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もと女神は冒険者はじめます!  作者: さわやかシムラ
◇◇ 第一章 ◇◇
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第29話 氷の獣、焔に沈む

 空気が、止まっていた。

 凍りついた空間の中心――氷像と化したフィンの姿を、誰もが言葉もなく見つめていた。


 クラックフリーズの残骸は、なおも白い靄を撒き散らしている。

 霧と冷気の残滓が床を這い、氷の結晶が鈍く光っていた。


 その中で、オーキィが歩み出た。

 氷像へと膝をつき、そっと手を添える。凍てつく頬に触れながら、まっすぐその顔を見つめる。


「……『仲間が死んだときは、置いていけ』――そう、言ってたよね」


 ふっと微笑むような、寂しげな声。


「でも、無理だよ。……そんなふうに、割り切れない」


 声には涙がなかった。ただ、静かに、揺るがぬ想いだけが滲んでいた。


「あなたが生きてるって、わかるから。……まだ、ここにいるって」


 ゆっくりと立ち上がったオーキィの目には、迷いはなかった。

 仲間たちを振り返り、深く息を吸う。


「だから……撤退は、しない。絶対、助けるから」


 ティエナが、まっすぐに頷く。

 イグネアが静かに口元を引き締め、杖を構え直す。

 ノクの瞳が細くなり、霧の動きを注視している。


 なおも残る霧の中に、氷の盾――《氷鏡》が三枚、ゆらゆらと浮かんでいる。


 けれどその光景は、もう恐怖ではなかった。


 凍てつく静寂の中に、確かな熱が芽吹く。


 ――この戦いは、終わっていない。


 戦闘が、再び始まった。


 霧の向こうから、氷の礫が飛んでくる。

 鋭い風切り音とともに、幾筋もの氷弾が空を裂いた。


 イグネアが身を屈めて避ける。背後の岩壁に氷塊が突き刺さり、砕け散った。

 彼女はすぐに状況を判断し、短く息を呑む。


「……火球は読まれている。なら、数で攪乱してみますわ」


 イグネアは右手の指輪に熱を込めるように、そっと触れた。


「――火よ、裂け目となりて、敵を穿て」


 指輪が赤く脈動する。次の瞬間、周囲に十数本の火矢が浮かび上がった。

 霧の帳を炎が切り裂くように、一直線に放たれる。


 烈火の矢が、まるで火の雨のようにクラックフリーズへと降り注いだ。


 だが――


 氷の盾が、動いた。


 三枚の氷鏡が、まるで意志を持つかのように敵本体の前へ集まり、

 火矢を次々と受け止めていく。バシィ、バシィと連続する衝突音。


 数発がすり抜けても、敵本体に届くことはない。


 クラックフリーズは、こちらの攻撃に反応して動いていた。

 霧が揺れ、その向こうに異形の姿がはっきりと見える。


 イグネアが火矢の軌道を見つめ、目を細める。


「なるほど……狙いの多さに耐えきれない時は、本体を守る。防御判断に優先度がある……」


 ティエナが、弓を構えたまま小さくうなる。


「数でもダメか……なら、また手を変えるしかないね」


 再び氷弾が飛来する。

 ティエナが素早く身を引き、壁際へ滑り込むように回避。


 敵は、容赦なく攻撃を続けていた。

 試せる手段は限られている――けれど、まだ打つ手はある。


 ティエナは視線を上げ、霧の奥の敵影を睨んだ。

 霧が、矢の軌道を乱す。空気の流れも読みにくい。


 彼女はひとつ、軽く息を吐いた。


「……うっとうしいなぁ、この霧。だったら……」


 矢筒から一本を引き抜き、指先でそっと撫でる。

 矢尻に、魔力が流れ込む。


「《清流の手》……わたしの手となって、全部、かすめ取って――」


 霧に満ちた空間の中で、水粒がざわめく。

 湿気が収束し、矢に集まっていく。重く澱んでいた空気が、この時ばかりは澄み渡るように感じられた。視界もいくぶんか晴れ、敵の姿がよりはっきりと浮かび上がる。


 ティエナはにやりと笑う。


「そのまま、お返しするよ!」


 弓がきしみ、矢が走る。蒼白の光をまとった一射が、氷鏡へ突き立った。


 ――パリンッ!


 盾が砕ける。破片が舞い、霧が一瞬晴れる。

 ティエナの口元が綻んだ。


「……よしっ!」


 だが――


 残る盾が水を受け止め、はじかれた霧水が床へ散った。


 ピシ……ッ。


 水分を吸った床が白く凍り、氷の膜がじわじわと広がっていく。


 ティエナが咄嗟に後退する。だが足元には、すでに滑る危険が潜んでいた。


 直後、砕けたはずの盾のひとつが、霧の中で再び姿を現した。

 薄い氷の膜が空中に浮かび、静かに結晶化していく。

 ――氷鏡が、再生する。


 イグネアが冷静に声をかける。


「近づくのが、より困難になりましたわね……」


 敵はなおも冷気を撒き、足場は刻一刻と悪化していく。

 霧も、再び立ち上り始めていた。


 ティエナは苦笑を浮かべ、矢を番える。


(うーん、ちょっと余計だったかも)


 けれど、それでも前を見る。

 まだ試せる手は、きっとある。


 クラックフリーズの腹部が、鈍く脈打つように光る。

 次の瞬間、頭上から――


「くるよ!」


 ティエナが叫ぶと同時に、天井から鋭い氷柱がいくつも降り注いだ。

 咄嗟に跳ね退き、イグネアが火球で一つを打ち砕く。


 霧の向こうでは、また霧弾が形を成しつつある。


 そしてそのときだった。


「うわっとととっ……きゃあっ!?」


 オーキィの足がすべり、氷を踏み抜くようにして転倒した。

 身体を支えきれず、メイスを持ったまま膝から崩れ落ちる。


 手から伝わる冷たさに、思わず顔をしかめた。


 彼女は拳をぎゅっと握り、地面に叩きつける。


「もう……もう、どうすればいいのよ……っ!」


 砕けた氷が散り、白い息が空気に溶ける。


 その声を聞いたイグネアが、ぽつりと独り言のように呟いた。


「……これだけ凍ってしまっては、通路ごと焼き払いたくなりますわね」


 一拍の間。


「……それだ」


 ティエナが目を見開く。すぐさまイグネアの元へ駆け寄り、腕をぐっと掴む。


「イグネア、ちょっといい? ……ってことで!」


「えっ、なっ……自殺行為ですわ!? ただの火傷じゃ済みませんわよ!?」


「でも、わたしだったら……大丈夫だから!」


 その目に、迷いはなかった。


 後ろで起き上がったオーキィが、息を整えながら言った。


「……何か、いい作戦があるの?」


「うん。――たぶん、突破できる」


 ティエナは力強く頷いた。

 凍える空間の中で、その声だけが確かに熱を帯びていた。


 *


 クラックフリーズは、観察していた。


 獲物の動き。距離。速度。属性。

 氷の投擲は幾度も試みられ、すでに一体を凍結している。

 しかし捕らえた獲物はまだ“満ちて”いない。捕食には至らず、周囲の個体が邪魔を続けている。


 だが問題はない。


 遠距離攻撃は氷鏡がすべて防ぐ。近接は、床の氷で滑り動きを奪える。

 じわじわと包囲し、冷気で削り取れば――いずれ全員、凍る。


 そう“理解していた”。


 けれど。


 耳に――届く。


「熱よ、踊りなさい。炎の奔流で、私たちの進路を穿て――」


 詠唱の声に、反射的に応じる。 冷気を込めた氷の槍を撃ち出した――


「……やらせない!」


霧の帳を蹴って現れたオーキィが、クラックフリーズの射撃を叩き落とす。


 その瞬間。


 ティエナの矢が放たれた。

 正確に、氷鏡の一枚を撃ち抜く。


「今こそ――《煉獄の奔炎》!」


 ――狩場が、燃えた。


 突如として、通路が“熱”に包まれた。

 氷の床が、爆ぜる。

 視界が赤に染まり、霧が蒸気へと変質する。


 クラックフリーズを狙った炎ではなかった。自らに向けられた敵意ではないと“理解”し、あえて反応を選ばなかった。

 そのため通路は燃え盛り、氷の再生は妨げられ、足元の支配も断たれる。


 火。脅威。接近。


――荒れ狂う炎が、壁も床も、氷の拠り所を溶かしていく。


――だが、これなら、冷気と霧で制御できる。そう判断した。


 まずは熱波を遮るため、残された二枚の盾のうち一枚を前面へ――


 その時、光と熱の轟炎の壁から、敵が踏み込んできた。


 *


 「どいてっ!」


 炎の壁を割って飛び出したオーキィが、叫びとともにメイスを振り抜く。

 力任せの一撃が、氷鏡の一枚を粉砕する。


 盾が砕けたその瞬間、オーキィの脇を、風のようにティエナが駆け抜けた。


 火と蒸気の狭間を走り抜け、最後の盾の目前で跳躍。


 盾が反応しようと動く――だが、


「いかせないっ!」


 追いついたオーキィのメイスが、もう一枚の盾を砕いた。


 ティエナは跳躍の勢いを殺さず、宙を駆け抜けるように――

クラックフリーズの頭頂に輝く魔核へ、狙いを定めた。


「……これで、終わりっ!」


 振り下ろされた一撃が、魔核へ突き立つ。 魔力の核がきしみ、亀裂が広がっていく―― 光が走る。霧が、風に巻かれるように舞い、そして消えた。


 クラックフリーズの身体が、崩れゆく氷殻のようにひび割れていく。


 そして――砕け散った。


 *


 その瞬間、迷宮を満たしていた霧が、まるで命を失ったかのように消えた。

 冷気の奔流が止まり、氷に支配されていた通路が静けさを取り戻す。


 ティエナは膝をつき、浅く息を吐いた。 焼け落ちた通路を見渡すように、静かに顔を上げる。 そして、その視線は――


「……フィン!」


 仲間たちが一斉に駆け出す。

 氷の柱のように立ち尽くす、ひとつの人影のもとへ。


 氷の彫像。

 その内部で凍っていたのは、指揮を執っていた少年――フィンだ。


 イグネアが素早く確認する。

「凍結は……解除されています! 生命反応、ありますわ!」


「よかった……フィンくん、いまヒールするからね」


 オーキィは彼にそっと手を添えると、優しく微笑んでから魔力を注ぎ始めた。

 氷が解けたフィンの肩口には、深く鋭い傷痕が残っている。

 その傷から、凍りついていた血が、ゆっくりと溶けながら滲み出ていた


 ノクが補助の魔法を展開し、淡い光でフィンの体温を守る。


 仲間たちは、ただ無言で見守った。

 何も言わず、けれどその瞳に浮かぶのは――確かな希望。


 そして数秒ののち。


 フィンの指が、ぴくりと動いた。

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