貳話
「つまり、普通は妖怪に触れられるどころか、見ることすら出来ないってわけですね?」
「うん、そう。私の眼鏡も妖異を可視化するものなの」
そう言って先輩はブレザーのポケットから黒縁の眼鏡を取り出した。
「じゃあ、先輩は別に目が悪いってわけじゃないんですか?」
「うん、視力〇.三だもん」
「めちゃめちゃ目悪いじゃないですか!」
「え? でも、授業中黒板見るとき以外あまり付けないよ? うざったいし」
「度入ってんのかよ! しかも、そんなすごいアイテムどうでもいいことで使うな!」
「眼鏡買うとお金掛かるし、これなら一石二鳥だし……」
なんだか価値観がよく分からない先輩だ。
「あ、一つ質問なんですけど。その眼鏡って誰がかけても妖怪――じゃなくって、妖異でしたっけ? それが見えるんですか?」
そう言うと先輩は「うーん」と少し悩むそぶりを見せ、
「多分見えない。だって私の視力に合わせてるから、目いい人が付けたらぼやけて見えると思う」
「そういうことじゃねぇーよ!」
こちらの質問はまったく理解されていなかった。
「斎戒に聞けば分かると思うよ。これだって斎戒が用意してくれたものだし」
「斎戒さん? それは人間ですよね?」
思わずそう尋ねてしまうところが僕が普通ではない証だった。
「うん。多分」
「多分ってなんだよ! なんでそんな重要なところ理解してないんだよ」
「あ、人間だった! うん、確かそんなこと言ってた……気がする」
「気がするって……なんか無茶苦茶ですね。とりあえず今からその人のところに行くんですよね?」
「そう。あ、そうだ。あの人も妖異に触れられるよ」
僕は鼓動が速くなるのを感じた。ドクドクと血流が全身を巡り、何とも言えない高揚感を味わうことになってしまった。しかし、
でも、先輩はそう言い加え、
「君とは別の理由だけどね。あの人は厳密には触れられない。他人に、違うな。周囲すべてに触れたと思い込ませてるだけなの」
周囲すべてに触れたと思い込ませているだけ。本当の本当に意味が分からないが、間違いなく僕が今まで出会った人物の中で、最も頼りになる人物であろうことは想像に難くなかった。
三年前のあの事件。
僕が犬に憑かれ、狂った事件。
僕が四匹の鬼を殺した事件。
そして――僕が妖異を見れるようになった。人間としてすべてが終わった。始まりの事件。
「カッコいい叙述をしているところ悪いんだけれど、自己紹介がまだだったね。突然だけど、私は斯波凛。斯学の斯に難波の波に凛々しいの凛」
「本当に突然だな! それに勝手に地の文を読むな! そして漢字の説明が下手すぎる! ツッコミどころも多すぎる! はぁはぁはぁ」
「何に興奮しているの?」
「興奮してねぇよ! いや、していないというのは嘘になるけれど、『はぁはぁ』は別にエロイ意味ではなく、純粋に疲れて息切れをしているときの『はぁはぁ』だからな?」
なんだこの世界大手工場並みのボケ生産速度は。
「どうでもいいから、名前。教えて」
「あぁ、すみません。ツッコミに徹していた所為ですっかり忘れていました。僕は五百蔵禊です。漢数字の五百に秘蔵の蔵って書いて五百蔵。禊は示すに契約の契って書いて禊です」
名前が全体的に難しい僕はわりと名前の説明には慣れている。我ながら上手い説明だと思う。
「よく分からないから紙に書いてくれない?」
「先輩よりわかりやすかったつもりですけどねぇ!」
そんなこんなで自己紹介は無事に終わり、先輩はどうやら斎戒さんという人物(おそらく人間)に電話をかけているらしい。
「終わったよ。今から来いって」
「分かりました」
僕は黙って先輩について行った。
「やぁ、待っていたよ。君が禊君だね?」
先ほどの場所から十五分くらい歩いたところにある怪しげな神社で斎戒と呼ばれる男は会うと同時にそう言ってきた。どうやらこの男はよくここにいるらしい。住んでいるかどうかは知らないけど。
僕は二十代後半くらいの謎めいた男をイメージしていたのだが、それは唐突に思いっきりぶち壊された。目の前にいるこの男はどう見積もっても三十代後半だ。下手をすれば四十を超えていても不思議ではない。いわゆるアラフォーだ。
妖怪やら幽霊やらを相手取る職業と聞いていたので、もっと神秘的というのは幻想を抱きすぎなのかもしれないのだが、もっと清楚な格好をしているとばかり思っていた。だが実際は、よれよれのピンクのシャツにダメージジーンズと言っていいのかどうかすら怪しいボロボロ――というより修復不可能に近いジーンズを穿いていて、髪はよく言ってナチュラルヘア、悪くというか普通に言えばボサボサで、目はいつでも眠そうにしていて半開き、とても妖怪やら幽霊を相手取る職業の人間に見えないどころか、働いているのか――もっと言えば住所や戸籍はあるのかと疑いたくなるレベルだった。
そしてあろう事かそのおっさんは、
「しばりん。おっぱい揉ませて!」
思わずぶん殴った。初対面とか年上とかそういうのはまったく気にならなかった。
「死ね! 本気で言ったのは人生で初めてだけど、死ね!」
「おいおい、初対面で死ねとはご挨拶じゃないか」
僕は先輩の方を向いて、
「いつもこんなこと言われてるんですか!」
「うん。いつも断ってるけど……」
「当たり前です!」
「でも、あまりにもしつこいから三千円くれればいいかなって……」
「安いよ! しかも、よくないです。全然よくないです! それ立派な犯罪ですからね。ただの少女売春ですからね!」
僕は息が切れ切れになりながらなんとか自分の主張を終える。
「まぁまぁ、そんなことは置いておいて」
置いておくなというツッコミは埒が明かなそうなので廃棄した。コンビニの店長より潔く廃棄した。
「僕は社斎戒。ここらの異祓いたちをまとめている者だ。異祓いというのはしばりんから聞いているよね?」
「まぁ、一応は」
ここに来るまでしばりんこと、斯波凛先輩からはある程度の説明を受けていた。
「念のため説明しておくと、異祓いとは異を祓う者たちを指す言葉だ。異というのは君も馴染みのある妖異――つまり、妖怪とかだね」
「そう言えば、なんで妖怪をわざわざ妖異なんて呼ぶんだ?」
僕はさっきの件ですっかり斎戒に対しての敬意や尊厳というものを無くしてしまった。当然だろう。だから、敬語も当然使わなかった。
「あぁ、それはね。都合がいいからだよ、そっちの方が。妖怪、なんて呼び方をしたら僕たちが祓うのは妖怪だけになってしまうだろ? もちろん妖怪専門の祓い屋さんもいるけれど、僕たちは違う。悪魔や神様、妖怪や幽霊。例えどんなものであったとしても、それが人にとって有害な人ならぬものなら祓うんだよ。だからそいつらをみんなまとめて“妖異”と呼んでいるんだ。あくまで妖異を祓う、“異祓い”なんだ」
腑に落ちた。という言葉は間違えているのかもしれないけれど、僕にはそう表現するしかなかった。今まで妖怪妖怪と言ってきたけれど、一度だって確信を持って妖怪と言ったことはなかった。だってアレは妖怪だったかもしれないし、幽霊だったかもしれない。そして、神様であった可能性すらあったのだ。だからそういった訳の分からないものは、すべて妖異と言ってしまった方が、斎戒の言葉を借りるようだけれど、都合がよかった。
「ところで禊君。君は妖異が見えるそうだね」
僕が「うん」と答えると、斎戒はニヒルな笑みを浮かべていた。
「ここで少し話しておくとね。裸眼、というか普通の状態? あぁ、あれだ。朝起きたときみたくなんもしてない状態でさぁ、妖異が見える人間っていないはずなんだよねぇ。僕はそもそも見えないし、しばりんだって眼鏡がなくちゃ見えない。他の異祓いだって元々妖力が強い人が妖力丸っていう妖力を一時的に底上げするドーピングアイテムか、そんなような効力を持つ術をつかわなきゃ見えないよ。触るなんて言ったらそれこそしばりんの蜘蛛切みたいな伝説級の武器を持って来なきゃ無理だ。そりゃ昔はいたよ。昔と言ってもうん百年前だけど。昔の人は今の人より何倍も妖力が強かったからねぇ。だから――」
斎戒はそこで言葉を切った。意味深に。
「妖異が見える、ましてや触れるとなったら、そりゃ妖異そのもの以外あり得ないんだよ」
妖異そのもの。僕が? あの鬼や僕に憑いている犬と同じように?
「まあ、安心していいよ。という言葉には少し語弊があるのかもしれないけれど、少なくとも僕たちがこうして見えている以上、君が妖異であるはずがないんだ。言うなれば、今の君の状態は、五五パーセントが人間で四五パーセントが妖異である状態だね。僕の予想からすると。ま、このパーセントというのはやっかいなものでね、一パーセント変動すると差は二パーセント動くものなんだよ。気をつけた方がいいよ。今の君の状態は本当にギリギリだからね」
もしも、もしもそれが本当なら、僕はギリギリなんて状態じゃない。辛うじて過半数が人間が占めているからいいものの、あと数パーセント妖異側に傾いてしまえば……僕は人間をやめることになる。というより、すでに半分やめているようなものだ。
「一応言っておくけれど、妖力は誰でもあるもんじゃないよ? まぁ、僕みたく全くないというのも珍しいのだけれど、かなり妖力が強い人が使わないとしばりんの眼鏡も妖力丸もまったく効果がないよ」
疑問が解消されたのはとても嬉しいのだけれど、状況が状況だ。あなたは半分人間ではありません、と言われたところで納得できるはずもない。してはいけない、残り五五パーセントの人間性に賭けて。なんて皮肉だ。我ながら笑いがこみ上げてくる。
「私は何をすればいいの? 禊君の妖異の部分だけ斬ればいいの?」
斎戒は冷笑する。
「そんなことをしたら禊君が死んでしまうよ。火傷ですらたった三分の一で死んでしまうんだよ? 体の半分を切り取って生きていられるはずないじゃないか。異祓いの王と呼ばれるこの僕だけれど、さすがに約半分が妖異になった人間を祓う方法なんて聞いたことがないね。申し訳ない」
異祓いの王。先輩からは聞いていた。この斎戒という男はその筋ではかなり有名らしい。というより、誰もが知る人物だ。だから、多少の希望は持っていた。だから、だからこそ。この男の口から謝罪が出てくるということは、医者の余命宣告よりも残酷だった。
藁にもすがる思いで僕は言葉を口にした。
「斎戒。お前の力でどうにか出来ないのか? 妖異に触れられるんだろう? だったら、その力で妖異だけ抜き出すってことは――」
「無理だ」
きっぱりとそう言われてしまった。
「禊君。何か勘違いしているようだけれど、僕はなんの力もないよ? さっき言ったと思うけれど、僕には妖力が全くないんだ」
「全く、ない……」
「まぁ、突然あんなこと言われたら人の話を聞いているどころではないよね。もう一度言うけれど、僕には妖力が全くない」
「じゃあ、どうやって……」
どうやって異祓いが出来るんだ。妖力がないと言うことは斎戒の話通りなら、どんな手段を持ってしても触れられるどころか、見ることすら叶わないはずだ。
「本来なら君も世にも珍しい、妖力ゼロの人間のはずなんだ」
「なんでそんなこと分かるんだ?」
「だって君の名前って、僕と同じ禊でしょ?」
同じ? 何を言ってるんだ?
「禊。それは体を清めるって意味だろう? 僕の斎戒って名前も同じような意味なんだ。だからそんな清い名前を持つ人間が、妖力なんて怪しげなもの持っているはずがないんだ」
「なんでたかが名前で……」
「たかがなんて言ってはいけないよ禊君。名前とは呪いだよ。親は子を姓で呪い、自分の子供として縛り付けるんだよ。いまだにタイとかでは災厄から守るために本名を伏せ、動物の名前なんかを使う風習もあるんだ。それだけ名前というのは重要なんだ」
「…………」
「それに僕は妖力を持たないからこそ、異祓いの王と呼ばれるまでの存在になったんだよ」
「どういう、ことなんだ?」
「それじゃ、いろいろ話は長くなるけれど、いいかな?」
僕は首を縦に振り、斎戒を見つめた。
「そうだね、何から話そうか――」