第43話 闇に潜む輪郭
四十四階層への“ゲート”から垣間見えるのは、くすんだ瘴気を放つ沼地だった。
事前準備が無いエリアだ。 もちろん、瘴気への対策などしていない。 防塵用のマスクは持ち合わせているが、もし致死性の毒ガスならひとたまりもない。
一行は唾を飲む。――イグネア以外は。
「……イグネア、やけに落ち着いてるね? 良いアイデアでもあるの?」
ノクがティエナの肩の上から声をかける。
「あら? よりによってノクも気付いてないのですか?」
イグネアが軽く微笑む。
「えっ、なになに? どういうこと?」
ティエナも首を傾げる。
「わたくし達には――」
イグネアはティエナの後ろに回り込み、両肩に手を置いて、にっこりと笑う。
「ティエナがいるじゃありませんか」
「……へ?」
ティエナはぽかんと口を開けたまま、きょろきょろと辺りを見回した。本人も何の事かわかっていない様子だった。
*
一行は“ゲート”を前にして語る。
目の前の“ゲート”は“四十五階層”に繋がるゲートだった。
「いやー、楽勝だったな」
フィンは上機嫌で足取りも軽い。
「沼地のスケートとかもう勘弁だけどな」
レオが肩をすくめる。
「《土竜爪》使う機会あって良かったね」
ノクがぴょこぴょこと浮遊しながら進む。
「ティエナちゃんの、氷撃の槍で沼地凍らせてその上を行く! 一緒に沼地の魔物も凍って一石二鳥! 私もあんな魔法使えるかなー」
オーキィはメイスを胸に引き寄せ、熱く語る。
「それより《清涼の環》による瘴気の浄化でしょう? あれがないと詰み──ですからね」
イグネアは一歩引いたところから全体を見ていた。
みなに口々に褒められて、「どもども」「えへへっ」と合間合間にペコペコするティエナ。
そう、四十四階層はティエナの権能で完封となった。
普通であれば毒の瘴気を放ち、機動力も奪う沼地に苦戦は必至であろう。
だがティエナの権能で瘴気は浄化。歩きにくい沼地も氷撃の槍で凍結させる。滑る対策には、ノクとレオが《土竜爪》で仲間の靴にスパイクを仕込んでいった。これで道中の危険がほぼ無くなった。
そして沼地の底から湧き出るであろうはずの魔物たちは沼地とともに凍結したか、抜け出てきたとしても既に凍結ダメージを負っており、対処は非常に簡単だった。
これが四十四階層の探索の軌跡だ。
*
「さて、問題は次の階層のようですわね」
イグネアが前を見据えて言った。
四十五階層への“ゲート”は、その中に闇をたたえていた。何も見えない。
「どう思う? 四十階層までのように光が届かないってだけか?」
フィンが眉を寄せる。
「どうかなー? 上手く言えないけど……空気が闇を含んでるような? そんな感じがするわねぇ」
オーキィが腕を組んで考え込む。
「ここで唸ってても仕方ねぇ。先行くわ」
レオが腰のランタンを灯してから、“ゲート”をくぐる。
「またあなたは勝手に……」
イグネアが呆れたようにため息をつく。
数秒後、レオがゲートの向こうから手を振って合図してくる。
「はぁ……仕方ありませんわね」
イグネアが肩をすくめ、他の面々もランタンに火を灯してあとに続く。
その先に広がっていたのは──視界を覆う、一面の闇の世界だった。
ランタンの光は、本来十数メートルは届くはずなのに、今は三メートルもすれば光が闇に喰われてしまう。
ノクが《灯光球》を出すも、似たような状況だった。
「光源が先にも必要ですわね……ノク、少し《灯光球》を前方に走らせてもらってもよろしいかしら?」
「いいけど、闇に飲まれたら見えなくなるかもよ?」
「追って炎を放ちますから構いませんわ。……延焼するような物が無ければ良いんですが」
イグネアが魔力を矢状に編み、炎をまとわせて次々と足元に向けて放つ。火矢状の魔法は《灯光球》を追うように等間隔で飛び、それぞれが小さな光源となって周囲をわずかに照らした。
「地面は剥き出しの土って感じだな」
フィンが確認する。
「とりあえず壁のようなものが見当たらないから屋外なのかな?」
オーキィが慎重にあたりを見渡す。
「今更だけどダンジョン内で屋外って変な感じだよねー」
ティエナがぼそりとつぶやく。
「ここまで異常なら……さぞかし、面白いお宝が眠ってるんだろうぜ」
レオは愉快そうに笑った。
*
闇の中の探索は、まさに牛歩戦術だった。
ノクが《灯光球》で周囲を照らし、イグネアがその先に魔法の炎を放って別光源を作る。そうして、光の帯を少しずつ前方へと繋ぎながら進む。
視界が極端に狭いため、接敵の気配を探るにはティエナの《清涼の環》に頼るしかなかった。
その浄化と探知を兼ねた権能は、空気の濁りを払いながら、敵の存在をほんのわずかに教えてくれる。
音もなく、影のように忍び寄る魔物がいた。
シャドウシーカー――闇に紛れて接近し、不意打ちを狙う人影のような魔物。
他にも、湿った気配をまとい、ゆるりと這いずるゾンビのような個体も現れた。
だが、それらは環境に頼った奇襲前提の存在で、純粋な戦闘能力は低かった。
発見さえしてしまえば、撃退は難しくない。
イグネアやティエナがそれぞれ属性魔法の矢を放ち、レオやオーキィが即座に仕留めていく。
フィンの支援も的確で、短い戦闘がいくつも積み重ねられていった。
*
探索にはイグネアの炎が不可欠となり、マナの消耗も激しかった。
だが、かつて紅鷹の翼へ用意された支援物資のマナポーションがここで役立っている。
それでも数時間の探索を続ければ疲労は避けられず、魔法による光源が不可欠な以上、ノクとイグネアは二人そろって眠る必要があった。
他のメンバーが順番に見張りにつき、交代で仮眠を取りながら、なんとか最低限の休息をまわす。
そうして迎えた、三日目のことだった。
風が鳴いているのか、それとも何かが唸っているのか。
低く、地の底から響いてくるような音が、空間全体にじわじわと満ちていく。
ティエナはすぐさま《清涼の環》を展開し、探知の意識を研ぎ澄ませた。
……いる。間違いなく、何かが。
重く、どこか不穏な気配が空気に混じり、肌をじっとりと這う。
地鳴りのようでもあり、呻き声のようでもあるその音は、
一方向ではなく、周囲一帯――全方位から聞こえていた。
「おい……これ、囲まれてるのか?」
フィンが低く呟く。声にこわばりが滲んでいた。
「一回だけ……最大限の《灯光球》を出すよ!」
ノクが決意を込めて、魔力を練り上げる。
その瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
次の刹那、強烈な光が闇を裂く――
そして、光に照らされて姿を現した。
それは、空に浮かぶようにして、彼らを取り囲んでいた。
まるで人の姿を模して作られた、偽りの像のように人の形をした、だが決して人ではない何か。
無数の、ゴーストたちだった。
その闇は、すでに音をも呑んでいた。
浮かび上がった人型の影たちは、地に足を着けることもなく、わずかに揺れながら宙に留まっている。輪郭はぼやけ、瞳もなく、ただこちらを“見ているような”気配だけが突き刺さる。
死霊系なら、と、ティエナが《清涼の環》を展開し浄化を試みるも何の反応も示さなかった。死霊でも、瘴気でもない。……ならば幻覚の類かもしれない。そう結論付ける。
仲間たちが武器を構える。触れれば実体があるらしく、斬撃や魔法が当たるたびに影は霧のように崩れ落ちた。
だが、いくら倒しても終わらない。霧散したものが再び湧き上がり、静かに、しかし執拗に包囲を続ける。
決して物理的な反撃を仕掛けてくるわけではない。だが、触れられた瞬間、凍えるような悪寒が走り、視界が揺れる。
それは間違いなく、精神そのものを削る攻撃だった。
回復魔法では癒せず、ただただ静かに、確実に心を蝕んでくる。
攻撃、後退、また攻撃――じわじわと場所を移しながら、なんとか包囲を振りほどこうとする一行の視界の中に、ふと、異質な“静けさ”が割り込んだ。
それは、廃墟めいた祠のような石の構造物。
その中央に据えられた一脚の長椅子に、白骨化した“何か”が腰を掛けていた。
骸骨――それは明らかに他の影とは違っていた。
まるで彫像のように動かず、手には欠けた剣。頭を垂れたまま、全く気配を見せない。……しかし、どこか、視線だけがこちらを向いているような錯覚が拭えなかった。
その頭部にだけ、わずかに“煌めき”があった。
氷面のように硬質な、赤紫に鈍く光る魔核が、頭蓋骨の中央にぴたりと埋め込まれている。
ティエナはそれを見逃さなかった。即座に一本の矢を弓につがえる。
確証はないが、それを撃たなければならないという、直感に近い確信があった。
その矢が静かに放たれ、空気を裂いた。
骸骨の額を、寸分違わず貫く。
一拍の静寂ののち、影が“弾けた”。
周囲を取り巻いていた無数のゴーストが、一斉に霧散していく。
それと同時に、辺りを満たしていた闇も、まるで絞り取られるように消え失せていった。
空間に、再び“世界”の輪郭が戻ってくる。
石の床、壁の模様、瓦礫の山、崩れた柱。そしてその奥に、ほのかに青く光る、転移装置。
終わったのだ。
闇が――沈黙した。




