第30話 日常のかけらと、旅の続き
誰かの手が、そっと額に触れている。
温かく、かすかに震えていた。
まぶたの奥が、うっすらと明るい。
フィンは、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは……天界、じゃなさそうだな」
掠れた声で呟きながら、薄暗い天井を見上げる。
「どうやら冥界に来ちまったみたいだ……時化た暗がりの洞窟と、鬱陶しい不安そうな顔ぶればかりじゃねえか」
視界に、涙で目元を腫らしたティエナ。口元を引き結ぶイグネア。
そして、目尻に赤みを帯びながらも笑みを崩さないオーキィの顔があった。
「撤退しろって、言ったよな……全滅する恐れだってあった。……でも」
一度、言葉を切り、フィンはゆっくりと目を閉じる。
次に開いたとき、そこには、照れ隠しにも似た安堵が滲んでいた。
「……ありがとうな。助かったよ」
*
「……んっ、ひゃっ……くっそ冷た……!」
フィンの肩口を押さえながら、オーキィが回復魔法をかける。
革鎧は大きく裂け、中のシャツごと血が滲んでいた。
「あーーー革鎧、買い直さねぇとなぁ……」
「次は鉄製にする?」
「スカウトが機動力殺してどうすんだよ」
そんな軽口の応酬を聞きながら、ティエナは安堵の息を漏らす。
――もう、大丈夫だ。
周囲に注意を向ける。敵の気配はない。
洞窟の冷気はまだ残っているが、異常な結界のような感覚はもう感じられなかった。
ふと視線を落とすと、地面に砕けた《魔晶》の欠片が落ちていた。
淡く光るその破片を拾い上げ、ティエナはそっと小さく微笑んだ。
青白くきらめく断面には、かすかにマナの流れが残っている。
「この、青くキラキラしたのが……魔晶の魔核かな?」
問いかけると、すぐそばからイグネアの落ち着いた声が返ってきた。
「恐らくそうでしょうけど……派手に破損してますわねぇ」
そこに、ノクがひょいっと顔をのぞかせた。
「全力で壊しにいってたもんね! 珍しくかっこよかったよ!」
「ありがと。……へへへ」
頬をかきながら笑ったティエナだったが、ふと眉を寄せた。
「ん? 珍しく?」
「ふふっ」
イグネアは笑いをこらえながら、魔核の残骸に視線を落とした。
「だいぶマナが流れ出てしまってるようですけど……使い道はあるかもしれませんし、持っていきましょうか」
*
フィンは肩を押さえながら、ひとつ大きく息をついた。
だが、その横では――
「さぁて、もう一回いくよぉ~? 今度は深部までじんわり癒していくからねぇ~?」
にこにこと笑いながら魔力を溜めるオーキィがいた。
「おい、オーキィ! もういいって!」
「ええー? まだまだ安静にしてないとダメだよ!」
「いや、さっきまでの殊勝な顔つきじゃねえんだよ! その顔、興奮してんだろ! ってことはもう大丈夫だろ!」
「もっともっとヒールさせてよぉ~」
笑顔の裏に隠しきれない喜びがにじむ。
完全に“いつものオーキィ”だった。
「……元気そうで、何よりですわね」
イグネアが呆れたように肩をすくめた。
その直後、フィンはバタバタと立ち上がり、戦闘中に放り出した荷物を回収しはじめる。
「おい、お前ら、もう行くぞ!」
「え〜、もっと治療したかったのに〜」
名残惜しそうなオーキィの声を背に、パーティはふたたび歩みを進める。
*
長く張りつめていた空気が、少しずつ緩んでいく。
洞窟の中には、まだ霜のような冷気が残っていたが、それも次第に薄らいでいった。
「やっと"アンダー"かー。ねーねー? 前のセーフレストみたいに、出店とかいっぱいあるのかなー?」
前を歩くティエナが、期待に胸を膨らませながら振り返る。
「うーん、出店は無いかなぁ? 三十階層まで来れる実力がまず必要だから、冒険者の数もぐっと減るのよね。だからセーフレストの方が賑やかなのよねぇ」
「ええ~!? そうなのー?」
ティエナが抗議するように声を上げる。
「ぼくは保護魔法かけっぱなしで疲れたんだけどー……」
ノクがふわふわと飛びながら、ぐったりと翼を垂らす。
「……宿屋はある~?」
息も絶え絶えに本音が漏れる。
「一応あるぜ?……あんまりオススメはしねぇがな。セーフレストより数段貧相で、値段は十倍ぐらいするしな」
「……これは野宿かなぁー?」
ノクがぼやくように言いながら、ぐったりと肩を落とす。
(お代を出すのは構いませんけど……パーティとしては一緒に野宿ですわよね……)
イグネアは静かに覚悟を決めたように微笑んだ。
「アンダーはセーフレストではあるけど、前と違って静かな場所なんだ。ぽつんと小屋があるくらいで、飯屋なんてまず見かけなかったな」
フィンの言葉に、ティエナが不満そうに眉をひそめる。
「馬小屋みたいな高級宿でも使わない限り、常に薄暗くて、焚き火の明かりがちらほら見えるだけの広場で野宿って感じでな」
オーキィも思い出すように続ける。
「商売人も、ここまで来るのは相当な強欲さんだけだから気をつけないとねぇ。魔核の買い取り業者を選ぶときは、よーく相手を見てからにしないと、足元を見られて買いたたかれちゃうし……」
「運搬の手間を考えりゃ仕方ないが、道具屋の値段も平気で地上の十倍とか吹っかけてくるからな」
ノクがうんざりしたように顔をしかめた。
「――ただ、最近は四十一階層の影響で、少しずつ人も増えてきてるらしい。……今なら、前とは違う空気かもな」
フィンがぽつりと呟いた。
*
話しながら歩いているうちに、洞窟の空気がかすかに変わった。
前方に、ぼんやりと淡い光が浮かんでいる。――転移装置だ。
「……あれが、《アンダー》への転移装置……」
ティエナが足を止め、仲間たちと顔を見合わせた。




