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金魚死んじゃった③

金魚死んじゃった。あの子が連れて帰ってきた金魚。あの人と私が大好きだった金魚、死んじゃったのね。

思い出すわ。あれは二十年目の結婚記念日の朝だった。何気ない朝だったのに、ばかばかしい事で喧嘩をしてしまったわね。目玉焼きにしょうゆかソースか、そんな些細な事で。いってきますというあの人の声を背中で聞いたとき、それはいつもより小さくて冷たかった。

もちろんとても後悔したわよ。気持ちも体もそのまま椅子に吸い込まれて、全身埋もれてしまうくらいにね。落ち切ってしまう前に、ぴちゃんと背中越しに音を聞いたの。目線を後ろに送ると、そこには白い四角い水槽の中で涼しげにゆらゆらと泳ぐ真っ赤な金魚。ふと思い立って私は、ロゼワイン色の財布を手に取って玄関を抜けた。

大通りに出て右に曲がり、五軒先の魚屋を左に曲がると和菓子屋『虎子屋』がある。私の小さな頃からあったその店は、おばあちゃんが一人で切り盛りしている小さなお店。錦玉という和菓子はそのお店一番の売れ筋だった。錦玉は糸寒天を溶かして砂糖で煮詰めた和菓子のことで、透明なゼリーのような寒天のなかにキラキラした練り切りやあんをいれたもの。私もあの人も昔からそれが大好きで、よく食べていたわ。二人で食べるようになったのは、当時アルバイトとして働いていたあの人に勇気を出して声をかけたのが始まりだけれど。

少し錆びた引き戸をあけると、「いらっしゃいませ」と若々しい声が返ってきた。今日はどうやらおばあちゃんはいないみたい。そう思って私は声の主に軽く会釈をして、店内を見回したの。ショーウィンドウの中には星空と月を閉じ込めたもの、花弁を閉じ込めたものと様々な錦玉が並んでいた。ふと昔と変わらないケースの中にひとつの錦玉が目に飛び込んだの。それは綺麗な赤い金魚の練り切りを閉じ込めた、白い四角い錦玉。その赤があの子の連れてきた金魚とそっくりで、私は迷わずそれを指さしていた。若いアルバイトのお姉さんは「本日はこの商品が良く売れていて、ご予約も入っているんですよ」と言いながら錦玉をふんわりと包んだ専用の袋を渡してくれた。一番人気の商品を直感で買えたのは、甘味好き女性として鼻が高かったわよ。

それでねあの人が帰ってくるまで、私ずっともやもやしていたの。袋に包まれてはいるけれど、どうしても気になってしまって。金魚鉢の前でうろうろしていたり、あの子が金魚にあげる分の餌まであたえてしまったり。子供達を寝かしつける手でさえどこか宙を掴むようだった。もちろん、がちゃりと鍵の音がしたときはどきりとしたわよ。あの人が廊下を歩く足音が徐々に近くなって、私は小さな金魚が包まれた袋に手を伸ばしたの。

扉を開けた瞬間に、錦玉であの人を驚かせて仲直りしようと思ったのよ。それがね、またあの人も同じ袋をもってリビングに入ってきたの。今思い出しても可笑しいわ。ただいまって言うより先に同じ物をもって同じ格好をしているんだもの。二人で目を合わせ、互いの袋を見て、また目を合わせた瞬間に我慢できずに噴き出してしまったわ。それにつられてあの人もお腹を抱えて笑ったの。笑い茸でも食べてしまったくらいにね。あの人は「二人して金魚の錦玉きんぎょくなんて買って」と笑いながら、袋から四角い錦玉を取り出して皿の上に置いた。私もそれに続いて同じ皿の上に載せたの。二匹の金魚を二人でつつきながら今日あったことをお互いに語り合ったりしてね。

すっかり話終わって、笑いつかれたあの人は鞄から小さな箱を取りだしたの。深い青地に金のモールの小さな小箱。開けてみてと促すあの人に従って、そっと小箱を開けてみたの。その中に小さな飴の様な林檎石の指輪がちょこんと現れた。「ママが前欲しいっていってたやつ。赤くて綺麗だよね」なんていわれたものだから、私は金魚みたいになりたくってと言ってみたのよ。その時、背中越しにぴちゃんと私たちの金魚が跳ねた音を聞いたの。

 

そんな私たちの金魚、死んじゃったのね。

食べちゃいたいくらい可愛い、私たちの金魚が。


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