましたからねぇ。ポイは破りませんけど」
凛はポイで金魚を掬う真似をしながら言った。十匹掬ったところでその手が止まるところをみると、どうやら金魚すくい破りの限界は十匹止まりらしい。千鶴はそれくらいじゃすぐに破られちゃうわねと笑いながら呟いた。
「あと私、甘いもの破りなので、その筋でもなかなかなものですよぉ。洋菓子でも和菓子でもなんでもぺろりのグルメ舌なんですからぁ」
「あら、私も甘味にはなかなか鋭いわよ。特に和菓子は昔から食べてるんですもの」
「むっ。私だって負けませんよぉ。和菓子だったら『虎子屋』ですねぇ。あそこは隠れた名店ですよぉ」
いくつか名前を挙げて行った凛は、最後にやっぱり『虎子屋』が一番ですと念を押した。やはり真顔で腰に手を当てながら呟き、少しだけ口元を緩ませていた。千鶴も体温計が落ちない程度に、凛と同じポーズをとって後に続けた。
「うふふ。『虎子屋』は私も知ってるわ。若いころ通いつめていたんだもの。あそこの錦玉美味しいわよね。特に金魚の練り切りが入ってるもの」
「千鶴さんも知ってたんですねぇ。金魚の錦玉ですかぁ。あれってすぐ売り切れちゃうからまだ食べたことないんですよぉ。それにしても千鶴さんホントに金魚が好きなんですねぇ」
そう言われた千鶴は腰に当てていた手を降ろし、左手をじっと見つめた。その手の薬指には小さな飴の様な林檎石の指輪が嵌められていた。それを縁取っている金モールがカーテン越しの光を浴びて、キラキラと輝いている。
「昔から金魚みたいになりたくってね」
千鶴は指輪を見つめ、目を細めながらもう一度呟いた。
「私は金魚みたいになれたのかしら」
小さい頃、ココアを飲みながら金魚を眺めたときも。まァ君と夏祭りに行ってりんごあめを貰ったときも。あの人から林檎石の指輪を貰ったときも。千鶴はそう思った。そして今はひらひらと泳ぐ白い四角い水槽の金魚のようになれたのかしらと。
「金魚ですかぁ……そのぉ、千鶴さんのその指輪もとっても金魚見たいですし、新しい口紅の色も金魚みたいで素敵だと思いますっ」
「そうね……ありがとうリンゴちゃん」
ピッピッピッ
電子音が静かな病室に鳴り響く。凛は失礼しますと言って、千鶴の体から体温計を抜き取り液晶の画面を見た。三六度。人間の平熱体温である。
「はい、平熱ですねぇ……あっあれぇ、止まらない」
測り終わった体温計は凛の手の中でピッピッピッと鳴り続けて止まらない。真顔で慌て始める凛を目の前に、千鶴はあらあらと頬に左手を当てながらその姿を見つめていた。それはどこか子供を眺める母親の、慈愛に満ちた姿のようでもあった。
「リンゴちゃん、それきっと寿命なのよ」
「そっ、そうなんですかぁ。でも前のやつはここまで早くなかったんですけどねぇ」
「個々を比較するものじゃないのよ、寿命ってものは」
そういって千鶴の唇の金魚はピッピッピッという音を背に、三日月の様に形を変えた。
―――ピッピッピッと一定のリズムを刻む音は次第に弱く、間隔も広くなっていく。そして最期にピーーーという平坦な音をずいぶんと病室全体に響かせて、消えた。
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金魚死んじゃった。白い四角い水槽の中で。
金魚死んじゃった。白い四角い布団の上で。