第13話 私の終わり、わたしのはじまり
しんしんと、雪が降りはじめた。
夕刻は思ったよりも短くて、薄明かりの空はすぐに黒いヴェールをまとい、闇があたりを支配する。
川沿いに歩みを進めていたわたしは、ちょうどそんな時刻に、村へと辿り着いた。
一目見ただけで分かる。ここには、もう人がいないのだ──と。
開けた土地に、まばらに点在する放棄された家の群れは、どれひとつ明かりを灯すことなく、静寂を保っていた。
手先が震え、白い吐息が黒い闇に吸い込まれていく。
夜が更けるにつれ、冷え込みはいっそう厳しくなった。
このまま屋外で夜を明かすには危険だと考え、わたしは形を保っていそうな家をひとつ見繕い、そっと扉を開けた。
「おじゃましま〜す……」
手に持ったランタンの光が、室内をぼんやりと照らし出す。
……誰も、いないよね?
天井近くの隅に揺れる白い影──うわ、蜘蛛の巣……。
これ、ただの蜘蛛であってほしいなぁ……魔物化してるやつ、いないよね?
ふいに、背中にずしっと重い感触。
「ノク、やめてよね? びっくりさせないでよ」
「なんのことー?」
返事はあるが、ノクはわたしのコートの中、お腹あたりにいる。
じゃあ、この背中をずるっと蠢いたものは──?
「きゃあああっ!」
叫びながら瞬時に身を屈め、背中の違和感を宙に置き去りにする。
腿ベルトから右手でナイフを抜きつつ、身体を半回転。左手で違和感の正体を掴み、ナイフを添える。
腿ベルトから右手でナイフを抜き、身体を半回転。左手で違和感の正体を掴み取り、ナイフの切っ先を添える。
手の中のモノは、「キーキーッ!」と甲高く抗議の声をあげた。
「……なんだ、イタチか。こんな寒さの中でも元気だねぇ。驚かせてごめんね」
ナイフをしまいながら、イタチをそっと床に放す。
ここでは、わたしが新参者だ。
これ以上うるさくしないから──ね? 一晩だけ、部屋の片隅を貸してくれると嬉しいな。
そう心の中で語りかけ、収納袋から取り出した毛布にノクと一緒にくるまり、わたしたちはそのまま静かに一晩を過ごした。
*
夜が明けて、家の扉を開けると、あたり一面にはうっすらと新雪が積もっていた。
このくらいなら、昼にはきっと溶けてしまうだろう。
一歩、そっと踏み出してみる。足を上げてみると、雪にバッチリ足跡がついた。
積もったばかりの雪って、なんだか──つい踏み荒らしたくなるんだよねぇ。
ぎゅっ、ぎゅっと。
雪を踏む音だけが、静寂の中に響いていた。
壁が片側だけ残った家、屋根が崩れたままの家、焼け焦げた柱の名残が雪の中から覗いている──
十五年という時の流れが、この場所を少しずつ削り取っていった。
それでも、ここで何かがあったことは……風の匂いにも、雪の下にも、確かに残っている。
「うーん」
「どうしたの、ティエナ?」
「ここで《泡涙のさざ波》を使うの躊躇しちゃうなぁ」
「確かに読み取れるのもきっと悪感情の塊だよねぇ」
「そうなんだよねぇ」
嘆息まじりに吐いた息も白く消えゆく。
「扉」の形が残っている家から順に《泡涙のさざ波》で感応していくことにした。
きっと扉には、出入りの際に抱いた強い感情が刻まれているはず。
逃げ出すためか、身を潜めるためか。あるいは、最後の覚悟を胸に、戦いに赴いたのか──
最期に触れた、その瞬間の感情が。
数軒巡り──思っていたとおりだけど、「恐怖」「驚愕」「絶望」と言った暗い色ばかりが流れ込んできた。
「ティエナ大丈夫?」
心配そうにノクが見上げてくる。
「……ちょっと、休憩しようか」
村の中には川が流れており、かつては小舟を繋ぎ、水を汲んだり洗濯をしたりしたであろう桟橋も形を保っていた。
川のせせらぎでも聞いて、少し気持ちを落ち着けよう。そう思い桟橋に腰をおろす。
わたしは膝を抱えて、ぼーっと水の流れを見続ける。
なぜ帝国軍に滅ぼされなければならなかったのか。
もしこの村の住人が反乱軍だったのなら、軍に打ち勝とうとする「反骨心」や戦いへの「高揚」、掴み取る「希望」とかが見えてもいいじゃないか。
……でも、ここにはそれがなかった。
ここの人たちは皆、逃げ惑っているようだった。
弱い者が一方的に蹂躙される。そんな地獄がきっと繰り広げられていた。
わたしは――、この地獄から逃がされたのだろうか。
もしそうなら……その時の両親の想いを、知りたい。
桟橋──
ボロ舟で流されてきたわたし──
胸がぎゅっと締めつけられる。
ハッとなった。
「ノク……ここだよ!」
「えっ! 突然どうしたの、ティエナ?」
「ここなら、きっとわたしの両親の想いに繋がるはず――!」
どんな想いで、命を託してくれたのか。今はただ、それが知りたい。
ここに《泡涙のさざ波》を使おう――!
*
──この子だけでも──
──無理だ、赤ん坊だぞ──
──ここでみんな死ぬぐらいなら──
──わかった。ボロ切れをかけて──
──
──愛してるわ──
*
雫が頬を伝う。
わたしは知っていた。この景色を──。
わたしは神として力を失い、この川の中で少しずつ力の欠片を集めていた。
街は焼かれ、兵たちは村人を容赦なく締め上げ、連れ去り、時にはその場で殺害した。ただの欠片だったわたしにはそれを止める力すらなかった。
一組の親子が川に赤子を差し入れた。ボロい舟。流されるだけ。とてもこの赤子が助かるとは思えない。
彼らの希望が、なんの甲斐なく水底に沈む。
わたしはただの欠片だった。
あぁ、生命が失われるばかりだ。水の──生命の神とはいったいなんだったのか。
だけど──ひとつだけ。今のわたしにも出来ることがある。
力のすべてを赤子に移し、水の加護を与え、命を繋ぐ──それだけが、わたしにできたことだった。
*
そして私は神としての役割を終え、わたしになった──。
*
「ティエナ、どうしたの? 大丈夫?」
ノクが心配そうな顔をしてわたしを見上げている。
わたしは手の平で頬を拭う。
「うん、大丈夫。いろいろ思い出しただけ」
「思い出した?」
「そう。思い出したの。わたし、お父さんとお母さんにちゃんと愛されてたんだなぁって」
──そして、もうその両親がこの世にいないことも。
「じゃあココに来れてよかったってことかな?」
「うん、そうだね。ここに漂う感情は辛くて悲しいことばかりだったけど──その中でもちゃんと『わたし』が見つけられたと思う。だから、大丈夫」
立ち上がってコートの形を整える。
「ノクもおいで」
ノクの手を取ると、コートの懐にすっぽりとおさめた。
「わたしは幸せだよ。みんなにたくさん愛されて。じいちゃんにも、もちろんノクにも!」
ノクがニッコリと微笑む。
「あーあ、なんだかお腹すいて来ちゃったなぁ。せっかく帝国まで来たんだし、もっと西の方まで行って食べ歩きしてみよっか!」
「おぉ、ティエナらしくなってきたね」
「今のがわたしらしくってどういう意味よ」
たわいも無い話をしていた。そして。川の桟橋からそろそろ帰ろうか、という空気感。だったのだが──
「ノク、静かに──腰の後ろ、しっかり掴まってて」
わたしは少し姿勢を下げ、背中の弓を手元に寄せ、いつでも矢を番えれるようにする。
昼の影が伸びはじめる頃。
その太陽を背に、雪のように白い毛並みの馬に誰かが跨り、こちらを見下ろしていた。
逆光の中で、輪郭だけが鋭く浮かび上がるその姿は、まるで幻影のようだった。
後頭部で結われた長い銀髪と青いマントが風にたなびく。
身につける鎧も光の加減で青白く見え、まるで氷を纏っているようだ。
肩に羽織ったマントにはアクレディア帝国の紋章が縫い付けられている。
「──帝国騎士!?」
わたしは弓を持つ手に力が入りそうになるのを懸命に抑えた。
村を廃墟にした帝国軍が、なぜ今またこの村に!?
独りだけなのか、他にも兵がいるのか……!
「そこの娘、大層な殺気だな。俺とやり合うつもりか?」
逆光を背に馬上から落ち着いた様子で話しかけてくる。
あぁダメだ。この人──強い。
手綱を握ったままなのに、矢が当たるイメージが出来ない。
権能を封じた状態で勝てるかわからない。
「返答は無しか? ならば女子供とて容赦はせんぞ」
ひらりと馬から降りる騎士。青年──といって差し支えない年齢だろう。端正な顔立ちからは、なんの感情も読み取れない。粛々とやるべきことをやる、そんな印象だ。
キィン──
刃と鞘の擦れる甲高い音が、澄んだ空気に響く。
騎士の右手に握られた長剣は、青白く冷たい輝きを放つ。
ゆっくりとこちらへ、一歩一歩着実に、距離を詰めてくる。
わたしは仕方なく矢を弓に番える。狙いを定めたいが……頭は殺してしまうし、やはり、腹の鎧を貫くしかないか……。だがどこに射っても躱されそうだ。ナイフへの切り替えも視野に──
悩んでるわたしを見て、騎士は一瞬眉を上げたかと思うと、剣を鞘に納め、両手を上げた。
なんだ? 今度はどうした? 意図の汲み取れない行動にわたしの頭も一瞬混乱する。
「待て娘! 貴様、リヴァードの関係者か!?」
へ? ここでまさかのじいちゃんの名前!?
なになになに? どーいうこと?
本格的にパニックだ!
騎士はわたしを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
ただその目に浮かんでいたのは、敵意ではなく、何かを確かめるような──そんな光だった。




