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もと女神は冒険者はじめます!  作者: さわやかシムラ
◇◇ 第一章 ◇◇
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番外編7 猫と少年と、雨の記憶

 あれは、わたくしがまだ幼かったころのこと。

 確か――七歳の、初夏の頃だったと記憶しておりますわ。


 フレアローズ家の代表として、南方ドレイクハウル家の軍事演習に同行したときのことです。

 わたくし自身は戦に関わる立場ではなく、ただ兄たちに随行し、訓練所の隅で兵たちの鍛錬を眺めていただけなのですけれど――。



 その日、訓練所の片隅にて。

 槍を振るう兵士たちの掛け声が響くなか、ひときわ小さな背丈の少年が、目立たぬ場所で何かをしているのが目に留まりました。


 短く整えられた金髪。

 その少年は――猫に、ミルクをあげていましたの。

 騒がしい訓練場にまったく似つかわしくない光景に、わたくしは思わず歩み寄ってしまいました。


「なにをしておいでですの?」


 ふいの声に、少年は大きくのけぞります。


「うわっ、びっくりした!」


 驚いた拍子に、猫も皿から飛び退き、身を翻して走り去っていきます。


「あ……」


 少年は手を伸ばすも、猫はもうどこにも見えません。

 その視線が、恨めしげにわたくしを見上げてきて――


「……申し訳ありませんでしたわ。猫さん、逃げてしまいましたわね……」


「君……誰? 見かけない顔だね」

 少年は周囲を見回しながら、小さく声をひそめて尋ねました。


「失礼いたしましたわ。わたくし、イグネア・フレアローズと申しますの」


 スカートの裾を摘まみ、お行儀よくお辞儀をします。


「おれは、レオンハルト・ドレイクハウル。……よろしく。あ、でも……猫に餌やってたの、内緒にしてくれる?」


「ふふ、もちろんですわ」


 くすっと微笑んだわたくしに、少年はホッとしたような顔をします。


「それにしても、ですわ。こんなところでこっそり餌やりなど、もう少し計画性を持たれてはいかが?」


「……なにそれ、説教?」


「いえ、助言ですわ。あなた、考えなしに優しさをばらまくタイプとお見受けしましたもの……それに、訓練をさぼるのもどうかと思いますのよ?」


「うっ……それは……わかってるけどさ」


「訓練が、お嫌いなのですか?」


「気が乗らないんだよね。軍人になるより、動物博士になりたいなって……あー、こんなこと言ってたらまた怒られる。聞かなかったことにしてくれ」


「まあ、秘密が多い方なのですのね」

また笑ってしまいます。


「……怒られる前に戻らなきゃ。じゃ、また」


「お気をつけて、いってらっしゃいまし」


 そう言って、彼は木剣を手に、訓練場の木人へと戻っていきました。


……その背中が、どこか寂しげで、どこか誇らしげだったことを――

今でも、覚えておりますわ。



 日は改まり、再び訓練所の傍を通ったときのことでした。


 木剣を交えた対人練習の風景かと思いましたが、目に映ったのは――

レオンハルトと、彼よりふた回りも大柄な年上の少年。


「おら! 反撃してこいよ!」


 少年は木剣を振り下ろし、レオンハルトに容赦なく打ち据えます。

 レオンハルトは必死に受け止めるも、体格差に押されて柄を手放し、転倒。


「ぐっ……!」


 彼が剣に手を伸ばしたその瞬間、足で手を踏みつけられました。

 動けぬまま、背中へ木剣が何度も振り下ろされます。


「弱いなー? レオンハルト。もっと強くなってくれないと、つまらんぜー!」


 打ち据える少年とその取り巻きたちは、飽きたように笑いながら去っていきました。


 誰もいなくなった訓練所の中心で、仰向けに転がるレオンハルト。

 わたくしはその額に、冷やしたハンカチを静かに置きました。

 少しだけ水で絞っておいたそれは、ひんやりとして心地よさそうでした。


 彼がそっとわたくしの方へ視線を動かします。


「……なんだ、イグネアか。変なとこ、見られちゃったな」

 そう言って、彼は目を閉じます。


「勝負は、とうに決しておりました。やりすぎですわ。抗議してまいりましょうか?」


「いいよ。弱いおれが悪いんだ」


「それなら――サボらず、ちゃんと訓練に向き合わないと、ですわね?」


「……えー。動物に餌やるの、おれの日課なんだけどな」


 彼は地面に転がったまま、笑いました。

 その横顔に、悔しさと、どこか吹っ切れたような色が浮かんでいたのを、

 わたくしは見逃しませんでした。


――その日から、彼は少しだけ、訓練に真剣になったように思いますの。



 軍事演習も、いよいよ最終日を迎える頃――

 その出来事は、起こりました。


 雨が降っておりました。

 静かに、冷たく、訓練所を叩く細い雨粒の音。


 わたくしが救護所へ向かったのは、薬草を届ける用事があったからでした。

 そこで見つけたのです――入口の脇、壁際に座り込んだレオンハルトの姿を。


 ずぶ濡れのまま、膝を抱えるようにして縮こまっていた彼は、

 ただじっと、救護室の中を見つめておりました。


 視線の先には、治療台の上で横たわる一匹の猫。

 ぐったりとして動かぬその体には、打撲の痕が見受けられましたが、

 幸いにも命に別状はないとのことでした。


 彼は猫を預けたあとも、その場を離れられずにいたようでした。


 わたくしは傘を閉じ、そっと彼のそばに膝をつきます。

「……そんなところに座っていたら、体が冷えてしまいます。立派な戦士は体調管理も大切ですわ」

 わたくしは、持参していた薬草の包みから清拭用の布を一枚取り出し、濡れた肩にそっとかけてあげました。

 彼は一度、目線だけをよこして――そのまま、わたくしを見つめました。


 そして。


 彼の肩が小さく震えました。

 嗚咽をかみ殺すように顔を伏せたその瞳から、一粒の滴がぽつりと頬を伝います。


「……あいつら、あいつら……絶対に……許さない……」


 噛みしめるように、ひねり出した声でした。


 その頬を濡らしているのは、果たして雨なのか、涙なのか――わたくしには、見分けがつきませんでした。

 あの優しい瞳だったはずの彼の目は、どこか深く、暗い色を湛えておりました。


「何が、ありましたの……?」


 恐る恐る尋ねたわたくしに、彼は唇を噛みしめながら答えました。

――猫に餌をやっていたところを見つかってしまい、自分だけでは飽き足らず、その猫にまで面白半分に暴力を振るったのだと。


 わたくしは、胸の奥がふつふつと煮えたぎるのを感じ、立ち上がりました。


「許せませんわ。抗議してまいりましょう」


 しかし、その瞬間。

 彼の手が、わたくしの腕を強く掴みました。


「……おまえは、何もするな」


 その顔は、鬼気迫るような表情で――

 何かを決意した者の、それでした。



 翌朝、わたくしたちは王都へ帰る馬車へと乗りましたが、

 レオンハルトの姿は最後まで見えませんでした。


 車中で、兄ユリウスから耳にした話では、

 彼に暴力を振るっていたあの大柄な少年は、レオンハルトの実の兄だったそうです。


……わたくしは、何も返すことができませんでした。

 怒りとも哀しみともつかぬ、燻るような想いだけを胸に抱いて、帰路につきました。



 その後、わたくしは四年ほど、軍事演習の旅程に同行いたしました。

 赴けば必ず、レオンハルトと顔を合わせる機会がありました。


 年々体格も良くなり、力をつけていく彼。

 訓練の場で動物に気を取られるような姿は見せなくなりましたが、

 それでも早朝や夕刻には、小さなパンをひとつ握ってふいと姿を消し、しばらくして手ぶらで戻ってくる姿を何度も見かけました。


 どこへ行って、何をしているのかを尋ねても、

「うっせえな。なんでもいいだろ」と、ぶっきらぼうに返されるばかりでしたけれど――


 あの雨の日から、彼の中に変化があったのは確かです。


 わたくしもまた、あの目を見てからは、自分の力を高めねばと剣や魔法に励むようになりました。

 大切なものを守るためには、強くならなければならないと、初めて本気で思ったのです。

 あの瞳を二度と見ないために。あの痛みに、ただ立ち尽くすばかりではいけないと――そう思ったのです。



 十三の歳、冒険者としての道を考え始めた頃――

 ある風の噂が、わたくしの耳に届きました。


 レオンハルトが、家を出たのだと。


 ユリウス兄様いわく、彼は実の兄とその取り巻き数名をまとめて殺しかけたらしく、本来ならば指名手配されてもおかしくない事案。

 けれど後継者の失態を外部に知られぬため、家中で揉み消されたのだと。


……兄様の言葉には、時折、わたくしには知り得ぬはずの情報が混ざっていることがあります。

 どこから、どうやって手に入れているのかまでは教えてくれませんけれど。


……その真偽までは、わかりません。


 ですが、もし本当にそのようなことがあったのだとしたら――

 あの猫を守れなかった無力なあの頃の自分と決別し、

 何かを守るために力を奮ったのではないかと。

 わたくしはそのように、想像してしまうのです。



 雨が降っておりました。

 自室の窓を細かに打つ雨音を聞きながら、わたくしはティーテーブルに向かいます。

 紅茶にミルクを注いだそのとき、

 ふと、白く揺れる液面を見つめながら、思い出すのです。


――あの不器用なやり方でしか、優しさを示せなかった少年のことを。


 どこかで元気にしているかしら。


 彼が“狂獅子のレオ”として名を知られるようになるのは、

 もう少しあとの話――

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