砂塵の街と失われた声
シエルムの街を後にした結衣たちは、西へと旅を続けていた。数週間後、彼らは「砂塵の街」と呼ばれる交易都市「ザハール」に到着した。シエルムの清潔な空気とは打って変わり、ザハールは常に砂埃が舞い、乾いた土とスパイスの匂いが混じり合う独特の雰囲気を持つ。
「ここは、砂漠の民が築いた街だ。昔は交易で栄えたが、最近は『砂の魔獣』の被害がひどくてな」ガレフが説明した。
街の人々の顔には、疲労と不安の色が濃い。市場の活気もどこか沈んでおり、子供たちの笑い声も少ない。結衣は、街のあちこちで耳にする、かすれたような人々の声に気づいた。
「あの人たち、声が……」
リィンが深刻な顔で頷いた。「ああ、『声喰らいの病』だよ。砂の魔獣が持ち込む、奇妙な病気だ。徐々に声が出なくなり、最後は意識も混濁する。治療法は見つかってない」
結衣の胸に、またしても助けたいという思いが込み上げた。
記憶の残響と「思念投影」の覚醒
ザハールには、かつて古代神が砂漠の民に知識を授けたという伝承が残っていた。街の中心にある、砂に埋もれかけた巨大な石碑がそれだという。
「この石碑、古代神の力を感じます。きっと、何か手がかりがあるはずです!」リィンが興奮気味に石碑に触れた。
結衣も石碑に手を触れる。ざらりとした砂岩の感触、そして太陽に熱された石の温かさが伝わってくる。その瞬間、再び結衣の脳裏に、強烈な光景がフラッシュバックした。
今度は、広大な砂漠の真ん中で、古代神が人々に何かを語りかけている映像だった。しかし、その声は聞こえない。代わりに、人々の頭の中に直接、言葉や感情が流れ込んでくるような感覚。そして、その中に混じる、助けを求める無数の声、そして絶望の感情。それらは、まるで結衣自身の感情のように、彼女の心を締め付けた。
「うっ……頭が……!」
頭痛と共に、全身に電流が走ったような痺れが広がる。結衣の意識が、まるで砂漠の砂のように拡散していくような感覚に襲われた。
「結衣さん、大丈夫か!?」ガレフが慌てて支える。
リィンが結衣の手元に目をやった。「見て! 結衣さんの周りに、光の粒子が……! これは、思念投影のスキルだ!」
結衣の周囲に、微細な光の粒子が渦を巻いている。しかし、その光は不安定で、結衣の思考と感情がそのまま周囲に漏れ出しているかのようだった。ガレフの心配やリィンの興奮が、言葉にならないイメージとして直接結衣の脳に流れ込んでくる。
「うるさい……! みんなの声が、頭の中に……!」
結衣は頭を抱え、その場にうずくまった。新しいスキルは、彼女の理解を超えていた。
スキルの制御と「声喰らいの病」の解決
「思念投影」は、結衣の思考をそのまま周囲に伝えてしまうだけでなく、周囲の思念も無差別に拾い上げてしまうため、結衣は常に頭の中で無数の声が響く状態に陥った。食事も喉を通らず、眠ることもできない。
「これじゃ、まともに動けない……」結衣は憔悴しきっていた。
リィンが、古代神の文献を読み解きながら言った。「このスキルは、本来は言葉を持たない存在と意思疎通を図ったり、遠隔で情報を共有したりするためのものだ。結衣さんの場合は、まだフィルタリングができてないんだ」
ガレフは、結衣の苦しむ姿を見て、静かに言った。「嬢ちゃん、お前はいつも、困っている奴を放っておけない。その気持ちはわかる。だが、まずは自分の力を制御することだ。それができなきゃ、誰も救えない」
ガレフの言葉に、結衣はハッとした。そうだ、このままでは誰も助けられない。
結衣は、意識を集中し、自分の思考を「絞る」練習を始めた。まるで、水が噴き出すホースの口を指で狭めるように、情報量を調整する。最初は難しかったが、少しずつ、特定の相手にだけ意識を向けることができるようになってきた。
そして、彼女は「声喰らいの病」の患者たちの思念に耳を傾けた。すると、彼らの頭の中に、共通して「渇き」と「枯渇」のイメージが強く存在することに気づいた。それは物理的な渇きだけでなく、生命力の枯渇を示唆しているようだった。
「分かった……! この病気は、声帯だけじゃなくて、体内の水分と生命力が枯渇していくんだ! そして、その原因は……砂の魔獣が撒き散らす、見えない毒素だ!」
結衣は、自身の「高速再生」を応用することを思いついた。体内の水分を活性化させ、生命力を高めることで、毒素を排出する。そして、「思念投影」で患者の意識に直接働きかけ、回復のイメージを共有する。
「私にできるのは、直接的な治療じゃない。でも、身体が持つ治癒力を最大限に引き出すことなら……!」
結衣は、ガレフとリィンの協力を得て、患者たちに自身のスキルを施した。最初は半信半疑だった人々も、徐々に声を取り戻し、顔色に生気が戻っていくのを見て、驚きと喜びの声を上げた。
「声が……声が戻った! ありがとう、ありがとう!」
街に、再び活気が戻ってきた。子供たちの笑い声が響き、市場は賑わいを取り戻した。結衣は、人々の笑顔を見て、確かな手応えを感じていた。
闇の追撃者「シャドウ・オーダー」の影
緊迫の遭遇と戦闘開始
結衣たちが廃墟の調査を終え、広間から出ようとした瞬間、空間が歪むような異様な気配が満ちた。
「そこまでだ、古代神の残滓よ」
背後から響いた、深く響く声。振り返ると、黒いローブをまとった数人の影が、出口を塞ぐように立っていた。中央に立つ一際長身のローブの男が、ゆっくりとフードを下げる。その顔には、感情を読み取れない無機質な仮面が貼り付いていた。
「お前たちが…シャドウ・オーダー!」ガレフが低い声で唸り、腰の剣に手をかける。
「愚かな」ローブの男は、何の感情も持たない声で呟く。「我らは新しき神の意思を代行する者。お前たちのような古き残滓は、この世界の再構築には不要だ」
男が右手を軽く掲げると、その掌から黒い靄が凝縮され、鋭利な「影の刃」となって、一直線に結衣たちへと放たれた!
「っ、危ねえ!」
ガレフが瞬時に結衣とリィンの前に躍り出る。その巨体が風を切るように動き、彼の右腕に蓄積された剛腕の力が剣に伝播する。キンッ! 影の刃は、ガレフの剣と衝突し、甲高い音と共に霧散した。だが、ガレフの腕は痺れたように震え、ローブの男の攻撃がただの牽制ではないことを示していた。
リィンが素早く詠唱を始める。「《古き書庫に眠りし知識よ、我らに光を!》」彼女の手元で、青白い光の球体が生まれ、ローブの男たちへと向かって飛んでいく。それは直接的な攻撃ではなく、相手の動きを鈍らせ、視界を奪う「閃光の魔術」だ。
しかし、ローブの男は動じない。その仮面の奥で瞳が冷たく光ると、彼の周りの影が蠢き、閃光の魔術を吸収するように霧散させてしまった。
「無駄だ。我らが「闇の加護」の前に、そんな小細工は通じぬ」
今度は、ローブの男の背後に立つ別のローブの影が、地面に手を突き出す。すると、結衣たちの足元から無数の「影の触手」が地面を這い、絡みつくように迫ってきた!
「くそっ、厄介な!」ガレフは影の触手を剣で薙ぎ払うが、触手は次々と再生し、無限に湧き出すかのように迫る。
結衣の主体性:状況打開への意志
ガレフとリィンが必死に応戦する中、結衣は焦燥感に駆られていた。
(だめだ、直接攻撃じゃ……! ガレフもリィンも、このままじゃジリ貧になる!)
結衣の頭脳は高速で回転する。彼女のスキルはまだ「高速再生」と「微細な記憶の残滓」だけだ。攻撃手段はない。だが、このままでは仲間がやられてしまう。
(何か、何かできることはない!?)
脳裏に、ガレフとリィンが自分を守ってくれている光景が鮮明に浮かんだ。彼らの背中。守りたい、という強い想いが、まるで熱線を浴びせられたかのように結衣の胸を焦がす。
「させるかぁっ!」
その時、結衣の脳裏に、全く新しい「記憶の断片」が鮮明に閃いた。それは、古めかしい碑文に刻まれた、まるで幾何学模様のような紋様。そして、その紋様が、光の壁となって全てを阻むイメージ。
(これだ…!これなら!)
結衣は、一瞬の閃きと、状況を打開したいという強い意志に基づき、無意識に、だが明確な意図を持って両腕を広げた。
「みんなを…守るっ!」
その強い願いが、身体の奥底に眠っていた「熱い何か」を再び呼び起こす。それが全身を駆け巡り、結衣の掌から、淡く輝く透明な壁が展開される! それは物理的な攻撃だけでなく、ローブの男の放つ「影の波動」をも弾き返す、完璧な防御壁だった。
新スキルの覚醒と状況の変化
「ほう…自力で思念障壁を覚醒させたか。やはり、古代神の残滓は厄介だな」ローブの男が、初めてわずかに感情を滲ませた声で呟いた。
「すごい…結衣さん!」リィンが目を輝かせる。
「くそ、手間が増えたな」ガレフは息を荒げながらも、結衣が作り出した障壁を見て、かすかに口元を緩めた。
結衣はまだスキルを使いこなせず、障壁を維持するだけで精一杯だったが、一時的にではあるが、シャドウ・オーダーの攻撃を完全に防ぎ切った。この一瞬の膠着状態が、結衣たちに反撃の機会、あるいは撤退の道を探す時間を与えることになる。
結衣が展開した思念障壁は、ローブの男の予想を超える強度で、影の刃や触手を完全に防ぎきっていた。透明な障壁の向こうで、影の刃が弾け、触手が蠢く光景は、まるで悪夢のようでいて、同時に結衣の意志の強さを象徴しているかのようだった。
「チッ、埒が明かん」ローブの男が舌打ちをする。彼の仮面の奥で、冷たい光が一瞬、鋭く瞬いた。どうやら、彼の「闇の加護」も、この突発的な障壁には即座に対応できないらしい。
「結衣さん! いつまでもは持たない!」リィンが焦れたように叫んだ。彼女の鋭い記憶の整理のスキルが、障壁にかかる負荷を正確に読み取っていた。結衣の顔には脂汗がにじみ、身体が小刻みに震えている。覚醒したばかりのスキルを維持するのは、想像以上の消耗を伴っていた。
ガレフは結衣の障壁の影に隠れながら、状況を冷静に分析する。敵の攻撃を完全に防げている今が、最大のチャンスだ。彼は背後の廃墟の瓦礫に目をやった。
「リィン! アイツらの足元だ! 瓦礫を固めて、一気に崩せ!」ガレフが低い声で指示を飛ばす。
「分かったわ!」リィンは即座に反応し、その瞳に強い光を宿した。彼女のスキルは直接的な攻撃には向かないが、知識と応用力は誰よりも優れている。リィンは素早く手元の古書をめくり、呪文を紡ぎ始める。彼女の足元に魔法陣が浮かび上がり、廃墟の地面に散乱していた瓦礫が、まるで意思を持ったかのように震え出した。
ローブの男は、リィンの動きを警戒するが、結衣の障壁に阻まれて手が出せない。そのわずかな隙が、彼らの命運を分けることになった。
「《大地の記憶、形を成せ!》」リィンが叫ぶと、彼女の詠唱に合わせて瓦礫が集合し、巨大な岩塊となってシャドウ・オーダーの足元を狙い、地響きを立てて隆起した!
「何!?」ローブの男が驚愕に声を上げた。足元から突き上げる衝撃に、シャドウ・オーダーの構成員たちがバランスを崩す。彼らは影の触手で体を支えようとするが、リィンのスキルは物理的な質量を持つため、影の力だけでは支えきれない。
「今だ、結衣! ちょっとだけ、障壁を広げろ!」ガレフが叫んだ。
結衣は歯を食いしばる。ただでさえ限界に近いが、仲間を信じる気持ちが彼女を突き動かした。彼女は意識を集中させ、渾身の力で思念障壁をわずかに拡大させる。その一瞬の隙間から、ガレフが雷光のように飛び出した。
「もらったぜェ!」
ガレフは、彼の剛腕が宿った剣を、バランスを崩したローブの男の側頭部めがけて叩き込んだ。ゴォン! 鈍い金属音が響き渡り、仮面が砕け散る。仮面の下には、無機質な顔の奥に、驚きと、そして僅かな苛立ちの表情が露わになった。
ローブの男は体勢を崩し、よろめいた。彼の「闇の加護」が乱れ、周囲を覆っていた影が一時的に薄れる。好機を逃さないリィンが、さらなる魔法を放つ。
「《光よ、道を照らせ!》」
今度は、リィンの手から放たれた光の奔流が、ローブの男の仮面の下の素顔を容赦なく照らし出した。その光は、影に生きる彼らにとって致命的な眩暈と混乱を引き起こす。
「撤退だ! このままでは計画に支障が出る!」ローブの男が、感情を露わにした焦りの声で叫んだ。
彼らは影の中に溶け込むように姿を消し、静寂が廃墟の広間に戻った。
戦いの後
結衣は、身体中の力が抜け、その場にへたり込んだ。彼女の目の前で、透明な思念障壁がまるで陽炎のように揺らめき、やがて消え去った。
「…やった、のか…?」
「ああ、やったな。お前のおかげだ」ガレフが、荒い息を吐きながら結衣の肩に手を置いた。その手は、普段のぶっきらぼうな彼からは想像できないほど、優しく震えていた。
リィンも駆け寄り、結衣の手を握る。「すごいですよ、結衣さん! あんな風に、瞬間的に新しいスキルを覚醒させるなんて…やっぱり、あなたは特別な存在です!」彼女の瞳は尊敬の念で輝いている。
全身の疲労と、まだ残る恐怖、そして仲間を守れたという安堵感が入り混じり、結衣の目から熱いものが溢れそうになった。彼女は自分が守りたかったものと、そのために未知の力を発揮できた事実に、かすかな誇りを感じていた。
しかし、戦いはこれで終わりではない。シャドウ・オーダーは撤退しただけで、消滅したわけではない。彼らの言葉、「新しき神」や「世界の再構築」という言葉が、結衣の心に新たな疑問を投げかける。古代神の謎は、さらに深く、世界の根源に繋がっていることを示唆していた。
「行こう、結衣。奴らが本格的に動き出す前に、もっと情報を集める必要がある」ガレフが、静かに告げた。
結衣は、仲間たちの顔を見た。彼らがそばにいてくれる限り、どんな困難も乗り越えられる。そう信じて、彼女は立ち上がった。この異世界での旅は、まだ始まったばかりだ。