第47話 少女は友に還り、神を想う
イグネアたちが"ゲート"を潜ったその先は、黒く無骨な岩肌に覆われた洞穴だった。
奥の方からゆらめく橙の光が差し込み、壁や床の凹凸が不気味に影を揺らす。
そして、吹きつける熱風。
燃え盛る焔を孕んだ空気が一行の全身を叩き、じわりと額から汗が滲み落ちた。
「……あついぃぃ……」
オーキィは長尺のメイスを杖のようにして体を支えながら、ぐったりとした声を漏らした。
「もう嫌な予感しかしないが……」
フィンが顔をしかめる一方で、レオは無言で水袋を口に運び、ぐびぐびと飲み干す。
「……体温保護の魔法、かけておくね」
ノクが羽ばたきを抑え、小さな身体から淡い光を広げる。次の瞬間、肌にまとわりついていた熱がわずかに和らいだ。
「助かりますわ。……では、進みましょうか」
イグネアは炎に焦がされた空気を見据え、静かに前へと歩を進めた。
*
洞穴をしばらく進むと、足元がすとんと切れ落ちた。
眼下に開けるのは、地獄のような空間――
蒸気を噴き上げる岩、燃え立つ河、断続的に轟く火柱。
土と石の空間だったはずのダンジョンは、いつの間にか灼熱の世界へと姿を変えていた。
体温保護魔法があっても、立っているだけでくらくらと目眩がする。
それでも一行は、ここを抜けなければならない。
次の"ゲート"は、灼熱地帯の向こうにある。
崖上からは飛び降りるには微妙な高さ。落ちたら無事では済まないかもしれない。
まずは岩場に杭を打ち、ロープを固定する。
オーキィがロープに水の膜を纏わせ、炎に焼けぬよう防御魔法を施すと、皆が一人ずつ、崖途中の高台へと慎重に降りていった。
「……よし。ここからなら、走り抜け――」
ノクが言いかけたときだった。
その背後、崖壁に溶け込むように潜んでいた“それ”が動く。
「ッ……来る!」
黒い岩壁に擬態していたサラマンダーが、幾体も浮かび上がるように姿を現す。
赤熱した喉奥から、灼けるような炎の球を吐き出してきた。
寸でのところで回避した一行は、慌てて崖下へと身を躍らせる。
誰もが着地に集中していたその瞬間――
「……えっ!?」
イグネアの腰の収納袋が、ひとりでに開いた。
中から、銀縁の楕円鏡が、するりと滑り落ちるように空中へと浮かび上がった。
「な……!? 収納袋から勝手に……!? そんな、ありえるはずがありませんわ……!」
手を伸ばすが、届かない。
鏡はゆっくりと落下し、熔けた岩地の上でくるりと一度、転がった――
……その時はまだ、何も起きなかった。
*
赤く焼けた地を駆ける。
灼熱の風が喉を焼き、地面の熱が靴底を焦がす。
次々と新たなサラマンダーが現れ、一行を包囲しようとしていた。
「くそっ、囲まれたな……!」
レオが唸る。剣を両手に構え、脇腹からの汗も気にせず敵へと斬り込む。
燃え移った袖をそのまま引きちぎり、肩をむき出しにしたその姿は、まるで猛獣のようだった。
「っ、後方っ、火口に近づきすぎないで! 熱で崩れますわ!」
イグネアがレイピアで突撃してきたサラマンダーを弾き飛ばしながら叫ぶ。
煤けた装束の裾が焦げ、額には滲む汗。視界が揺らぐ。
「これ以上広げられないよっ! 熱気を防ぐだけで手一杯なんだから……! 誰か、前見ててよ!」
ノクが悲鳴のように叫びながら、光の膜をぎりぎりで維持する。
その小さな身体は、炎熱の波に押されるようにぶるぶると震えていた。
疲労がにじむ。息が荒い。限界が、迫っていた。
「……ティエナ。どこに行ったんですの……」
イグネアが、小さな声で呟いた。
祈るように、消え入りそうな声で。
だがその瞬間だった。――
静かに――確かに。
どこからともなく、ひとすじの風が吹いた。
蒸すような熱を切り裂くその風は、涼しく、透明で、なにより――懐かしい。
フィンが、目を見開いた。
「……風?」
そして、誰よりも早く気づいたのは、ノクだった。
震える声で、ぽつりと、呟く。
「……ティエナ……?」
皆の視線が、一斉に“それ”を捉えた。
鏡が落ちた場所。
赤い岩地の中央。
そこに、蒸気を裂くようにして――
ひとすじの輝きが、地上に降り立とうとしていた。
対岸。
灼けた溶岩地形を挟んで向かい側に、ひとりの少女が転がるように出現した。
「いたた……なにここ……!? 暑っつ!? あーもぅ、リュミナのやつ、もうちょっと安全な転送装置作れないの…!?」
青いマント、淡い水色の髪。
その姿を見つけた瞬間、誰かが叫ぶ。
「ティエナ!? ティエナだ!!」
ティエナは体勢を立て直し、目前の光景に目を見張った。
燃え盛る魔物の群れ。その向こうに、仲間たちが押されている。
「……あれ全部、敵? ……へぇ。これは──わたしの相性がよさそうな魔物ね」
ティエナは、唇の端をわずかに上げて笑った。緊迫した戦場の空気をものともせず、どこか楽しげな、余裕のある顔だった。
ティエナはそっと一歩前へ出て、手を掲げ、息を吸い込む。
「水よ──」
「理を鎮め、流れを束ね、命を守る環となれ──」
「いまこそ奔りて、すべてを清めよ」
彼女の周囲に、水の紋がいくつも展開されてゆく。
空気がひんやりと震えた。
ティエナの無事を確認し、安堵の息をつくイグネア。だがそれも束の間、ティエナの周囲に広がっていく水紋の規模が、これまでとは桁違いであることに気づき、息を呑む。
この水量――そしてティエナから見た敵の方向。導き出される未来はあまりにも明白だった。
「ちょ、ちょっとお待ちなさいティエナ! その位置からでしたら、わたくしたちも巻き込まれますわ!!」
ノクが反応する。 「やばい、こっちに来る! みんな、ちょっとだけ暑いの我慢して! 防壁魔法に切り替えるよ!!」
そんな叫びの直後だった。
ティエナの目が、静かに細められる。
その唇が、小さく動いた。
「《天涙奔流》!」
詠唱とともに、天井から解き放たれたのは神性を帯びた奔流だった。
空間が震え、水が咆哮する。
ノクの結界がぎりぎりで展開され、仲間たちを包み込む。
「た、耐えて……お願いだから耐えてぇっ……!」
彼の小さな身体がぶるぶると震える。
光の膜が水流に押し潰されそうになりながらも、必死の魔力でそれを支え続ける。 火の壁を一掃しながら押し寄せる激流の中、防壁の内側だけが奇跡のように守られていた。
炎はかき消され、サラマンダーの群れは洗い流されていく。
イフリートすら、蒸気の渦に呑まれた。
その直後──
静けさが訪れた。
誰かが息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
ノクの防護魔法がすっと揺らぎ、淡く光を残して消えた。
ノクが息をついた瞬間──
ドォン、と地響き。
そして、だぱあああああん!!
壁に反転した水流が、頭上から容赦なく降り注いだ。
「わっぷ!?」「ぅあっつ!?」「うおおおおお!?」
パーティ全員が見事にびしょ濡れになった。
しばらくの間、誰も動かなかった。
「……まったく、加減というものを知りなさいまし……」
イグネアが前髪を垂らしたまま、絞るような声を出す。
ノクは尻尾をぶるぶると振って、水を飛ばした。
「……これ、僕のせいじゃないよね……?」
そして、対岸の岩場。
ティエナは手をそっと下ろし、水の消えた空間を静かに見つめていた。
リュミナに会ったことで、忘れていた記憶が少しずつ輪郭を取り戻していた。
天界の皆は、それぞれ異なる属性と役割を持ち、調和のうちに在った。
わたしは、水の神だった。水のマナを操ることが得意で――
いつも、水とともにあった。
そう、思い出せた気がした。
「……やっぱり、水ってすごいなぁ」
その声音には、懐かしさと、微かな誇らしさが滲んでいた。




