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異界への誘いと覚醒

結衣の日常は、まるで規則正しいメトロノームのようだった。毎朝、目覚まし時計の電子音で目が覚める。カーテンの隙間から差し込む朝日は、いつも決まった角度で差し込み、彼女の小さなワンルームマンションを照らした。朝食を済ませ、お気に入りのスニーカーを履き、家を出る。駅までの通勤ラッシュの喧騒、電車のドアが閉まる時の「プシュー」という音、つり革を握る手のひらの汗ばんだ感触。会社に着けば、パソコンのキーボードを叩くカチャカチャという音、電卓の数字を打ち込む「ピッ、ピッ」という乾いた音。それが、橘結衣の平凡で、何一つ変わることのない日常だった。


しかし、その日は、いつもと少しだけ違っていた。


転移の予兆

その日の朝、いつものインスタントコーヒーを淹れると、なぜか焦げ付くような、奇妙な金属の匂いが微かに混じっている気がした。鼻を近づけても、カップからはコーヒーの香りしかしない。気のせいか、と結衣は首を傾げた。

通勤の電車内では、いつものようにスマートフォンでニュースを読んでいた。だが、ふと顔を上げた瞬間、窓の外の景色が一瞬だけ、不自然に歪んだように見えた。高層ビルの直線的なラインが波打ち、空の色が深緑色に滲んだかと思えば、すぐに元の景色に戻った。目を擦り、もう一度見直しても、何も異常はない。寝不足かな、と結衣は苦笑した。


オフィスに着き、パソコンを立ち上げた時だった。起動音と共に、ディスプレイに表示されるはずのロゴが、ノイズと共に一瞬だけ、見たこともない紋様に変わった。それは、複雑に絡み合った曲線と鋭角な線で構成された、どこか古代の象形文字のようなマークだった。結衣が瞬きすると、画面は正常に戻り、いつものデスクトップ画面が表示されていた。


「あれ……?」


同僚に「今の見た?」と聞こうとしたが、皆、いつも通り自分の仕事に没頭している。気のせいだと、また自分に言い聞かせた。しかし、背筋を這い上がるような、ぞわりとした悪寒が、その日の結衣にはつきまとっていた。


昼食のため、いつもの定食屋に向かう途中、ふと立ち止まった。アスファルトの道から、微かに土と、何かの植物が焦げるような匂いがする。周りの人々は誰も気にしていない様子で、通り過ぎていく。結衣はしゃがみ込み、地面に手を触れてみたが、ただ冷たいアスファルトの感触があるだけだった。耳を澄ますと、遠くから、聞いたことのない甲高い鳥の鳴き声が聞こえたような気がした。


オフィスに戻り、経理の数字と格闘している最中、突如として彼女の全身がじんわりと熱を帯び始めた。 熱があるわけではない、内側から湧き上がるような、むず痒いほどの高揚感のようなものだった。そして、耳元で、誰かの囁き声が聞こえた気がした。

「……汝に……力を……」

「え……?」

結衣は慌てて周りを見回した。誰も結衣を見ていないし、誰も声を出していない。エアコンの低い稼働音だけが、耳に届く。

それは、彼女の平凡な日常に現れた、微かな、しかし確実に存在する亀裂だった。一つ一つは些細な違和感。しかし、それらが連鎖するように起こることで、結衣の意識の奥底には、日常が崩れ去ろうとしているかのような、言い知れぬ不安が募っていった。

そして、その日の夕方。いつものように計算機のキーを叩く指先、漂うコーヒーの香り、そして窓の外を走る車の音―


――それが、彼女の平凡な日常のすべてだった。しかし、次の瞬間、すべてが溶けるように消え去った。


「…え?」


結衣の足元には、ふかふかとした草の感触。頬を撫でる風は生暖かく、聞いたこともない鳥の声が響く。目を開けば、そこは視界いっぱいに広がる深緑の森だった。空には三つの月が不気味に輝き、見たことのない植物が奇妙な光を放っている。


「な、なにこれ……夢? でも、夢にしては匂いが生々しいし、土の匂いもする……」


混乱の中、結衣は深呼吸をした。肺いっぱいに吸い込まれる、湿った土と植物の香りが、ここが現実であることをいや応なく突きつける。恐怖がじんわりと胸に広がり始めたその時、背後の茂みがガサガサと音を立てた。


「グルルルルル……」


低く唸るような声に、結衣は息をのんだ。振り返ると、そこには漆黒の毛並みを持つ、犬と狼を合わせたような獣がいた。しかし、その体は普通の動物よりも一回り大きく、何より異様なのは、口元から覗く鋭い牙と、血のように赤い眼だった。獣の体からは、獣臭と形容しがたい、生臭い、金属が焦げ付くような異臭が漂ってくる。


「ひっ……!」


恐怖で声も出ない。獣は唸り声を上げながら、じりじりと距離を詰めてくる。その一歩ごとに、地面を踏みしめる鈍い振動が伝わってくる。結衣は足がすくみ、動けない。


獣が跳躍した。結衣の目の前で、巨大な影が覆いかぶさる。鋭い爪が彼女の左腕に食い込んだ。


「いやぁぁああああ!!」


熱い、熱い痛みが腕を走り抜けた。肉が裂ける感触と、生暖かい液体が流れ出す感覚。視線をやると、パックリと開いた傷口からは、どす黒い血が止めどなく流れ出している。その光景に、結衣の脳裏に「このままでは死ぬ」という明確な死の予感がよぎった。


「グギャアアア!」


裂帛の叫びと共に、巨大な牙が迫る。全身が凍りつき、まるで時間が引き伸ばされたかのように、結衣の脳裏に走馬灯が駆け巡った。家族、友人、職場の同僚たちの顔。やり残したこと。言えなかった言葉。


(…あ、私、ここで死ぬんだ…)


そんな諦めにも似た思いがよぎった、その瞬間。

ドクン、と心臓が跳ね上がった。それは、恐怖や絶望とは全く異なる、強烈な脈動だった。身体の奥底から、熱いマグマのようなものが堰を切ったように全身を駆け巡る。


「いやだ…!まだ、死にたくない…!」


意識とは裏腹に、身体が勝手に動き出す。魔物の牙が腕を深く抉り、激痛が走る。普通なら意識が飛んでもおかしくないほどの傷なのに、痛みは瞬時に薄れ、肉が蠢く感覚がする。まるで、なかったかのように傷が塞がっていく。


これは、何?


自分の身体に起こっている異常な現象に、結衣は混乱した。死の淵から引き戻された安堵と、わけのわからない現象への恐怖が同時に押し寄せる。


結衣の内省と考察

数日後、ガレフやリィンに助けられ、少し落ち着いた頃。安全な場所で、結衣は自らの身体に起きたことを何度も思い返します。


(あの時、なんで身体が勝手に…?)


彼女の思考は、いくつかの可能性を巡ります。

•極限状態の産物か? 「あの時、本当に死ぬかと思った。人生で一番怖かった。もしかして、あの死への強烈な恐怖が、私の中に眠っていた何かを引き出したんだろうか? 脳が、身体が、生き延びるために最後の力を振り絞ったとか…?」 結衣は自分の意志とは関係なく発動したことに、本能的な「生きたい」という願いが強く作用したのではないか、と考えます。これは、彼女の「平凡なOL」としての日常では決して経験しなかった、極限状況がトリガーになったという解釈です。


•元々潜在的に持っていたもの? 「でも、もしそうなら、なんで私だけ? 普通の人にはできないことだよね。もしかして、私、元々何か特別な体質だったとか…? いや、そんなこと、これまでの人生で一度もなかったし…」 この疑問は、彼女が古代神の魂を宿しているという事実への伏線となります。彼女自身の知覚では全く自覚がなかったが、実は転移の際に古代神の力が彼女の潜在意識と融合した可能性をぼんやりと感じさせます。


•異世界に来た影響? 「それとも、この世界に来たから? この世界の空気とか、魔力とか、そういうのが影響してるのかな。でも、それならもっと他の人にもこんな能力があるはずだし…」


呆然とする結衣の目の前で、魔物がもう一度唸り声を上げた。しかし、その魔物の瞳には、先ほどの獰猛さだけでなく、微かな警戒の色が浮かんでいるように見えた。

その隙に、結衣は本能的に駆け出した。傷が癒えた腕が、足が、驚くほど軽かった。森の中を無我夢中で走り続けると、やがて視界が開け、小さな獣道に出た。


「おい! そこのあんた、無事か!?」


低く、しかし力強い声が聞こえた。見れば、屈強な体格の男が、大きな荷車を停めてこちらを見ていた。横には、銀髪の若い少年が古びた書物を抱えている。

男は結衣の無傷の腕を見て、眉をひそめた。


「あんた、今あの『ナイトウルム』に襲われたんじゃないのか? 無傷で逃げおおせるなんて、ただ者じゃないな」


「ナイトウルム?」結衣は問い返した。

少年が興奮したように食い気味に言った。「そう! 夜の森を徘徊する魔物だよ! そんな大怪我から一瞬で回復したなんて……もしかして、継承スキルの持ち主かい!?」


「継承スキル……?」


男が結衣の様子を探るように尋ねる。


「嬢ちゃん、どっかの貴族の護衛か何かか? そんな特別な力を持ってるなら、もっと相応しい場所があるはずだが?」


結衣は首を横に振った。


「いえ、私は……ただのOLで……」


男と少年は顔を見合わせ、信じられない、といった表情を浮かべた。しかし、結衣の瞳に宿る途方もない戸惑いと、その言葉の嘘偽りのなさを見て、やがて男は深いため息をついた。


「どうやら訳ありのようだな。俺はガレフ。こいつはリィンだ。もし行く当てがないなら、とりあえず俺たちの荷車に乗るといい。ここらも日が暮れれば、厄介な魔物が増えるからな」


リィンが瞳を輝かせながら言った。

「ねぇ、きみ、どうやってあの傷を治したの!? それが継承スキルってやつなの!? ぜひ詳しく教えてくれないかな!」


ガレフはぶっきらぼうに「話は後だ」とリィンを制したが、その声に悪意はなかった。

荷車の揺れと、どこまでも続く森のざわめきの中で、結衣はぼんやりと自分の腕を見つめた。「高速再生オートリジェネ」、そして「継承スキル」。聞いたこともない言葉、そして信じられない自身の変化。


「この力は何? なぜ私に?……そして、ここはいったいどこなの?」


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