第27話 ようこそ、地上の深海へ
緑と赤のまだら模様、毒々しい鱗に覆われた竜が、長い首をもたげる。突き出た嘴からは紫の煙が噴き出し、鉄と腐臭が入り混じった匂いが鼻を刺した。
竜は天を仰ぎ、鉄を擦るような不快な咆哮を放つ。同時に体表から薄紫の煙が爆ぜるように広がり、瞬く間に草原を覆い尽くす。
「ヤバイ……!」
反射的に《澄流の膜》を展開し、なんとか自分の体だけは浄化の膜で包む──そこまでが限界だった。
一瞬で視界が崩れる。見渡せば、仲間も冒険者も全員が地に伏している。
間違いなく毒霧。効果は何? 昏倒? 即死だったらお手上げだけど……。
耳の奥で脈動が反響している気がする。
一度、浄化の権能《清涼の環》を展開してみた。わたしを中心に輝きながら薄い水面が地を走り、一帯の冒険者を包み込んで毒を祓う。
だが、竜が放つ瘴気が再び場を支配してしまう。
皆を助けたい。だが──先に竜をなんとかしないと。
その時、空から人影が降り立った。竜の真上でぴたりと停止し、わたしを見下ろす──。
「おや? 紫煙竜──ヴェスペリオの毒霧に耐えてる奴が居るじゃないか」
身体のラインが見えるようなピッチリしたボディースーツを纏った暗殺者風の女だ。
忘れもしない。
ノクを連れ去った女……!
わたしは背を反らし大きく息を吸い込むと、
精一杯の声で怒鳴り上げる。
「ノクを返せ!」
それでようやく気づいたのか、女は艶やかに腰をひねりながら重心を外へ逃がす。
下唇に添えた指先を、ゆっくりと口の端へと滑らせていった。
「あんた、あの時のお子様か。安心なさぁい? 神竜さまなら大切に、覚醒の時をお待ちよ?」
可笑しそうに口角をあげ低く笑い声をあげる。
なんだそれは! ノクが神竜? ノクはわたしの家族だ!
……心臓がうるさい。
耳鳴りの中、ただあの女の笑い声だけがやけに鮮明に響く。
わたしは拳を握りしめてふたたび叫ぶ。
「ノクはどこ! お前たちのアジトを言え!」
普通の矢はもう無い。じいちゃんの属性矢だけだけど、風を纏うあの女に遠距離攻撃がそもそも効かなさそうだ。
わたしは少し足を開き、腰を落として姿勢を低くすると腿からナイフを抜き顔の前に構えた。
「死に行く人に教えるだけ無駄でしょ?」
紫煙竜がふたたび毒霧を吐き出す。そして、女が腕を突き出すと、毒霧を纏った複数のカマイタチがこちら目がけて飛んでくる──!
ヤバい! 直感でわかる、きっとあれは《澄流の膜》を切り裂いて直接身体に毒が到る。
わたしは横に転がりながら、紙一重でそれをかわす。
姿勢を低くしたまま土壁の後ろに滑り込んでナイフを握り直す。
土壁の影には毒に倒れた冒険者。
苦しそうな表情だ。
首筋に軽く指先をあてる。
生きてる。ちょっとホッとする。
ただ生きてはいるが、呼吸は浅い。
周囲を見渡しても、同じように毒に侵され倒れている冒険者ばかりだ。
このまま放置もできない。せめて解毒だけでもしておかないと……。
無駄になるかもしれないけど、再び浄化の権能《清涼の環》を展開する。
光が周囲に走り、一帯の冒険者を包み込んで解毒をする。
隣に伏した冒険者の呼吸が、ようやく安定する。だが、それでも目を覚まさない。
……一命を取り留めたのなら良しとすべきか。そう思った矢先──よく見れば彼らの身体には、細い木の枝のようなものが絡みついていた。
なんだこれは? 触れようとした、その瞬間──
わたしの隠れていた土壁が、飛来するカマイタチによって上下に真っ二つに切り裂かれる!
あっぶなぁ〜! もうちょっと頭高くしてたら首飛んでるよコレ!
ちらりと伏せる冒険者たちを見る。苦しさは和らいだのか、今は眠るように静かに横たわっている。
しかし、絡みついた何かを取り除いてやる余裕はない。
ここに隠れ続ければ、他の冒険者に被害が広がってしまう。
……竜の体表から、また紫煙が渦を巻く。
竜は一向にその場から動く素振りが無いが──その足元を見ると大地に根を張る様に身体の下から触手を伸ばしているのがわかる。
それが絡み付いているのか? 何が狙いだ? でも放置してもろくな事が無さそうだ。
女の瞳は獲物を見定めた猛禽のように細められていた。
よく見ると、根のように地面に張り巡らされた触手が、雑草を掻き分けるように、少しずつその支配範囲を広げていた。
見ているだけで、胸の奥がじわりとざわつく
わたしは覚悟を決めて土壁から転がり出ると、ナイフを片手に竜と女めがけて駆け出す──!
「良い的だね! お嬢ちゃん!」
女の手のひらからカマイタチが幾重にも繰り出される。
空を切り裂きわたしをめがけて飛んでくるが、
「《清流の手》!!」
わたしの前方に水の膜をいく層にも分けて召喚、風撃の威力を殺しながら、眼前に迫る。
「やるねぇ! だったらこれはどうだい!」
一点集中の威力拡張したカマイタチ!
それは水の膜じゃ防げないけど、
「よっ!」
わたしは斜めに跳躍してそれを躱す!
点の攻撃なら避けやすいよね!
自慢じゃないけど、こっちはじいちゃんに鍛えられてるんだから!
着地後も勢いを殺さず宙の女めがけて駆けてゆき、一歩手前跳躍の瞬間──
「甘いよ!」
女は身体の周りに突風が渦巻く風の防壁を展開する。
わたしは──
「やっぱりね、そうだと思った!」
跳躍せずに、身体を覆う《澄流の膜》を厚くし、紫の煙が薄ら広がる竜の下にスライディング!
真下でナイフを手に、背を低くしたまま、スピンするように次々触手を切り裂いていく。
瞬く間に、あらかた切断を終えると、反対側から滑り出した。
そして、地面に手を触れ淡い光と共に権能を放つ。
竜と女に向き直り、息を整えた。
紫煙竜は苦しげに咆哮を放つ。耳の奥を直接かき乱すような低音が全身を震わせ、胸骨まで響く。
再び、鉄と腐臭が混じった毒の匂いが鼻腔を満たす。喉の奥が焼けるようで、思わず息を細くした。
女が不快そうに眉を寄せ、顎に指先を添えると、宙からわたしを睨みつける。
「ほぉ? 嬢ちゃん。ヴェスペリオが周囲からマナを吸い取ってる事に気づいていたのかい」
まぁ、正直──知らなかった。
でも何にも答えてあげる必要ないよね。
わたしは片目を瞑り、開いた目の下に人差し指をあて、全力で舌を出してやった。
あっかんべー!
女の頬がヒクヒクと揺れる。苛立ちが手に取るようにわかる。
こっちは散々迷惑かけられてるんだ、もう一言ぐらい言わせてもらわないとね!
「こんな雑魚みたいな竜モドキしか使えないの? 竜信仰なんて言ってもたいしたことないんだね!」
「うるさいぞ、小娘!」
「へぇー、挑発するは慣れてても、されるのには不慣れなんだね! かわいっ!」
女は拳を力いっぱい握りしめ、目を大きく見開いて吠える。
「そうやって! そうやって、貴様たちは、いつだって私をバカにして──!
もういいヴェスペリオ、溜め込んだマナであたり一面を毒の沼に変えてしまえ!」
紫煙竜が呼応するように体表から紫の煙を吐き出しはじめる。
その瞬間、より濃く、鼻を刺す鉄と腐臭が一帯を覆い、視界も呼吸も奪っていく。
女は自身に展開する風の防護膜のおかげでその煙から逃れられているようだ。
「これで、この一帯を絶望に沈めてあげるわ!」
口に手をあてて仰け反り、声高に叫ぶ女。
その笑い声は──ふいに止まった。
自分に落ちていた陽の光が突如遮られ、代わりに冷たい蒼い影が全身を包んだ。
女は額に汗をにじませ、ゆっくりと、自分の周囲を見渡す。
そこには森も、草原も、空も無い。
見渡す限りの視界を埋め尽くすのは、
わたしが呼び出した、水だ。
ようこそ、地上の深海へ──




