第31話 変わりゆく“安息地”
転移装置から放たれる光が収まると、そこは薄暗い岩壁に囲まれた空間だった。天井は高く、湿った空気が漂う。ここが《アンダー》――三十階層と三十一階層の狭間にある、中継拠点だった。 そこは、かつては数えるほどの焚き火が静かに揺らめくだけだったはずだった。
だが、そこはもう静かな隠れ家ではなかった。
焚き火のまわりには多くの冒険者がひしめき、小屋の隙間には新たに張られた天幕や仮設の木造建築が肩を寄せ合うように立ち並んでいる。かつては無人だった場所にも、人の気配とざわめきが生まれていた。
ティエナが、ぽかんとした顔であたりを見回す。
(……え、ここがアンダー……?)
頭に残っていた「静寂な拠点」という説明との落差に、彼女の視線はあちこちをさまよった。
露店らしき台の上に並ぶのは、魔核や薬草、乾燥肉などの雑多な商品。店主らしき男が、大声で値段を叫んでいる。その後ろでは、テントの設営作業に追われる職人風の男たちが、丸太を組んで仮設の柱を立てていた。
「……人、多いですわね」
イグネアが呟いたその声に、ノクがこくこくと頷いた。
「ちょっと見ない間に…随分と賑わってんな」
「見てフィンくん、あの買取屋!前はテーブルひとつだったのに、今じゃ立派な屋台になってるよ!」
「おおっ? 本当だな。……いろいろ変わってやがる、おもしれえ」フィンとオーキィも見慣れぬ景色に珍しく浮き足立っているようだ。
……ひととおり周囲を見渡したあと、ティエナはふと顔を上げた。
「ねぇ、あそこ。あの看板……《氷冷果汁》って書いてない? 飲み物のお店かな」
ティエナの指差す先には、樽を抱えた女店主が魔力で冷却したらしい果汁をカップに注いでいた。カップからはうっすらと霧が立ち上っている。
「後で行ってみるか。まずは管理局で報告だな」
フィンの言葉にうなずき、一行は人混みの合間を縫って進み始めた。
*
管理局の受付は、以前の面影をほとんど残していなかった。
かつては簡素なカウンターと帳簿だけの空間だった場所に、今は追加の机と椅子が持ち込まれ、数名の職員が慌ただしく対応している。
「……紅鷹の翼への補給物資をお届けに参りました。正式な依頼です。こちらが書類と物資の目録ですわ」
イグネアは整然と書類を差し出し、オーキィは背負っていた袋をそっと下ろした。
「確認いたします。……たしか、彼らは二週間ほど前に四十一階層へと進んだ記録がありますね。現在は未帰還となっております」
職員の返答に、イグネアは頷く。
「では、こちらの補給物資はお預けして問題ありませんか?」
「はい。こちらで責任をもって保管し、本人たちが戻った際にお渡しいたします」
事務的なやりとりを終えると、イグネアは胸元のポーチから封筒を取り出し、静かに仲間たちへ差し出した。
「こちらが報酬です。当家の依頼を正式に任務としてお引き受けいただきましたので、当然ながら、報酬もお支払いいたしますわ」
「……へへ、ありがとよ。これで次の装備資金が少し浮いたな」
フィンが肩を軽くすくめながら封筒を受け取ると、オーキィが「じゃあ次は休憩ね~」と冗談めかして声を上げた。
「では、まずは疲れを癒す場所を探しましょう」
イグネアが静かに微笑む。
*
仮設酒場は、木枠と布で組まれた粗末な天幕の下にあった。
だが、その粗雑さとは裏腹に、中は冒険者たちで賑わっていた。片言の共通語を話す他地方の冒険者の姿も多く、テーブルの上では冷たい飲み物と温かな料理の湯気が交錯している。
ティエナはテーブルに頬をつけただらしない姿勢で、出された果汁ジュースをじっと見つめていた。
「……この一杯が、スタトだったら宿代なんだよね……」
その言葉に、オーキィが苦笑交じりに答える。
「前線価格ってやつね。流通コスト、魔力冷却代、人件費、護衛代、あと便乗値上げ!」
「うう……財布が寒い……」
ティエナが肩を落としつつ、氷が浮かぶカップを覗き込む。
「でも、この氷って……もともとは水だよね。私も、こういうの作れたらなぁ……」
その呟きに、仲間たちが一瞬手を止めた。
「……それってさ、普通にティエナでも氷作れるんじゃないの?」
ノクが興味津々に問いかける。そこにオーキィが口をはさむ。
「水魔法の応用でできるよ。高熱の人が居る治療の場でも、氷を精製する魔法を使うことはあるよ」
「やっぱりそうだよねぇ……? じゃあ、もっと戦いも楽にできたかもって」
その言葉をきっかけに、会話は自然と、あの戦いの記憶へとつながっていった。
「冷却の中和とか、周囲の凍結を防ぐって手もあったかもな。オーキィでもできそうか?」
「うーん、即興で詠唱構築するの難しいよ?」
オーキィは思案顔で紅茶のコップを置く。
「普段から使ってない魔法はどうしても詠唱長くなりますものね」
「じゃあ、凍結速度の方が勝っちゃうかなぁ?」ノクも思い返しながらつぶやく。
「でも、ティエナの能力ならなんとかなるんじゃないの?」
「じいちゃんと森で暮らしてた時は氷とかなかったし意識したことなかったからなー。やってみないとわかんないよ」
ティエナが手元のカップをくるりと回す。
「じゃあこの後練習してみましょうか。いざというときに役に立つのは経験ですわ」
「私も詠唱構築ちゃんと考えておこうかなー」
ジュースの氷が静かに溶けていく音を背景に、それぞれが言葉を交わしていった。
*
しばらくして、酒場の奥のテーブルから、ひそひそとした声が聞こえてくる。
「……おい、今誰か戻ってきたってさ」
「へぇ、まさか紅鷹の翼か? 無事に帰ってきたのか?」
「ホントなら、攻略情報でも聞けるかもな」
その会話に、イグネアがふと顔を上げた。
「……お戻りになったのなら、ご挨拶をしておかなくてはなりませんわね」
イグネアの言葉に、三人はそれぞれうなずいた。軽く席を立ち、酒場を後にする。
周囲のざわめきはそのままに、彼らの歩みだけが静かに空間から消えていった。
*
石畳の通路を抜け、冒険者たちのざわめきから少し距離を取った頃。フィンたちは管理局に向かって歩いていた。
「……あのさ、さっきの話だけどさ」ティエナが歩きながら口を開く。「《紅鷹の翼》って、どんな人たちなの? イグネア、前にその人たちから勧誘されたって言ってたよね?」
イグネアは歩を緩め、ゆるやかに頷いた。
「ええ。あの方たちは、我が家の威信を支える精鋭部隊ですわ。斥候のレクト、魔法支援のシャルナ、重戦士のブラート、回復術士のナリア、そして工兵のロイ。五名構成ですけれど、実戦での連携はまさに精密機械のよう」
「ふぇぇ……名前だけでも強そう……」ティエナが素直に目を丸くする。
「特にレクトとシャルナの連携はすごいわよ。前に戦技訓練を見たことがあるけど、敵が動くより先に対処してる感じだった」オーキィも感心したように加える。
ノクがぽつりと呟いた。「そりゃまあ、Aランクってことは……軍の部隊より強い可能性もあるってことだよね」
「実際、そういう任務を引き受けておられますもの」イグネアが静かに微笑んだ。
「もし私が紅鷹の翼に入っていたら、きっと今のように自由な修行はできなかったでしょうね……おんぶにだっこになってしまっていたと思いますわ」
その言葉に、フィンがちらと横目を向けた。「……あの人たちが、今どこまで行ってるか、聞けるといいな」
話題は、そのまま自然に管理局へと向かっていく空気へと溶けていった。
*
管理局の裏手に設けられた、仮設の医療ブース。
その片隅で、青年が折りたたみ式の椅子に座っていた。
赤茶の髪。革鎧の下、左の腕には、治癒された痕がわずかに残っていた。魔法で閉じたはずの箇所が、まだうっすらと熱を帯びているようにも見える。
イグネアが静かに歩み寄った。
「……ロイ。無事で、よかった」
彼は顔を上げ、わずかに会釈する。
だがその瞳には、安堵も喜びもなかった。
唇が動きかけて、止まる。
「ロイ……?」とオーキィが呼ぶが、彼は首を横に振るだけだった。
何も語らぬまま、ロイはうつむく。
重く、張りつめた空気が診療所を包んだ。
彼の背中が語っていた――言葉よりも、深く、痛ましく。




