第50話 人と神の転換点
ついに五十階層に足を踏み込んだティエナたち。
“ゲート”に入る前から、すでに視界の先に見えていたのは、石造りの巨大な扉だった。重厚で荘厳、その存在そのものが何かを訴えかけるような威圧感を放っており、一行の表情を自然と引き締めていく。
「いくぞ」
レオが短く言い放ち、両手で扉に手をかける。押し開けると、軋むような低い音と共に、扉はゆっくりと開いていった。
その先に広がっていたのは、まるで大聖堂のような空間。
そして中央。そこに“それ”はいた。
頭を胸に抱えるようにして眠る、山のような巨体。闇に溶け込むような黒銀の鱗。翼をたたみ、岩のように動かぬその姿は、まごうことなき――ドラゴンだった。
「これはまた、倒し甲斐のありそうなやつが出てきたな」
レオがバスタードソードを背からゆっくりと引き抜き、構えを取る。微かに口元が笑っていた。
「ドラゴン……!? まさか、本物……っ」
イグネアは驚愕を隠せないまま、レイピアを構え、同時に左手の指輪に魔力を通して火球の術式を展開し始める。
オーキィはノクに身を寄せ、小声で問いかけた。
「ちょっとノクくん、あなたの友達じゃないの? 話し合いでなんとかできたり……?」
「友達じゃないし、そもそも種族も全然違うし! 仮に一緒だったとしても、ぼくこんなのと仲良くなろうと思わないよね!?」
フィンは屈みながら周囲の地形と出入口を確認しつつ、ボヤいた。
「実は幻影で本体はちっちゃいのが別にいる……みたいな展開で頼むわ……」
「じゃあティエナ、ぱぱっとやっちゃってよ!」
ノクがひょいとティエナの背に隠れるように移動する。
ティエナは無言で一歩前に出ると、目を閉じて静かに呼吸を整えた。
足元から水が湧き出すように現れ、空中へと浮かび上がる。
それはやがて大きなうねりとなり、まるで天空に昇る龍のような水流へと変貌し、幾筋もの螺旋へと分裂していった。
「穿て――《水流の刃》!!」
その声と共に、数十本の水の螺旋が空を裂き、ドラゴンへと飛翔する。
瞬間、ドラゴンの瞼が静かに開き、深い重低音の咆哮が響き渡った。
空気が震える。音波と魔力の衝撃で、水の螺旋のいくつかは霧散した。
それでも残った水の刃はドラゴンの鱗に突き刺さり、重い金属音を立てながら一部を貫通していく。
ドラゴンが、首をもたげて口を大きく開く。
そこから放たれたのは、空間ごと焼き尽くすような高熱のブレスだった。
「っ……!」
ティエナはすぐさま両手を広げ、膨大な水のヴェールを展開。
灼熱の奔流が触れる瞬間、その水膜がブレスの熱を受け止め、蒸気となって広がっていく。
その隙を逃さず、レオが走り出す。
「今だッ……!」
バスタードソードを振り下ろすが、ドラゴンの鱗はあまりに堅く、斬撃は表面を裂くにとどまった。
すかさずイグネアが横から援護射撃を放つ。
「せめてこっちに気を引きなさい……!」
炎弾が翼をかすめて爆ぜ、ドラゴンの視線がそちらへ動いた瞬間。
ティエナが再び詠唱を紡ぐ。
「もう一度……お願い」
第二陣《水流の刃》。
先ほどよりもさらに多く、より鋭く形成された水の渦が百条を超えて舞い上がり、雷鳴のような音と共にドラゴンの全身へと降り注ぐ。
鱗を裂き、骨を砕き、肉を穿つ。
巨体が仰け反り、最後の咆哮を上げながら、崩れ落ちるように倒れた。
黒銀の鱗が床を打ち砕きながら砕け散る。
――神性に近づきつつあるティエナの《水流の刃》は、五十階層の守護者とて抗う術を持たなかった。
*
光となって霧散していくドラゴンの残骸。その場に残されたのは、鈍く脈打つ紫色の魔核だった。まるで心臓のように脈打ち、うっすらと熱を帯びている。
「これは……何の魔核だ……?」
フィンがそれを拾い上げ、じっと観察する。だが見たことのない色と形状に、首を傾げるしかない。
「贈り物って、それのこと?」
オーキィが覗き込みながら問いかける。
「さっきのドラゴンのことかもしれないよぉ?」
ティエナが冗談めかして言うと、オーキィが肩をすくめる。
「だとしたら、めちゃくちゃ悪趣味だよね……」
「なんだろうね、この魔核……ミスリルとか? そういう伝説級のやつかな?」
ノクも乗り出して確認する。
「そもそもミスリルを見たことがありませんから、判別しようがないですわ」
「ですよねぇ……とりあえず、街に戻ったらギルドで調べてもらいましょうか」
オーキィの提案に小さく頷くと、イグネアは慎重な手つきで魔核を収納袋へと収めた。
「それよりも贈り物って、あれじゃねぇか?」
レオがドラゴンのいた奥の空間を指差す。その先には、光の差し込む祭壇のような場所に、一本の長剣が突き立てられていた。
「おいおい、剣じゃねえか! 使いごこち試させろよ!」
レオがずかずかと歩み寄り、柄に手をかけた瞬間、空気が一瞬ざらついたような違和感が走る。
それでも躊躇なく、一呼吸の後に剣を引き抜いた。
刀身が石に擦れる音が辺りに響き、レオは片手で長剣を高々と掲げる。
「勝手に抜きやがって……呪いの魔導具だったらどうすんだよ」
フィンが呆れたように言いながら近づく。
「おい、この剣めちゃくちゃ軽いな! なんの素材でできてんだ? こんなに軽くてすぐ折れたりしねぇよな?」
レオは手近な柱に向かって試すように剣を振る。
キィン!という甲高い音が響いたかと思うと、柱に一直線の切断線が走り、数秒後に上部が床へと崩れ落ちた。
「すごーい!! 本当に斬れちゃった!」
ティエナが無邪気に歓声を上げ、一行は呆気に取られる。
「やべーなこの剣……」
レオは面白がって壁にも一振りしてみせた。すると、薙ぎ払った軌跡に沿って壁が大きく割れる。
「軽いし、切れ味めちゃくちゃいいし、こりゃ最高の贈り物だな!」
レオが得意げに剣を掲げると、フィンが不満げに口を挟む。
「勝手に自分の所有物にしてくれるなよ?」
「まあ、それもそうか? お前も使ってみるか?」
レオが剣を差し出すが、フィンは手に取ろうとして――そのまま地面に落とした。
「何やってんだよ」
「わ、わりぃ……」
慌てて拾おうとするが、柄を握ったまま、フィンの顔が引きつる。
「ぐぎぎぎぎぎ……なんだこの重さ……!」
持ち上げられずに地面にしゃがみこんだまま、フィンは助けを求めてオーキィを呼んだ。
「失礼するよー?」
オーキィが柄を掴んで持ち上げようとするも、びくともしない。
「あれ……? 私、こんなに力なかったっけ……?」
「わたしも、やってみてもいい?」
ティエナもそっと柄を持ち上げようとするが、やはり動かない。つまらなそうに顔をしかめる。
そんな三人を見て、レオがぽんと肩をすくめた。
「なんだよお前ら?」
ひょいと剣を持ち上げると、まるで玩具でも扱うかのように軽々と振ってみせた。
「選ばれた……ということなのかしら。とにかく今は、レオに任せるしかありませんわね」
イグネアは静かにそう言うと、部屋の調査に戻った。
この部屋には、剣のあった奥のさらに最深部に扉がひとつ設けられていた。
フィンが罠や鍵の確認などを行うが、罠はなさそうだが問題は錠すらないことだ。どうやっても開かない。
その様子を見ていたオーキィが、ため息まじりにぼそりと漏らした。
「四十一階層が封印されていた時と同じだね、これ」
「……みたいだな」フィンも膝を払って立ち上がる。「また何か条件があるんだろう」
調査を兼ねて、休息と睡眠をとりながら広間で一日を過ごすが、状況は変わらなかった。
ティエナも腕を組みながら、うーんと唸る。
(リュミナが『五十階層に贈り物がある』だけで済ませたことを考えると……今はこれ以上、進ませる気がないのかもしれない)
ティエナはそっと手のひらに水の膜を張り、それを扉に添えた。水の感触がじわりと拡がり、静かに波紋を描く。
「――《泡涙のさざ波》」
水の粒が空気中に滲み、水面に広がる波紋のような“何か”が扉からティエナの心へと流れ込んでくる。
それは視覚ではない。言葉でもない。 ただ、胸の奥に直接流れ込んでくるような感情の渦――
期待。高揚。そして……失望。
まるで、誰かがこの扉の先に“何か”を用意し、誰かが来ることを心から望んでいた。 けれど、今の自分たちはまだ「そこ」に届かない。
(……またきっと、誰か“資格を持つ者”を、待ってるんだ)
ふと視線を巡らせれば、みんなにも少し疲れの色が見えていた。
無理をする必要は、きっともうない。
「じゃあ、ここまでにして街に帰ろっか。たぶん今はここまでなんだよ」
戦利品は多く、よくわからない魔核や切れ味抜群の剣もある。得たものは十分だ。
「四十一階層以降の調査……にしては、成果は申し分なかったと思いますわ。ギルドに報告できる情報もありますし――戻りましょうか」
陽のささぬダンジョンに潜って、およそふた月。
帰還という選択に、どこか安堵が広がった。




