拾壱話
中に入ると実に簡素な作りだった。
木製の机に同じようなデザインの腰掛け椅子が二つ、来客用の二人がけのソファが一つと差ほど大きくない年季の入った本棚。それと簡易ベッドと観葉植物が部屋の隅に置いてあるだけだ。
そして十字架を両手で握りしめ、ソファに座っていた中年の女性の姿が目に入った。おそらくこの女性が依頼者さんなのだろう。
僕たちがいることに気がついたのだろう。その女性は立ち上がり「神父さん。その方たちは……」と不安そうに尋ねた。
いきなり神父が子供二人を連れてきたとなれば、不審を抱くのも当然だろう。僕はどう言い訳しようかと悩んでいると、
「安心してください、佐山さん。この方たちは私とは少し専門が違いますが、れっきとしたプロです。万が一のことも考えて勝手ながら私がお呼びしました」
聖職者として嘘はどうかと思うが、先輩は一応プロだし、僕もプロの手伝いとしてきているわけだから、まるっきり嘘でもないのかな。小難しいことはよく分からないけれど、どうやら佐山さんと呼ばれる依頼者さんはそれを信用してくれたようだ。
「お伺いしたいのですが、五百藏さん。今、悪魔は見えていますか?」
僕は改めて部屋を見渡すけれど、それらしきモノは見当たらなかった。事実をそのまま霊山さんに伝えると、「そうですか、分かりました」と言って、佐山さんに向き直った。
「それでは今から悪魔祓いをしますが、準備はよろしいですか?」
「はい。……お願いします。どうか神よ。私をお救いください」
佐山さんはまた十字架を握り直して、天を仰いだ。
多分その行為が佐山さんにとっての精神安定剤なのだろう。かつで僕が暴れていたことと同じように。
霊山さんはまず佐山さんをベッドの上に寝かせた。
次に金の杯を取り出した。
「この中には悪しきものを祓う神聖な油が入っております」
そう説明を加えると、佐山さんの腕や顔に塗っていく。
しかし、ただそれだけなのに佐山さんは苦しそうな表情を浮かべている。神聖な油というのはそれだけで効果があるものなのだろうか。
「さて、これからあなたに憑いている悪魔を呼び出しますが、準備はよろしいですか?」
「……お願いします」
霊山さんは首に掛かっていた十字架を手に取り、佐山さんに向けて翳すと、それだけで苦痛の色を濃くした。
そこで、僕はぞっとした。
特に何かが見えたとかそんなわけではないのだけれど、僕はぞっとした。空気というか雰囲気ががらっと変わった。それこそ冷房を一気に効かせたような、そんな明確な差だった。
恐怖、畏怖とはまるでこの状況を指すためだけに作られた言葉ではないか、と思ってしまうほど、それは明らかなものであり、理性や何やらで体を押さえつけることは不可能なほどに震えた。震え上がった。
今まで僕が相手にしてきたものとはまるで格が違った。多分四鬼ほどではないのであろうが、それでも僕の体を震え上がらせるには、場を凍り付かせるには充分だった。そもそも四鬼のことはほとんど記憶がないため比較のしようがないのだけれど、四鬼に肉迫しているといっても過言ではないのかもしれない。
「悪魔よ! 名を名乗れ!」
霊山さんが怒鳴りつけるも、佐山さんが苦しそうに呻くだけで、特に変わったことはない。
「名を名乗れ!」
違う、これは悪魔じゃない。そこで僕は何の根拠もなく確信した。
それを伝えようとしたけれど、言葉が出てこなかった。
喋れない。
体が震えすぎて喋れない。
もちろんそんな経験は過去に一度もなかったから断言はできない。
ただ喋れない。
しかし霊山さんは繰り返し、悪魔ではない何者かに言う。名を名乗れと。
そこで佐山さんから苦痛の表情が消えた。
そして、
『I'… n…… a D…v…l』
何かが言葉を口にした。
耳を傾けもう一度聞く。
そして、何かが言った。
『I'm not the Devil』
私は悪魔ではない、と。
霊山さんは聞こえているのかいないのか、それでも繰り返し問答する。
名を名乗れ、と。
そして何かは言った。
『No name』
名はない。
悪魔でもなく、名前もない。そしたらいったい何なんだ。
訳がわからなくなり先輩の方を見るが、僕と同様固まっていた。
無理だ、どうしようもない、こんなの祓えるわけがない、正体不明の妖異なんてどう相手をすればいいっていうんだ、僕にどうしろっていうんだ、どう考えたってこんな身動きもとれない状況じゃどうしようもないじゃないか、何がしたいんだ、そもそもなぜ僕がこんなところにいるんだ、妖異なんか大っ嫌いだ、そんな僕がなぜわざわざ正体不明の妖異を祓わなければいけないんだ、訳がわからない、誰なんだよこいつは、
そこで誰かの声が入る。
「ここにいたのか。みんな元気でやってるかな? ちょっと心配になって来ちゃったよ」
その声は――とかいう演出はやめておこう。こんな男にこんな勿体ぶった演出なんて必要ない。こいつはただの妖異オタクで、ただの――異祓いの王だ。
社斎戒。
今日は来ないはずのこいつがなぜここにいるんだろう、という疑問は置いておいて、早く助けて欲しかった。しかし、言葉を発せない僕と先輩はそれを伝えることもできず、それを良いことに斎戒はベラベラと余計なことを喋り出す。
「いやー、大変そうだねぇ。ちゃちゃっと終わらそうよ禊君。え? 何で君喋らないの? 怒ってるの? 確かに約束は破ってしまったのかもしれないけれど、見てくれよ、こうして僕はちゃんと来ただろう。これは約束を破ったうちに入らないと思わないかい? ……そうかい。そこまで怒っているのかい。すまなかった。これからは気をつける。これでいいだろう? さぁ、いつまでも怒っていないで状況を説明してくれ。実際のところ意味がわからないんだよ。だってここには何もいないじゃないか。まさくんは演劇の練習でもしているのかい? 悪魔はいったいどこにいるんだ? こんなことしていないでさっさと終わらせてくれよ。僕は今眠いんだよ。ん? なんかそのおばさん様子がおかしいね。どうしたんだい? 救急車を呼んだ方がよくないか?」
こいつは何を言っているんだ。
何もいない。そんなわけがない。何かが絶対にいるはずだ。
これ以上訳がわからないことが起きてたまるかよ。何もいないのに僕たちの動きが封じられている。そんなオカルトな話があるのか? いや、妖異自体オカルトではあるけれど、それでも一応法則めいたものを持っていることを斎戒から学んだ。これはその法則にすら当てはまらないのではないか? 僕も妖異のすべてを知っているというわけでもないから、強くは言えないが、少なくとも僕や斎戒が知っているものとは別のものだろう。
あれは多分、僕みたいな存在だ。妖異でも人間でもない者。
同種。同族。しかし決して同一ではない存在。
そこまで絞れれば一つしかないじゃないか。
あいつの正体は……容易にも見えるし人間にも見える、しかし決してそのどちらでもない者が作った、新種の妖異。いや、妖異とは自信を持って言えない。例えるのなら『嘘』だ。
嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。
嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。
嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。
成分表を見れば嘘100%と表記されているに違いない。嘘が物質であるかどうかは、そもそも嘘なのだから意味のない話だ。
あいつは嘘の塊。嘘をつき、嘘に憑かれて、嘘に疲れてしまった存在、『嘘憑き』だ。
彼女自身あからさまな伏線だったけれど、まさかこんな早い段階で回収できるとは思ってもみなかった。
『嘘憑き』が蒔いた種。多分それが今僕らの目の前にいる奴の正体だ。