この球技、名前からして謎
Scene 1:朝練と、問い
朝の体育館はひんやりとしていて、まだ誰の声も響いていない。
だだっ広いドーム型のコートに、ラリーの音だけが小気味よく反響していた。
――パスッ、パスッ。
反射的に足が動く。ボールの回転を読む。わずかな跳ねを予測して、腰を落とし、打ち返す。
「ハァ……っ、はぁ……なあ、凛花」
空は息を整えながら問いかけた。
ドームの真ん中、ボールを軽くつついた凛花が、ラケットをくるりと回して振り返る。
「ん?」
「そもそもさ、“360ボール”って、なんでそんな名前なんだ?」
その問いに、凛花は一瞬だけ驚いたような顔をして、それからニヤリと笑った。
「このドーム、どこを向いてても“正面”なの。ボールは360度、どっちにも跳ね返る。
だからプレイヤーも、360度どこにでも動ける。そういう意味」
「へえ……」
空は無意識に天井を見上げた。
まるで惑星の中にいるみたいな、丸く閉じた空間。
そこでは“前”も“後ろ”も関係なく、ただボールの動きだけがすべてだった。
――限界まで反射して、飛んで、返す。
それが、この球技。
どこまでも自由で、どこまでも予測不能。だけど確かに、体が反応する。
空はもう一度ラケットを握りなおした。
「……やっぱ、おもしれぇな、この競技」
ふっと笑うと、凛花も嬉しそうにラケットを構える。
「でしょ?」
ボールが、再び跳ねた。
Scene 2:同好会申請
チャイムが鳴り終わるよりも早く、空は凛花に腕をつかまれていた。
「はいっ、羽柴くん、こっちこっち!」
「ちょ、ちょっと待てって。どこ行くんだよ……!」
「職員室!」
「職員室⁉ なにやったんだよ……俺じゃないからな!?」
「やってないやってない。やるのはこれから!」
凛花のテンションは朝練よりも跳ねている。
まるで360ボールのように、何の前触れもなく突然飛び込んでくるから怖い。
そしてたどり着いた職員室前――
緊張感とは無縁そうな笑顔で、凛花は言った。
「さあ、今日はいよいよ“正式申請”するよ!」
「……え、何を?」
「“360ボール同好会”、だよ」
ドヤァ、という効果音が聞こえそうな顔だった。
「マジでやんのかよ……」
凛花はすでに提出用の書類を手にしていて、その勢いのまま職員室に突入。
空も流されるように後に続く。
中では、のんびりコーヒーを飲んでいた中年男性――体育科の猪俣先生が、書類を見て目を細めた。
「……ふむ。同好会、ねぇ」
「お願いします、顧問先生!」
「んー……まあ、俺はいいけどな。ただし、同好会には“最低3人”の所属が必要だ」
「……3人?」
空の顔が固まる。
猪俣は書類をペラペラとめくりながら、あっさりと言い放った。
「3人いれば、とりあえず“予算”は少し出せる。ボール代もギリ出るな。
でも、今いるのは君たち二人だけ。つまり……」
「“あと1人”が必要ってことか」
空がつぶやいた。
数字だけ見れば簡単そうだが、実際に入ってくれる人間を見つけるのは別問題だ。
「(ハードル低いようで、意外と高ぇ……)」
気づけば、凛花がこっちをじーっと見ていた。
「……な、なんだよ」
「じゃあ、探そっか! 三人目!」
「……え、今から?」
「当然でしょ?」
空は、心の中で静かにため息をついた。
この人のエネルギー、いったいどこから来てるんだろう。
でも、なぜか――悪くなかった。
Scene 3:名前だけで拒否られる
昼休み。
校舎の廊下に、妙な緊張感が漂っていた。
理由は簡単。
空と凛花が掲げている、A4サイズの手作りチラシだ。
「“360ボール同好会、創設メンバー募集中”……よし、完璧!」
凛花が満面の笑みで配るチラシ。だが――
「360……って何?ドローンの大会?」
すれ違った男子生徒が首をかしげる。
「なにその異世界部活……魔法でも使うの?」
隣で聞いていた女子生徒がクスクスと笑った。
さらに別の生徒が、チラシを見て即答する。
「え、運動? むり」
即・斬・却。
紙よりも早く、彼らの興味は宙を舞って消えていった。
「……」
空は無言でチラシを見下ろす。デザインも悪くない。説明もちゃんと書いた。
けれど、誰も“360ボール”という名前にピンときていないのが明らかだった。
「やっぱ、ネームバリューって大事なんだな……」
知らないスポーツなんて、興味持たれるはずがない。
「ちょっと、凛花。競技名、変えるってのはどうだ? 例えば“次世代超球技”とか、“跳弾スフィア部”とか……」
「やだ」
凛花は即答した。
「360ボールは、360ボールなんだもん。だって、その音、かっこいいでしょ?」
「……響きだけなら、まあ」
「でしょ!」
空は心の中で小さくため息をついた。
この人、鋼のメンタルしてんな……。
周囲の視線は冷ややかでも、凛花は一切めげない。
チラシを配りながら、すれ違う人に次々と声をかけていく。
「今、あなたにだけ、最高のスポーツとの出会いをお届け中!」
「サインは後ででいいよ! まずは体育館に来てみて!」
「笑顔、ゼロ……でも情熱、100!」
……その情熱、たぶん届いてない。
でも不思議なことに――空は少しだけ笑っていた。
「(やれやれ……こんな部活、入るやついるのかよ)」
でも心の奥では、どこかで期待してしまっている。
“もう一人”が現れる未来を。
Scene 4:あらわれる“見学者”
夕暮れの体育館。
高い天井に反響する、ボールの連続音。
バウッ、バウッ――シュッ。
空と凛花は、中央のドーム型コートでラリーを続けていた。
反射壁にぶつかって跳ね返るボール。角度を見極めて、正確に捌く。
たった二人の、静かで熱い時間。
……そこへ。
「……あの、見学って、できますか」
空気を切り裂くような、か細い声が背後から届いた。
「ん?」
空が振り向くと、入口の影に一人の男子生徒が立っていた。
制服のブレザーが少し大きめで、肩にゆとりがある。
髪は少しぼさっとしていて、口元にかかるほど前髪が長い。
体格も小柄で、どう見てもまだ中学生に見える――が、その胸元には一年生の名札があった。
「……望月律です。サッカー部、入らなかったんで」
名前のあとに、なぜか言い訳のような一言が付け加えられる。
「おおー! 来たね、救世主!」
凛花がすかさず跳ねるように近づく。
「う、救世主って……」
「うん、同好会申請が通るための、最後のピース! つまり、貴重な“三人目”!」
「まだ……見学したいだけなんですけど……」
律の声は小さく、それでも視線だけはコートの中心をじっと見つめていた。
跳ねるボール。
音を立てて回転し、壁に当たって反射し、再び跳ね返る。
その動きを、食い入るように追いかける。
「……なんか、面白い軌道してますね」
律が呟く。
まるで、ボールが生き物のように動いているとでも言うかのように。
「だろ?」
空が、少し得意げに答える。
「音がさ、他の球技と違うんだよ。なんかこう……“戻ってくる”感じがするんだ」
「反響と、回転と……うわ、これ、空気抵抗もあるんですね。ちょっと変なスピンになる……」
律は、目を輝かせながら前に歩き出していた。
ボールの軌道に、吸い寄せられるように。
「……あ、じゃあ僕、少しだけ触ってみてもいいですか?」
「もちろん!」
凛花が満面の笑みでボールを手渡す。
ボールを受け取ったその瞬間、律の瞳の奥にかすかな“火”がともる。
「(これ……楽しいかも)」
その呟きはまだ、誰にも聞こえなかった。
Scene 5:律の初体験
「じゃ、まずはやってみよっか」
凛花がニコッと笑いながら、空と律の間にボールを置く。
「空、軽くラリーしてあげて。最初はね、ほんと“感覚”だから」
「お、おう。……律、準備いいか?」
「はいっ……!」
小さな声ながら、はっきりとした返事。
その瞳は真剣そのものだった。
空は軽く息を吸い、手にしたボールを持ち上げる。
そして、慎重に――
「それっ」
ポンッと、浮かせるように優しく打ち出す。
放物線を描いたボールが、ふわりと宙を舞う。
――次の瞬間。
「っ――!」
律の細い腕が鋭く反応した。
ビシッ!
小さな手から放たれたショットは、きれいなスピンを描いて壁に当たり――
角度を変えて、空の方へと跳ね返ってきた。
「おおっ!? 返ってきた!」
空が驚きながらも再び打ち返す。
だが、律の足が――
「うわっ、あっ!」
スリップするように滑り、コートの上で大の字に転倒。
軽い音を立てて、尻もちをついた。
「いってて……」
しかし――その顔には、痛みとは真逆の、爆発するような笑顔が浮かんでいた。
「た、楽しい……! これ、すごい……!」
床の上から見上げた視界に映るのは、ドームの天井。
音も、光も、すべてが回転しながら、彼の中を駆け抜けていた。
「うわ、すごい。なんだろこれ……手に残る感覚、ずっと続いてる……!」
律がぽつぽつと興奮を言葉にし始める。
「回転と、反射と……距離感、全然読めないのに、すっごい自由……! っていうか、予測できないのに“気持ちいい”!」
その一言に、空と凛花は思わず顔を見合わせた。
――そして。
「……ははっ」
空が吹き出す。
凛花も、くすっと笑いながら肩をすくめた。
「やっぱりね。こうなると思ってた」
「ほんと、最初は誰でも転ぶのにな……」
「でもその転び方、センスあるよ。うちに向いてる」
凛花が手を差し出す。
律は、照れくさそうに笑いながらその手を取った。
夕焼けの光が、三人の影を長く伸ばしていた。
その真ん中で、ボールがまだ、軽やかに跳ねていた。
Scene 6:3人目、加入
「これで、同好会、成立です!」
放課後の職員室、少し汗ばんだ制服姿の凛花が、高らかに宣言する。
その隣で、空と律が並んで立っていた。
職員室の奥で、苦虫を噛み潰したような顔をしていた猪俣先生が、眼鏡をずらしながらふうとため息をつく。
「……お前ら、本当に始めちゃうのか。“360ボール”なんて、今さら」
「始めちゃいます」
即答する凛花。その瞳に一片の迷いもない。
「奇特な奴らだな、おい……。ま、最低人数はそろったし、予算もゼロじゃない。正式に“同好会”として認めてやるよ」
「ありがとうございますっ!」
凛花が満面の笑みで頭を下げ、横の空と律も思わず釣られて頭を下げた。
***
夕暮れ。
ドーム型の体育館の隅、金網のかかった器具倉庫。
ギイィ――という鈍い音とともに、倉庫の扉が開く。
空が中を覗きこむと、天井の低い倉庫の奥に、古ぼけたネットと、埃をかぶった白いボールが山積みにされていた。
「うわっ、ボールが……これ、何年もの?」
「懐かしいなー。この印、前の代の“大会公式”モデルじゃん」
凛花が無邪気に手を伸ばし、ボールをひとつ拾い上げる。
律も隣で目を輝かせながら手にとり、そっと回転をかけてみせた。
「……回転、まだ生きてますね。この子たち、捨てられてなくてよかった」
倉庫の中、静かな空気の中で、空だけが少しだけ黙っていた。
部屋の隅に積もった埃。
白いボールの無数の表面キズ。
それらを見ながら、彼はふと自分の胸の奥に触れる。
(……なんでだろ)
ただの球技。
ただの偶然。
ただの放課後。
けれどそのどれもが、自分にとって「ちゃんといる」感じを与えていた。
体育の授業でも、昼休みの教室でも感じられなかった“何か”。
それが、いま手の中にある。
――ボールの感触と一緒に。
「……よし。運び出すか」
空は声をかけ、ボールを抱え上げる。
「うん!」
「押忍!」
三人の声が重なった。
その姿は、なんの変哲もない倉庫の出口が、ちょっとだけ眩しく見えるくらいに、まっすぐだった。
ラストナレーション(モノローグ)
名前なんて、ただの入り口にすぎない。
最初は意味なんてなかった。
360ボール? なにそれ。変な名前。そう言われるたびに、ちょっとだけ心が揺れた。
だけど――
それでも、僕らはここに立っている。
コートの中央、誰もいないドームの真ん中で、ただボールを追いかけて。
それだけの時間が、確かに僕の中に何かを残しはじめている。
きっと、この場所はこれから“意味”になっていく。
ただの倉庫じゃなくて、ただの放課後じゃなくて。
ぐるぐると回り続けるボールみたいに、僕らの時間も止まらない。
名前に価値を与えるのは、そこにいる僕ら自身だ。
だからもう、迷わない。
――これは、僕たちの360ボールの、最初の一歩だ。