番外編2 ある日の令嬢の朝
イグネア・フレアローズは、紅茶のカップを軽く揺らしながら、小さく息を吐いた。
昨晩の出来事――宿屋での唐突な訪問と、そのあっけない撤退――が、まだ胸に引っかかっている。
「……名前も、知られていないなんて……」
静かな部屋に、ため息がひとつ溶けた。
ティエナという少女。あの無愛想で真っ直ぐで、どこか浮世離れした目をした子。
彼女に興味を持ったのは、きっと偶然ではなかった。
だがその直感が、あの時、無残にも打ち砕かれた。
「……わたくし、まだまだですわね」
それでも、心の中の火は消えていなかった。
もっと強くならなくては。もっと、頼られる存在に。
そうでなければ、このまま名前すら知られずに終わってしまう。
朝の光が窓辺を照らし、銀のスプーンが控えめに光を返した。
イグネアは紅茶を飲み干し、ゆっくりと席を立つ。
――その日の朝、彼女はいつもより早くギルドへと向かっていた。
*
「……水路清掃任務?」
掲示板に貼られた依頼のひとつが目に留まる。
旧市街の下水区画、補修中の旧水路。数件の清掃任務が並ぶ中、ひとつだけ『受付済』の印がついていた。
「……インフラ整備は街のため。どのような方が引き受けてくださったのかしら。激励も兼ねて、見に行きましょうか」
自分の家の私有地ではない。だが、水路の状態が街の安全に関わるのは当然の話だ。
何より、駆け出しの若手がどのように任務をこなしているか見ておくのは悪くない。
軽装に整えた自分の身を確認し、念のためにレイピアと簡易魔道具だけを携える。
今回は様子見のつもりだった。
だが――
現場に着いた彼女は、すぐに異変に気づくことになる。
「……やけに静かですわね……」
水路の一角。区画整理されているはずの通路の奥に、一部だけ極端に綺麗なエリアがあった。
この依頼は今朝、掲示されたばかりのはず。それなのに、もうこの状態――?
「どうやって、こんな短時間で……?」
誰かが清掃を終えた形跡。にもかかわらず、作業中の冒険者の姿は見当たらない。
様子を見に来たはずが、すでに誰もいない。それどころか、あまりに完璧な結果に、不自然さが際立っていた。
旧水路の入口に、わずかに開いた鉄扉。
立ち入り禁止とされているはずの区画に、誰かが入った痕跡があった。
足跡。湿った空気。魔力の残滓。
「……立ち入り禁止区域に侵入者、ですのね。迷い込んだのだとしても、あるいは……陰に隠れた悪意だとしても。治安を預かる者として、見逃すわけにはまいりませんわ」
イグネアはレイピアの柄に手を添え、小さく息を吸った。
「……気は進みませんけれど、いたしかたありませんわね」
その決意が、どれだけ甘かったか。
彼女が知るのは、もう少しだけ後のことである。