第6話 清涼の環
穢鼠王――エンラット・キング。
その異形の咆哮が旧水路を満たした瞬間、空気は変わった。
その咆哮と同時に、穢鼠王は跳ねるように踏み込んできた。
通路の途中で少しだけ広くなった空間。
崩れた旧施設の跡か、数人が身動きを取れるほどの“吹き溜まり”のような広場がそこにあった。
彼らは今、その限られた空間で必死の応戦を強いられていた。
巨体に似合わぬ素早さで、前脚を地面に叩きつける。
泥と瘴気の混ざった液体が飛び散り、壁や天井に腐食の痕が残る。
イグネアが即座に飛び出し、レイピアで牽制するように一閃を放つが、鋭い爪で弾かれる。
「硬い……っ、これ、本当に鼠なの……?」
ティエナが背後から矢を放つも、強化された濁水の膜に弾かれてしまう。
膜のせいで火も水も通らない。しかもこの瘴気では、ノクの魔力も通りが悪い。
イグネアが前に出て構える。だがその顔には明らかに焦りの色が浮かんでいた。 「単体でここまでの瘴気を……この旧水路で? こんなの、パーティを組んで挑むべき相手ですわ……!」
穢鼠王が口を開いた。
喉の奥から泡のような毒液が弾け、緑がかった液体が弧を描いて飛んでくる。
「下がってっ!」
ティエナが叫び、ノクとともに飛び退く。その場所に液体が落ち、じゅっ、と音を立てて石を焼いた。
「っ……この毒、下手すれば即死級……!」
立て続けに爪での薙ぎ払い。イグネアが受け流しつつも、動きが封じられる。
「力が……段違いですわね……っ」
数分の間、ただひたすらに耐えるだけの時間が続いた。
しかも穢鼠王だけではない。その背後や側溝の影、上方のパイプの隙間など、周囲の暗がりから次々と現れるのは、あのエンラットたちだった。
瘴気の王に導かれるように、散り散りになっていたはずの群れの一部が再び姿を現している。
「数が……増えてる?」
ティエナが息を詰めながら弓を構え直す。
イグネアは小声で唇を噛む。
「群れが完全に支配されている……王が統率しているのですわ……!」
正面の穢鼠王を中心に、左右から迫る子分たち。
戦場はいつの間にか、視界の利かない広めの空間に散った複数の敵と、中央の王との挟撃状態になっていた。あらゆる方向から圧がかかる、混沌とした戦いの渦の中だった。
戦場には瘴気がさらに満ち、息を吸うたびに喉が焼けるようだった。 ティエナは胸を押さえ、膝をつく。ノクも地に伏せ、《灯光球》を保つだけで精一杯だった。
「ティエナ……っ、この瘴気……やばすぎ……っ」
「こ、ここまでとは……っ」
穢鼠王がうねるように身を揺らし、ずしん、と一歩踏み出すたびに泥水が跳ねた。
周囲の瘴気がさらに濃くなる。
ティエナは耐えきれず、壁に手をつく。
視界が歪み、頭の奥がずきずきと痛み出す。
そのときだった。
遠い記憶――女神だった頃――思い出す――人間界を見ていた――
バカンスの地! 人の群れ!
水際で飲んでいるあのきらめく飲み物!
憧れの味。泡の音。冷たさ。
「……白霧レモネード……飲みたい……! いま、すごく……!」
ああ。こんな時にこんなことを思い出すなんて!
嬉しいやら、悲しいやら、情けないやらで――ほろりと涙がこぼれた。
「この状況で何言ってますの!? あとでいくらでも買って差し上げますわ! というかなんでいきなり!?」
「わ、わたしにもわかんないよ!? 思い出しちゃったんだもん、しょうがないじゃんっ!!」
イグネアの叫びと共に、ティエナの足元に光が走った。
「清涼感たっぷりの人間界の飲み物……おいしそうだったなぁーーー!!」
どーん! という擬音が脳裏に響くような勢いで、水の輪が炸裂するように広がった。
まるで理屈ではなく感情そのものが力に変わったような、そんな爆発的な発動だった。
風が吹き抜け、空気が一変し、ミアズマが一掃されていった。
――神性権能《清涼の環》。
ミアズマを祓い、空間全体を清らかに浄化する力。
空気中の腐ったマナを一掃し、周囲の濁水の膜すら溶かして剥がしてしまう。
穢れた空間に、まるで天から風が吹き込んだかのような一瞬が訪れた。
空気が一変する。
ノクが目を見開き、身体を起こす。
「っ……通った……! マナが戻ってる……!」
彼の周囲にふわりと光の粒が舞い、白い毛並みが淡く輝く。
イグネアの瞳も驚きに揺れる。「いまの……あなたの力……?」
「うん……これは、わたしの……《清涼の環》。ミアズマを洗い流す、力……」
ノクは宙をふわりと飛び上がり、その場で軽く旋回しながら空気の流れを確かめるように羽ばたいた。
一瞬、光が彼の体をなぞるように閃き、小さな翼がかすかに広がる。
「ティエナ、援護いくよ! 閃光、そらっ! この一発、ちゃんと効かせるからね!」
彼の前脚が一閃すると、眩い閃光弾が王の顔面付近で炸裂し、一瞬その動きを止めた。
濁水の膜が剥がれた穢鼠王の身体表面が露わになっている。
それを見たイグネアの目が鋭く細まる。
「こうなればただの大きいネズミですわ……!」
火球とレイピアの連携、ティエナの矢、ノクの光の支援。
三人の連携が一気に王を追い詰め、ついにその巨体が崩れ落ちる。
瘴気が収まり、通路に静寂が戻った。
しばらく誰もが息を整える。
そして、イグネアが口を開いた。
「ティエナさん……あなた、一体何者ですの?」
ティエナは視線を逸らして、ばつが悪そうに小さく笑った。
「えっと……ちょっと、秘密……」
イグネアは数秒だけ目を細め、そしてふっと肩をすくめた。
「……なるほど。では、こうしておきましょう。あなたは確かに“リヴァードさんの育てた精鋭”でした。そう言えば穢鼠王討伐の功績も誰もが納得します」
「……えっ、わたしのこと、そこまで知ってたの……?」
イグネアは微笑みながら、ひらりと手を振る。
「詳しくは、帰り道ででもお話ししますわ。この空気、長居はしたくありませんもの」
少しだけ間を置いて、イグネアはそっと笑みを浮かべる。
「また、興が乗ったときは……あなたの秘密、聞かせてくださいましね」
「ありがとう、イグネアさん……」
「では、一旦ギルドに報告へ戻りましょう。これほどの事態、放置できませんもの」
そう言って踵を返したイグネアに、ティエナが声をかける。
「ねえ、イグネアさん……これ、持って帰ってもいい?」
倒れた穢鼠王の毛皮をぺたぺたと叩きながら、笑顔で言う。
「こんな汚物を……お持ちになられますの!?」
イグネアが顔をしかめる中、ティエナは《清流の手》で浄化しながらにっこり。
「ちゃんと綺麗にしてから、素材買取してもらうからっ」
きらきらと水の糸が光り、腐敗の臭いを洗い流していく。
イグネアが感嘆の声を漏らす。
「……便利ですのね」
いまや旧水路の空気は澄みわたり、閉ざされた空間にも、どこか明るさが戻っていた。