第一話 『白紙の遺言』
その日、春の終わりにしては肌寒い風が吹いていた。
茜は亡き父・槇村誠一の遺品整理のために、久々に実家へと戻ってきた。かつては政界にも名を馳せた男の家は、今や重たい静寂と埃に支配されていた。
玄関の鍵を開けると、昔から変わらない木の匂いと、かすかな線香の香りが鼻をついた。
「……結局、最後まで、何も話してくれなかった」
父との会話は、ここ数年ほとんどなかった。母は早くに病で亡くなり、兄の悠馬が事故で亡くなってから、父との距離はますます開いた。
「娘だからこそ、守りたかったのかもしれない」
そう言ったのは宗方刑事だった。父の死後、彼が唯一心配して声をかけてくれた存在だ。父とは古い付き合いだったらしく、茜が幼い頃から何かと気にかけてくれていた。
「これ、遺言状……って言っていいのかどうか」
茜は古びた封筒を机に置いた。その中には一枚の白紙の紙。
本当に、ただの白紙だった。
そのことを宗方に相談したところ、「話してみるといい」と紹介されたのが、“伊堂寺の孫”だった。
彼女の名は、伊堂寺結月。
——
『占探堂』。
古びた町の片隅にあるその店は、雑多な古道具や魔除け札の中にひっそりと佇んでいた。暖簾をくぐると、香ばしい線香の香りとともに、不思議な空気が広がる。
「いらっしゃい、槇村茜さんですね」
結月は思っていたより若く、そして妙に大人びた印象を持っていた。白銀の瞳に見つめられると、まるで心の奥底まで見透かされているような錯覚を覚える。
彼女の足元には、ふさふさとした白い毛並みの子犬が座っていた。
「その子は……」
「うちの“番犬”みたいなものです。朔って呼んでます」
朔――つまり黎牙は、クゥンと小さく鼻を鳴らして、茜をじっと見上げていた。
「なんだか睨まれてるような……」
「気のせいですよ。彼、初対面には警戒心強いんです」
結月が微笑むと、朔はフンと鼻を鳴らしてソファの下に潜り込んだ。
茜は鞄から例の封筒を取り出した。
「父が亡くなって、遺言があるって聞かされたのに……中身は白紙だったんです」
「見せていただけますか?」
結月は紙にそっと触れ、白銀の瞳を細める。
「……強い迷いと、後悔。そして……守ろうとする気配があります」
「守ろうと……?」
「あなたをです。書かなかったのではなく、“書けなかった”。もし真実を残せば、あなたまで巻き込まれてしまう。そう感じたのでしょう」
茜は目を伏せた。
「……私、実の娘じゃないんです。母の連れ子で。たぶん、それが関係してるんだと思う。兄が事故で亡くなってから、父は急によそよそしくなった。私が家にいていいのかも、わからなくなった」
「でも、家政婦にはあなたのことをずっと託していたんでしょう? 何も言わなかったのは、不器用な愛情の形かもしれません」
その言葉に、茜の表情が少しだけ揺らいだ。
朔が足元に来て、鼻先で彼女の手をつついた。驚いたように見下ろすと、まるで「それでいい」と言っているような、静かな目をしていた。
「……この子、不思議ね。何考えてるかわかんないけど、どこか安心する」
「不思議な子なんです。言葉は話さないけど、ちゃんと“見て”いますから」
結月は、紙を丁寧に封筒に戻した。
「“白紙”という形に込めた、沈黙の遺言。それがあなたへの、最後の言葉だったのかもしれません」
茜は、しばらく俯いたまま動かなかった。
けれど、やがて静かに立ち上がると、小さく礼を言った。
「ありがとう。……なんとなく、父のことを少しだけ許せた気がします」
その背を見送りながら、結月はそっと呟いた。
「宗方さん、やっぱり見る目はあるのね」
白い狼は、鼻を鳴らして黙って頷いた。
——その“白紙”には、誰にも書けなかった想いが、確かに残されていた。
「…ああは言ったけど、あの手紙、少し気になるのよね」
二人を見送ったあと、結月が口を開く。
「確かにな。あの紙、確かに娘への愛もあったが、他にもあった。恐怖というか後悔というか。あの茜という娘に知られたくない秘密でもあったのだろう。」
彼女、またきっとここに来るだろうな――
朔は言葉にせず、結月を見た。
気付いていたかはわからないが、手紙の違和感は感じていただろう。あえて言わなかったのは、彼女の為か、あるいは____。
「さ、お腹すいたしご飯にしましょ。」
主人が何も言わないなら、自分が言うことでもあるまい。
窓から見える景色を見ながら、結月の背中を追いかけた。
ーーーーーーーー
少し声色の良くなった茜さんから電話をもらい、仕事の休憩がてら1人喫煙所で一服する。
「結月に紹介して正解だったな。」
刑事の宗方は一人呟く。
茜の父、誠一さんとは古い中である。あそこも複雑な家庭ではあったが、まさかこんなに早く娘一人になるとは。
誠一さんの息子で茜ちゃんの兄は交通事故でなくなった。おれはその事件の担当ではなかったため、詳しくはわからないが、妙に犯人が捕まるのが早かった気がする。いわゆる飲酒運転で、犯人はその場からいなくなっていたが、のちに自首し証拠も見つかり逮捕された。
交通事故を起こした人間が、恐怖しその場を去ることも珍しくない。のちに冷静さを取り戻し、自ら出頭するのも十分にあり得る。
ただ、なんとなく違和感のある事件だったと、タバコからのぼる煙をみて思い出していた___。