第42話 備えあれば、凍結憂いなし
階層転移装置の前に立ち、ティエナたちは最終確認を行っていた。
イグネアが厚手の赤いマントを翻し、毅然とした足取りで前に出た。
「これより先は“凍結回廊”ですが、恐れることはありませんわ」
マントの内側には柔らかな毛があしらわれており、防寒対策は“アンダー”での補給時に万全を期していた。
「対策バッチリだもんね!」
ティエナが拳を掲げる。元気いっぱいの様子に、ノクが小さく首を横に振った。
「……足元すくわれないように慎重にね」
「よーし気合い入れてくよ! フィンくんを死守するぞー!」
オーキィがメイスを軽く掲げて気勢を上げる。
「……なんか、そう言われると逆に嫌な予感しかしねぇんだが……」
フィンは眉をひそめるが、レオが言葉を挟んだ。
「いいから、もう行くぞ?」
レオが先んじて転移装置へと飛び込み、他のメンバーもそれに続いた。
*
転移後、彼らが足を踏み入れたのは、神殿を模したような構造の回廊だった。天井も床も壁も、すべてが薄い氷に覆われている。青白い魔力灯が壁に等間隔で並び、冷たくゆらゆらと光を放っていた。
(初めて来たのに……どこかで見たことあるような)
ティエナは胸の奥がズキッとするような感覚に襲われ、思わず立ち止まりそうになるが、すぐに首を振って振り払う。
「ううう、マントを着てても……さ、寒い……」
オーキィが鼻をすすりながら身を縮める。両手で体を抱え、じっと足元を見つめていた。
「体温保護の魔法、かけとくね」
ノクが小さく鳴くと、白く淡い光の幕がふわりと浮かび上がり、仲間たちの体を柔らかく包み込んだ。肌の奥にじんわりと温もりが広がっていく。
フィンがしゃがみこみ、床を撫でて冷たさを確かめた。
「……やっぱ滑るな、このままだと」
「よし、まかせて!」
ティエナが前に出て、静かに息を吐く。「《清涼の環》……氷を水にするイメージで……」
権能が発動し、淡い光の輪がティエナを中心に広がった。
次の瞬間――バシャアアアアアンッ!
床や壁に張り付いていた氷が一斉に水となり、滴を飛ばして崩れ落ちる。天井からも冷水が滴り落ち、空間全体が濡れた音を立てた。
「……傘欲しかったなぁ」
ノクが身を震わせ、水滴を飛ばす。
「多少濡れるのはいいけど、また凍結しないように気を付けないとね……」
オーキィが周囲を見回しながら言う。
「ここではティエナの周りを離れられませんわね」
イグネアが横目でレオを見る。
「で、そこでなんで俺を見るんだよ」
「あなたが一番勝手にどこか行きそうだからですわ」
「へぇへぇ、チビのお守りをすりゃいいんだろ」
レオは肩をすくめながら剣の柄に手をかけた。
「床が磨かれたタイルじゃなくて良かったな」
フィンがぼそりと呟く。
「これなら滑らずに歩けそうだ」
一行はティエナの権能を頼りに探索を進めていく。途中、祭事用の古びた鈴や笛、用途不明の書物などを収めた宝箱も見つかったが、換金以外で役立ちそうなものはなかった。
やがて一行は、壁のひび割れから冷気が滲み出すような異様な通路へと足を踏み入れる。前方に何かがいることは、言葉を交わさずとも全員が理解していた。
わずかに震える空気。奥から這い寄るように漂う冷気。
それは、あの特異な魔晶獣を否応なく思い出させる。
歩を進めるごとに、空気はさらに冷え込み、魔力灯の灯りさえも歪んで見えるほどだった。
静寂に包まれたその空間で、耳に届くのは、自分たちの吐息と足音だけ。
――ピキィッ。
氷のどこかがひび割れる微かな音がした。
「……来た、クラックフリーズ」
ティエナが静かに息を整え、足を止める。
「あー……できれば会いたくなかったぜ」
フィンは身構えながらも、明らかに警戒心を露わにする。
視界の奥に、鏡面状の盾が浮かび上がる。ひとつ、ふたつ……数え切れない。
二十以上の盾が、通路の霧の中に展開されていた。
「いっぱいいるよぉ、気持ち悪いなぁもう……」
オーキィがメイスを構えながら呻く。
地を這う蜘蛛型の水晶獣たち。天井や壁にも貼りついている。完全に群体での出現だった。
「させないよ!」
ティエナが即座に《清涼の環》を展開し、さらに《清流の手》で霧をかき集める。視界が一気に晴れ、足元の凍結も解除された。
「おらぁぁぁ!」
レオがバスタードソードを振り抜き、通路の射線上にあった鏡氷盾を次々と叩き割っていく。鋭く振るわれる剣筋が、霧の中に一直線の道を開けた。
「そこっ! そらっ!」
オーキィも負けじとメイスを振るい、飛来してきた盾を正確に砕く。盾の反射機能はすでに解析済み――物理なら力押しで打ち破れる。
その二人の脇をすり抜けるように、ティエナとイグネアが加速する。
「この隙……もらったよ!」
ティエナのナイフが、盾を失ったクラックフリーズの胴体へと深く突き立ち、魔核を正確に貫いていく。
「お任せくださいな――」
イグネアのレイピアも鋭く突き出され、もう一体の核を突き割った。
奥からは群体の別個体たちが、氷の槍を何本も一斉に打ち放つ。青白い飛槍が壁を砕き、床を貫くように押し寄せてきた。
「はん、そういう攻撃には……これだろ!」
レオが剣を掲げて叫ぶ。
「現れろ、《ロックバルク》!」
瞬間、槍の進路すべてにごつごつとした岩塊が次々に出現する。氷の槍が岩に突き刺さったとたん、そこから凍結が広がっていき、岩ごと氷塊と化して床に崩れ落ちた。
「顔に似合わず繊細な魔法使えるのね!」
オーキィが冗談めかして笑いながら盾を叩き割る。
あらかじめ確認していた“盾の再生タイミング”と“核の位置”が、的確な攻撃を可能にしていた。
「うるせぇな……切っ先がそっちに飛んでも知らんぞ!」
レオが苛立ったように返しながら、さらに剣を振るって盾をなぎ払っていく。
その間に、ふたたびイグネアとティエナが連携し、防御の手薄になった個体へと躍りかかる。
「これで終わりですわ!」
イグネアが床に炎を叩きつけ、跳ね上がった氷片と共にバランスを崩した個体に肉薄。迷いのない突きでレイピアを魔核へとねじ込んだ。
氷の身体が、深いひびを刻んで砕けていく。
氷の破片が舞い、床に落ちる音が消える。
静寂が戻った。だが、その空気は、数分前までの緊張とはまるで違う。軽い打撲や擦り傷はあったものの、大きな損傷なく、あの魔晶獣を群れごと制圧できた。
「ふぅ……ドキドキしたぁ……」
オーキィが肩の力を抜きながら、口元に笑みを浮かべた。
そのまま前衛の仲間たちに駆け寄り、すり傷や小さな打撲を見つけては、嬉しそうに回復の魔力を注いでいく。
「……今は別の意味でドキドキしてないよね?」
ティエナが訝しげな目を向けると、
「ヒールチャンスくらい許してよ〜、ティエナちゃーん」
オーキィはにへらっと笑って、魔力の余韻をそっと払った。
「フィンも無事ですし――何よりですわ」
イグネアが手を胸に当て、冗談めかして息をつく。
「もう凍結しねーからな!」
フィンが小さく拳を握り、軽口を返すように言った。
「その割に動きはカッチコチだったけどね〜?」
ティエナの指摘に、フィンはむすっとした顔になる。
なんだか妙におかしくて、自然と笑いが漏れた。
ダンジョン攻略という極限空間の中で、こんなふうに笑い合えること自体が、どれほど貴重なことか。
そして、それを可能にしたのは――事前準備と積み上げてきた力だった。
*
氷の破片が片付けられ、静かに歩き出す準備が整う。
ティエナが足元に転がっていた魔晶の魔核に気づき、そっと拾い上げた。
「今回は、わりと綺麗な状態だな。全部拾って帰るぞ」 フィンも周囲に目を配り、青白い結晶をいくつか拾ってティエナに手渡す。
ティエナは静かに頷きながら権能を使い、小瓶の中へひとつずつ収めていった。
最後のひとつを収め終えたティエナが、小さく息をつく。
そのまま仲間たちと視線を交わし、静かに歩き出した。
やがて彼らは、四十四階層へと続く“ゲート”を発見する。
そこから垣間見えるのは、事前情報のない、完全なる未知の領域――
微かに風が吹き出し、霧のような何かが逆流している。
それはまるで瘴気のように、這い寄る気配だった。
背筋にひやりとしたものが走る――確かな、“警告”だった。




