番外編7 猫と少年と、雨の記憶
あれは、わたくしがまだ幼かったころのこと。
確か――七歳の、初夏の頃だったと記憶しておりますわ。
フレアローズ家の代表として、南方ドレイクハウル家の軍事演習に同行したときのことです。
わたくし自身は戦に関わる立場ではなく、ただ兄たちに随行し、訓練所の隅で兵たちの鍛錬を眺めていただけなのですけれど――。
*
その日、訓練所の片隅にて。
槍を振るう兵士たちの掛け声が響くなか、ひときわ小さな背丈の少年が、目立たぬ場所で何かをしているのが目に留まりました。
短く整えられた金髪。
その少年は――猫に、ミルクをあげていましたの。
騒がしい訓練場にまったく似つかわしくない光景に、わたくしは思わず歩み寄ってしまいました。
「なにをしておいでですの?」
ふいの声に、少年は大きくのけぞります。
「うわっ、びっくりした!」
驚いた拍子に、猫も皿から飛び退き、身を翻して走り去っていきます。
「あ……」
少年は手を伸ばすも、猫はもうどこにも見えません。
その視線が、恨めしげにわたくしを見上げてきて――
「……申し訳ありませんでしたわ。猫さん、逃げてしまいましたわね……」
「君……誰? 見かけない顔だね」
少年は周囲を見回しながら、小さく声をひそめて尋ねました。
「失礼いたしましたわ。わたくし、イグネア・フレアローズと申しますの」
スカートの裾を摘まみ、お行儀よくお辞儀をします。
「おれは、レオンハルト・ドレイクハウル。……よろしく。あ、でも……猫に餌やってたの、内緒にしてくれる?」
「ふふ、もちろんですわ」
くすっと微笑んだわたくしに、少年はホッとしたような顔をします。
「それにしても、ですわ。こんなところでこっそり餌やりなど、もう少し計画性を持たれてはいかが?」
「……なにそれ、説教?」
「いえ、助言ですわ。あなた、考えなしに優しさをばらまくタイプとお見受けしましたもの……それに、訓練をさぼるのもどうかと思いますのよ?」
「うっ……それは……わかってるけどさ」
「訓練が、お嫌いなのですか?」
「気が乗らないんだよね。軍人になるより、動物博士になりたいなって……あー、こんなこと言ってたらまた怒られる。聞かなかったことにしてくれ」
「まあ、秘密が多い方なのですのね」
また笑ってしまいます。
「……怒られる前に戻らなきゃ。じゃ、また」
「お気をつけて、いってらっしゃいまし」
そう言って、彼は木剣を手に、訓練場の木人へと戻っていきました。
……その背中が、どこか寂しげで、どこか誇らしげだったことを――
今でも、覚えておりますわ。
*
日は改まり、再び訓練所の傍を通ったときのことでした。
木剣を交えた対人練習の風景かと思いましたが、目に映ったのは――
レオンハルトと、彼よりふた回りも大柄な年上の少年。
「おら! 反撃してこいよ!」
少年は木剣を振り下ろし、レオンハルトに容赦なく打ち据えます。
レオンハルトは必死に受け止めるも、体格差に押されて柄を手放し、転倒。
「ぐっ……!」
彼が剣に手を伸ばしたその瞬間、足で手を踏みつけられました。
動けぬまま、背中へ木剣が何度も振り下ろされます。
「弱いなー? レオンハルト。もっと強くなってくれないと、つまらんぜー!」
打ち据える少年とその取り巻きたちは、飽きたように笑いながら去っていきました。
誰もいなくなった訓練所の中心で、仰向けに転がるレオンハルト。
わたくしはその額に、冷やしたハンカチを静かに置きました。
少しだけ水で絞っておいたそれは、ひんやりとして心地よさそうでした。
彼がそっとわたくしの方へ視線を動かします。
「……なんだ、イグネアか。変なとこ、見られちゃったな」
そう言って、彼は目を閉じます。
「勝負は、とうに決しておりました。やりすぎですわ。抗議してまいりましょうか?」
「いいよ。弱いおれが悪いんだ」
「それなら――サボらず、ちゃんと訓練に向き合わないと、ですわね?」
「……えー。動物に餌やるの、おれの日課なんだけどな」
彼は地面に転がったまま、笑いました。
その横顔に、悔しさと、どこか吹っ切れたような色が浮かんでいたのを、
わたくしは見逃しませんでした。
――その日から、彼は少しだけ、訓練に真剣になったように思いますの。
*
軍事演習も、いよいよ最終日を迎える頃――
その出来事は、起こりました。
雨が降っておりました。
静かに、冷たく、訓練所を叩く細い雨粒の音。
わたくしが救護所へ向かったのは、薬草を届ける用事があったからでした。
そこで見つけたのです――入口の脇、壁際に座り込んだレオンハルトの姿を。
ずぶ濡れのまま、膝を抱えるようにして縮こまっていた彼は、
ただじっと、救護室の中を見つめておりました。
視線の先には、治療台の上で横たわる一匹の猫。
ぐったりとして動かぬその体には、打撲の痕が見受けられましたが、
幸いにも命に別状はないとのことでした。
彼は猫を預けたあとも、その場を離れられずにいたようでした。
わたくしは傘を閉じ、そっと彼のそばに膝をつきます。
「……そんなところに座っていたら、体が冷えてしまいます。立派な戦士は体調管理も大切ですわ」
わたくしは、持参していた薬草の包みから清拭用の布を一枚取り出し、濡れた肩にそっとかけてあげました。
彼は一度、目線だけをよこして――そのまま、わたくしを見つめました。
そして。
彼の肩が小さく震えました。
嗚咽をかみ殺すように顔を伏せたその瞳から、一粒の滴がぽつりと頬を伝います。
「……あいつら、あいつら……絶対に……許さない……」
噛みしめるように、ひねり出した声でした。
その頬を濡らしているのは、果たして雨なのか、涙なのか――わたくしには、見分けがつきませんでした。
あの優しい瞳だったはずの彼の目は、どこか深く、暗い色を湛えておりました。
「何が、ありましたの……?」
恐る恐る尋ねたわたくしに、彼は唇を噛みしめながら答えました。
――猫に餌をやっていたところを見つかってしまい、自分だけでは飽き足らず、その猫にまで面白半分に暴力を振るったのだと。
わたくしは、胸の奥がふつふつと煮えたぎるのを感じ、立ち上がりました。
「許せませんわ。抗議してまいりましょう」
しかし、その瞬間。
彼の手が、わたくしの腕を強く掴みました。
「……おまえは、何もするな」
その顔は、鬼気迫るような表情で――
何かを決意した者の、それでした。
*
翌朝、わたくしたちは王都へ帰る馬車へと乗りましたが、
レオンハルトの姿は最後まで見えませんでした。
車中で、兄ユリウスから耳にした話では、
彼に暴力を振るっていたあの大柄な少年は、レオンハルトの実の兄だったそうです。
……わたくしは、何も返すことができませんでした。
怒りとも哀しみともつかぬ、燻るような想いだけを胸に抱いて、帰路につきました。
*
その後、わたくしは四年ほど、軍事演習の旅程に同行いたしました。
赴けば必ず、レオンハルトと顔を合わせる機会がありました。
年々体格も良くなり、力をつけていく彼。
訓練の場で動物に気を取られるような姿は見せなくなりましたが、
それでも早朝や夕刻には、小さなパンをひとつ握ってふいと姿を消し、しばらくして手ぶらで戻ってくる姿を何度も見かけました。
どこへ行って、何をしているのかを尋ねても、
「うっせえな。なんでもいいだろ」と、ぶっきらぼうに返されるばかりでしたけれど――
あの雨の日から、彼の中に変化があったのは確かです。
わたくしもまた、あの目を見てからは、自分の力を高めねばと剣や魔法に励むようになりました。
大切なものを守るためには、強くならなければならないと、初めて本気で思ったのです。
あの瞳を二度と見ないために。あの痛みに、ただ立ち尽くすばかりではいけないと――そう思ったのです。
*
十三の歳、冒険者としての道を考え始めた頃――
ある風の噂が、わたくしの耳に届きました。
レオンハルトが、家を出たのだと。
ユリウス兄様いわく、彼は実の兄とその取り巻き数名をまとめて殺しかけたらしく、本来ならば指名手配されてもおかしくない事案。
けれど後継者の失態を外部に知られぬため、家中で揉み消されたのだと。
……兄様の言葉には、時折、わたくしには知り得ぬはずの情報が混ざっていることがあります。
どこから、どうやって手に入れているのかまでは教えてくれませんけれど。
……その真偽までは、わかりません。
ですが、もし本当にそのようなことがあったのだとしたら――
あの猫を守れなかった無力なあの頃の自分と決別し、
何かを守るために力を奮ったのではないかと。
わたくしはそのように、想像してしまうのです。
*
雨が降っておりました。
自室の窓を細かに打つ雨音を聞きながら、わたくしはティーテーブルに向かいます。
紅茶にミルクを注いだそのとき、
ふと、白く揺れる液面を見つめながら、思い出すのです。
――あの不器用なやり方でしか、優しさを示せなかった少年のことを。
どこかで元気にしているかしら。
彼が“狂獅子のレオ”として名を知られるようになるのは、
もう少しあとの話――




