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翡翠書庫の鍵はわたくしが預かります

作者: くまくま
掲載日:2025/10/30

 わたくしの名はラフィーナ・ド・ヴァンホルン。王都で五指に入る名門の娘でございました――ええ、過去形で語るのが礼儀でしょうね。なにしろ本日、王太子殿下より婚約破棄を賜りましたもの。「君の冷ややかさには愛がない」だなんて、詩人顔負けの言い回しですこと。


 殿下の腕には、新たな「真実の愛」を名乗る聖女殿。涙の一粒まで計算された、見事な演出。拍手の音が止んだ瞬間、わたくしは一礼し、扇を畳んで申し上げました。「ごきげんよう、殿下。わたくしは、あなたの脚本に出演する意思を失いましたの」


 歓声はざわめきに変わり、やがて風になりました。王城の大階段を下り切った時、背中に残ったのは軽い冷気と、自由という名の熱だけ。


 追放先は北東辺境、アスフェル辺境伯領。かつて大陸随一の蔵書を誇った魔道書庫があり、今は封鎖中――火災と崩落と噂。わたくしの役割は……役割、ですって?王太子の元婚約者は、役割ではなく職能で生きるものですわ。


 迎えに現れたのは、黒外套の青年騎士。名をジークと申すそう。「道中、警護いたします」「結構よ。あなたは前、わたくしは横」目配せだけで把握する類の人間は、信頼に値します。彼は黙って頷きました。


 辺境の空は低く、風は紙のように薄い。辺境伯は壮年の温厚な方で、初対面の言葉が「手を貸してくれ」でしたのは、なかなか好ましい正直さでした。「書庫を、再び開きたい。人も知恵も乏しい。王都は助けぬ」彼の机上には、焼け焦げた鍵束と、無数の未処理文書。わたくしは手袋を外し、最も古い鍵を取って言いました。「まずは、鍵と帳簿を整理いたしましょう。災害は忘れる前に書き換えるものです」


 翌朝から、わたくしは書庫跡の調査に着手しました。崩落部は立ち入り禁止。足場、支え木、粉塵。瓦礫の匂いに混じって、まだ生きている紙の匂いがします。ジークが言いました。「危険です」「危険でない改革などありませんわ」無謀ではなく、段取りの話ですの。


 まず、救い出すべきものの優先順位を定めました。法規、薬草学、地誌、そして領政の簿冊。読み書きの場を失った子らのため、初学書の現存も確認。並行で、領主館の一室を暫定の「学舎」に。机と板、チョークと砂消し。足りない物は町の職人組合に外注、代金は領の備蓄布を払い下げて捻出。わたくしは見返りに、組合長に条件を出しました。「工房の徒弟にも、夕刻一刻だけ学舎へ来させること」


 最初に来たのは、靴屋の徒弟ミーノ。次に、鍛冶のルネ。字を持たぬ手が、数字と音を覚えるたび表情を変える。わたくしは気づかぬふりで、胸の内側を少しだけ温めました。誇りは、他者の視線のためにあるのではなく、自分の背骨を立てるためにあるのだと。


 昼は書庫の目録作り、夕刻は学舎、夜は領政の帳簿。ジークは黙々と搬出と警備。侍女のノラは、湯と簡素な食を忘れない。辺境伯は毎夜、報告の全てに耳を傾けました。王都の社交に比べれば、会釈の一つにさえ意味がある暮らしです。


 ひと月もしないうちに、書庫の一角が息を吹き返しました。壁に掛けた黒板の前で、わたくしは告げます。「ここは学ぶ者の庭、身分を問わず招かれています。ただし、怠惰と虚飾は入室を禁じます」子ども達は笑い、職人は頷き、兵は少し居心地悪そうに耳を赤くしました。


 そんな折、王都より手紙。封蝋は王家。文面は簡潔。「聖女の託宣に誤り。王太子殿下は体調を損ね、政務に支障。ラフィーナ殿、至急参内されたし」わたくしは封を閉じ、扇で軽く叩きました。「学舎の開講式は来週。わたくしの不在で始めれば、未来の背骨に皹が入るわ」辺境伯は困ったように眉を下げ、「開講後でも構わぬ」と笑いました。「君の都合を優先しなさい。王都は、我々ほど学びに寛容ではない」


 開講式の日、ノラが縫い合わせた旗が風に鳴りました。読み書きを得た徒弟が、初めて領政の写本を手伝い、古書を洗い、紐で綴じる。ジークが静かな声で告げました。「ラフィーナ様、目録第一冊が完成です」「よろしい。背を伸ばして歩きなさい。書物の背のように」


 それから間を置かず、二度目の王命。今度は「勅」。さすがに虚礼では退けられません。わたくしは旅装を整え、ジークとノラを連れて王都へ。懐には、学舎の入学名簿と、救出した法規集の正写、そして一本の鍵――書庫の最上段、翡翠の装飾が施された箱を開ける鍵。


 王城の大広間は、あの日と寸分違わず煌めいていました。違うのは、わたくしの足取りと、連なる視線の温度だけ。王は病床の王太子の代わりに玉座にあり、聖女殿は目を伏せて祈りの姿勢。宰相が進み出て言いました。「ラフィーナ・ド・ヴァンホルン、汝を不当に断罪した件、王家は再検分の上、名誉を回復する。望みを述べよ」


 わたくしは頭を垂れ、顔を上げ、扇を畳みました。「望みは二つ。第一に、辺境アスフェル書庫の再開に王家の保護を。第二に、学舎を公認の初等教習所とし、身分によらぬ入学を許す勅を」ざわめき。誰かが笑い、誰かが顔を曇らせ、王は沈黙を保ちました。聖女殿が小さく震え、「わたくしは、間違えて……」と囁くのが聞こえました。


 王はやがて頷き、わたくしに視線を注ぎました。「なぜ、婚姻や地位ではなく、書と学を望む」「誇りは血で支えられますが、未来は文字で支えられます。殿下がわたくしに与えたのは自由、辺境がわたくしに与えたのは役目。どちらも、虚飾では担えません」


 宰相が口を開きかけた時、わたくしは懐から翡翠の鍵を取り出しました。「これは、王都大書庫の姉妹にあたる、辺境書庫の最上段を開く鍵。中には旧法規の改訂原案が眠っておりました。王都にとっても、無価値ではありますまい」大広間に、さっと重みが落ちました。軽蔑は実務の前で沈むものですわ。


 王は笑いを飲み込み、短く告げました。「よい。保護を与える。初等教習所も許す。……王太子については」「必要ございません」わたくしは扇を畳み直しました。「婚約の回復も、謝罪も、いずれも。わたくしは学舎の開講式第二週に戻らねばなりませんの」


 帰路、王城の回廊で聖女殿に声を掛けられました。「どうか、許して」わたくしは首を振り、「許しはあなたの救いにはなりませんわ。あなたが救うべきは、あなたの信じる言葉の重さです」とだけ告げました。彼女は泣き、わたくしは歩みを緩めませんでした。


 辺境へ戻る馬車の中、ジークが珍しく問いを投げました。「王都に居れば、楽でしょうに」「楽は、退屈と紙一重よ。わたくしが欲しいのは、眠る紙を起こすための苦労」ノラがくすりと笑い、膝の上の名簿を整えました。


 春、学舎の窓は朝から開け放たれ、書庫は静かな喧噪で満ちました。靴屋のミーノは読み書きを得て、伝票を付けられるようになり、鍛冶のルネは数字に強くなって工賃の交渉で損をしなくなりました。兵は当番表を自ら書くようになり、辺境伯は夜更けに灯りを一つ減らしました。


 ある夕刻、書庫の最上段で翡翠の箱を閉じ、鍵を指に回しながら、わたくしはそっと息を吐きました。「ごきげんよう、過去のわたくし。おはよう、明日のわたくし」ジークが下から呼びます。「ラフィーナ様、子ども達が『背を伸ばす遊び』を考えたそうで」「授業に取り入れましょう。背骨は、遊びで育つこともありますから」


 断罪は物語の終わりではありませんでした。あれは、背筋を正す合図。ただそれだけ。わたくしは今日も、紙と子ども達の背を整えながら、扇を畳んで微笑みます。誇りは静かに、しかし確かに音を立てて、未来へ頁をめくるのです。

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