第5話 お掃除ついでに、大討伐
朝のギルドは、ちょっとだけ混んでいた。
ティエナは背伸びをしながら掲示板を見上げ、Fランク専用の依頼票をじっと眺める。
「うーん……草刈り、荷物運び、ペット探し……うわ、みんな地味……」
「まあ、Fランクだし。そもそもそれしか任せられないってことでもあるよ」
肩の上のノクが、冷静に告げる。
「でも、宿代くらいは稼がなきゃ。……あ、これどうかな?」
ティエナが指さしたのは、古い文字で書かれた紙。
《水路清掃/スタト東区:現役水路部分のごみ・苔除去》
報酬:銅貨80枚 期限:即日可 備考:旧水路区画は立入禁止
「水路の掃除、ね。水使うし、わたし向きかも……!」
受付カウンターのクラリスが、ちょうどティエナに気づいて微笑んだ。
「その依頼ね、ちょうど人手が足りてなかったの。地味だけど、市からの評価にはつながるわよ。その近くにある旧水路は立ち入り禁止だから近づかないようにね」
「はいっ、大丈夫ですっ!」
(大丈夫じゃない予感しかしない……)とノクがぼそり。
現場の水路は、想像以上にひどかった。
苔、ゴミ、枯葉、そして流れの止まった水たまり。悪臭まではいかないが、確かに人の手が入っていない感じがぷんぷんする。
「これを手作業で掃除したら、そりゃ一日コースだよね……」
「でも、わたしには権能がある!」
ティエナは袖をたくしあげて、指先から小さな水流を生み出す。
「《清流の手》!」
水の糸が苔を剥がし、ゴミを押し流し、どろどろの水を澄ませていく。
「おおー……これ、気持ちいいね。権能で掃除って、なんか楽しい!」
「やっぱり掃除というより、洗浄の儀式に近い気がするんだけど……」
ノクが呆れながらも、ふんふんと鼻歌まじりに水路の端をチェックしていく。
水路は幅一メートルほどで、街の東側に沿って伸びていた。ざっと三百メートル以上はありそうな長さだ。
権能を使いながらの作業とはいえ、細かい詰まりや泥の除去にも気を配っていたが、それでも十五分ほどで、現役水路部分はすっかり綺麗になった。
通りがかりの市民が思わず立ち止まり、「なんだあの子……」とぽかんとしていたほどだ。
「……あれ、冒険者?」「すごいな、あの子……」と通行人たちがざわつく声も聞こえた。
「じゃーんっ、終わりっ。……あとは、うん、あの奥にある封鎖された旧水路……ついでにあそこも掃除しちゃおうか!」
「ダメだよティエナ、そこは入っちゃ……」
「でも、ここまでやったんだし……ちょっとだけ、様子見るだけだよ?」
封鎖された旧水路の入口には、かろうじて札がぶら下がっていたが、風で落ちかけている。
ティエナはそっと水で湿気を与え、鍵代わりになっていた板を柔らかく外した。
「……わ、空気がぜんぜん違う」
中はひんやりとして、どこか鉄の匂いと古い苔の香りが混ざったような臭気。
「暗いね。ノク、灯りお願い」
「まったくもう……《灯光球》」
ノクの口元から浮かんだ小さな光の玉が、周囲をほのかに照らす。
旧水路は現役部分よりも狭く、天井も低い。壁面にはびっしりと苔が生え、ところどころに古い木の杭や錆びた鉄管が突き出していた。
ティエナは慎重に歩を進め、所々に溜まった泥や漂っている木片を、水流で横に押しやった。
狭い分、音が反響する。
水のしたたる音、足音、木片がこすれる音……そのすべてが耳に残る。
途中、腐った布の切れ端や骨のような何かも混ざっていたが、ティエナはあえて目をそらした。
「人が長く入ってなかった感じ……あるね。これは確かに立入禁止って言われるわけだ」
ティエナはさらに旧水路の奥へと足を踏み入れるが、そのときノクがふわりと浮かび上がり、眉をひそめた。
「……ん、ちょっと変な感じ。空気、重い」
「……たしかに。ミアズマ、かな」
ティエナは少し顔をしかめて、周囲の淀んだ気配に目を凝らす。
「マナが腐って、瘴気になるやつ。魔物が出たり、病気のもとになる……って、教わった」
「うん、まさにそれ。僕みたいなマナ生まれには、相性が最悪なんだよね……感覚がぐにゃぐにゃする」
ノクは片翼をぐるぐると回し、くしゃみをするように体を震わせた。
「……あー、やっぱちょっと調子くずすなぁ。悪化する前に清めておいた方がいい」
「了解。《澄流の膜》!」
ティエナの周囲に、水の膜がふわりと広がった。
ゆるやかな光の帯が渦を描くように、周囲の空気をなぞっていく。
その気配だけで、胸の奥にこもっていた息苦しさが少し和らぐ。
「よし、これで……しばらくは大丈夫そうだね」
「うん、ありがと。……助かる」
「このへんもついでに掃除しとこう……《清流の手》」
水の糸が泥を洗い流し、道の端へと流す。道が少しずつ歩きやすくなっていく。
「なんだか、昔――女神だったころに通っていた神殿の回廊を思い出すな……。似たような湿気と空気だった気がする」
「そんなとこ、よく覚えてるね……」とノクが呆れ声をあげた。
足元の水たまりに、ぽちゃん、と何かが沈んだような音がした。
「ノク、今の……」
「聞こえた。いるよ、何かが……」
ティエナがそっと身構える。
水たまりの奥、汚泥の向こうで、赤黒く濁った目が――
「……ネズミ? ちがう……これ……魔物だっ!」
瞬間、何かが跳ねた。泥の中から飛び出したのは、全長五十センチほどの腐れた毛並みを持つ巨大な鼠――
その体には赤黒い斑点、口元からは涎のような毒液が滴っていた。
「うわっ……っ、こっちに来る!」
ティエナはとっさに《水の壁》を展開する。だが、鼠はそれを躱し、壁の脇を素早くすり抜けて突進してくる。
「速っ……!」
ティエナは即座に《水流の刃》を作り出し、振るう――が、濁った体毛に弾かれ、威力が吸収されてしまう。
「えっ、効いてない……!?」
「それ、濁水の膜だよ! 体を覆ってる水の層、マナが腐って防御膜になってる! 水の攻撃は通じにくい!」とノクが叫ぶ。
「だったら――これでっ!」
ティエナは即座に弓を引き、狙いを定める。視線はぶれない。
ビュンッ――!
放たれた矢が、一直線に飛び、エンラットの眉間を正確に貫いた。
鼠の動きが止まり、ぐらり、と揺れて泥の上に崩れ落ちる。
ぐらり、と揺れた体が、泥の上に崩れる。
ティエナはしばらく肩で息をしながら、その様子を見つめていた。
「これが……エンラット……」
ノクが頷く。「放っておいたら、繁殖して旧水路が巣になるところだったね」
「うん……見つけられて、よかった」
ティエナは小さく息を吐くと、そっと水の流れを手に乗せて言った。
「お掃除ついでの、大仕事だね」
そのときだった。
水の奥、壁の隙間、排水口の先――
至るところから、ぞぞぞ……と湿った音が響き始めた。
「ティエナ……音、してる」
ノクの声に合わせて、光の届かない奥から、ギラリと光る無数の目が浮かび上がる。
チュ……チュチュ……チュウウウウ……
湿った足音とともに、赤黒い斑点を持つ腐毛の鼠たちが、次々と姿を現した。
「うそ……まだ、いるの……!?」
数え切れない数のエンラットたちが、水音を立てながら、旧水路の奥からぞろぞろと現れる――!
――湿った音が響く。
ティエナは弓を構えたまま、息を潜める。
水面の反射、天井の雫、空気の濁り――すべてが不穏だ。
ノクの《灯光球》が旧水路の奥を照らしている。その光の中に、赤黒い毛並みと濁った目の群れが、じりじりと這い出してきていた。
「……来る……っ」
数体。まだ一斉には来ない。でも数の差は明らかだ。
ティエナは冷静に矢を番え、近づく一体を正確に射抜く。
ひとつ、またひとつと数を減らすが、倒しても次が現れる。
「ノク、数が……減らない……」
「増えてるな……しかも……なんか、やりづらくなってきた……」
ノクは灯光を維持したまま、肩の上で辛そうに目を細める。 マナの流れが重く、魔力の感触が不安定になっている。
「……ミアズマが濃くなってる。ちょっと本気は出せない……」
足元の泥が跳ねる。反応して振り向いた先に、一体が素早く跳びかかってきていた。
ティエナは咄嗟に身を翻し、矢を放つも間に合わない――
――そのとき。
横から火球が飛び、獣の体を吹き飛ばす。
続けざまに細剣の一閃が閃き、別の個体を貫いた。
「ティエナさんっ! ご無事ですの!?」
スカートを翻し、レイピアを構えた少女が、ぬかるんだ通路に立っていた。
金の巻き髪と真紅の目。息を整えながら、イグネア・フレアローズがティエナの前に立つ。
「イグネア……さん……?」
「これほどの数が集まっているとは……さすがに、油断しておりましたわ」
ティエナは素早く周囲を確認しながら、隣に並ぶ。
「炎は……?」
「火球は小さく抑えていますわ。ここは市街地の下ですから。無闇に燃やしては洒落になりません」
再び数体が迫ってくる。イグネアはレイピアを構え、正確に急所を突いていく。
ティエナもそれに合わせて矢を連ね、波状の群れを次々と撃退する。
だが。
ふと、イグネアの眉がわずかに動く。
「……動きが、変わってきていますわね。今の、挟み込み……?」
すぐに別方向から一体が飛びかかってきた。
それをレイピアで受け流しながら、イグネアは呟く。
「この動き……おかしいですわ。まるで、誰かに指示されているような……」
その瞬間。
旧水路の奥、闇のさらに向こうから、ずしん……と水音を伴う重い足音が響いた。
冷気のような瘴気が這い寄り、ノクがわずかに震える。
「っ……なんだ、今の……嫌な気配……」
光の届かぬその先に、赤黒く光る巨大な影がゆらりと姿を現す。
「……エンラット……じゃ、ない……?」
イグネアが息を呑む。
「なんで……こんな旧水路なんかに、このクラスの魔物が……っ!」
瘴気と共に現れたのは、巨大な腐れ毛の獣――
王冠のように背を覆う突起を持ち、足元には汚泥が沸き立っている。
穢鼠王。
その咆哮が、狭い通路を震わせた。